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117.(61/365)生き物は円柱形

昔、国語の教科書に「生き物は円柱形」という説明文が載っていた。
タイトルの通りで、生き物の体は多少の差こそあれ、ほぼ全て円柱形と見立てることができるよね、という説明文である。
教科書に記載されていたのは、確か筆者の考えを捉え、それについて批判的に考えてみようという学習の流れだったと記憶している。
「生き物は円柱形である」という主張に説得力を持たせるために、筆者は事例を挙げて説明していくのだが、その論の進め方について考えるのだ。
当時、この教材を扱う中で、「さすがに生き物は全て円柱形というのは言い過ぎじゃないか。」と思った記憶がある。
でも、久々にふとこのタイトルを思い出して、「人はさまざまな意味で円柱形かもな。」と思ったりする。
人には食べ物を食べたり、呼吸をしたりする口という入り口がある。
そして、不必要なものを排泄する肛門という出口がある。
その構造で捉えると、人は「筒」であると言える。
自分という一見閉じたように見えるもので完結するのではなくて、世界に対して常に開かれていると言える。
上下底面がない円柱形、つまり筒と捉えると、人の体というのはさまざまなものが入っては出ていく、ある意味「流れ」を生み出す媒体と捉えられる。
その場にとどまり続けるということは、人体の構造上、不可能ということだ。
この「入って出ていく」という部分は、さまざまなところで人を形づくる。
呼吸も「入る」と「出る」の往還。
それによる血液の循環。
動脈と静脈。
細胞が新しく作られ、それと同時に壊される。
そんな風に考えていくと、自分という確固たる「個」は果たして本当に存在するのか、と思えてくる。
自分の中は、入り口と出口で世界と接続している。
つまり、自分の中を世界が常に流れている。
自分はそんな世界の入れ物なのではないか。
入ってくる世界は、毎分毎秒少しずつ違う。
だから「自分」も少しずつ変わる。
変わることがデフォルト。
そして、これは物質だけのことではないのではないかと思うようになった。
「感情」などの捉えどころのないような、目に見えないようなものも、この円柱形の「入って」「出る」の構造に則っているのではないか。
「入って」なので、感情もそもそも自分の外からやってきて、ひととき自分の中にとどまっている。
そして、しばらくすると、「出て」いくので、自分からその感情はなくなる。
インドの与格構文がまさにそんな感じのいい表し方であることは、前にも別の記事で書いたように思う。
「私はうれしい」のではなく、「うれしさが私にとどまっている」のだ。
感情は、自分1人で湧き上がるものではない。
世界との関係性の中で浮かび上がってくるものである。
そう考えると、自分の中を流れ続ける世界によって、その時々の感情が流れ込んできては、また去っていく。
そんなイメージが浮かんでくる。
だから、心も体も実は入れ物なのかもしれない。
無色透明で、入り口と出口による通気性もある、そんな入れ物。
出口が塞がると、入る一方で、それはいつしか飽和状態になり、処理しきれなくなったそれらは、体や心の中で腐敗していく。
入り口が塞がっていると、世界を遮断し、今自分の中にあるものだけでやっていこうとするので、こちらもしばらくすると、内部がこもって、腐敗が進む。
適度に入れ、適度に出ていく流れを自分の中にどう保つか。
自分の体を円柱形と捉えた時、どうスムーズな、心地よい流れを構築していけばいいか、という新たな問いが浮かんできた。

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