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18.「何もない」から始めてみる。

焼肉を食べに行ったとき。
席につき、注文を済ませる。
しばらくすると、塩タンが運ばれてくる。
皿の脇にはレモンが添えられている。
トングでタンを一枚ずつ掴んで、網の上に置く。
じゅーっというかすかな音。
鮮やかなピンク色からおいしそうな焼き色になる。
皿に取る前、レモンをしぼる。
ぎゅーっとしぼる。
これ以上は果汁が出ないってところまでしぼる。
全力でしぼられたレモンの残りカスは、残りカスの名にふさわしく、急に老け込む。

そんな映像が頭の中で繰り返し再生されている。
なんでだろう。
理由は明らかだ。

今、ぼくの頭の中が、レモンをしぼった後の残りカスのような状態だからだ。
つまり、どういうことかというと、書くことが何もない。
しぼり出そうにも何も出てこない。
いや、きっと本当は書けることなんて山ほどある。

今日の昼ごはんがなんだったかとか、授業の様子だとか、子どもたちとの会話だとか、職員室での出来事だとか。
「ただ書く」のであれば、本当になんでも、書ける、はずだ。
けれど、実際に、自分自身「書くことがない」と思っている現状。
これは、どうしたものか。
書けばいいじゃないか、昼ごはんのことを。
書けばいいじゃないか、子どもたちとの会話を。

でも、書かない。
「なんでも書ける」とはいえ、やはりそこには、「書きたい」という気持ちが乗っかっていないことや「いいこと書かなきゃ」という囚われ、「書くに値するかどうか」という自分の基準でのジャッなどが絡み合っているんだろう。

そんなことを頭の中でいくら思っていても、画面には、一文字も打たれない。
時間は、有限だ。
「書くことがない」ということを考え続けていると、今度は「書く時間がない」問題も併発してしまうのは、時間の問題だ。

というわけで、「何もない」から始めてみることにした。
本当に、「これを書こう!」と決めて、この記事を書いていない。
今、文章を打ちながら、それと同時に読みながら、そこから生み出される微かなゆらぎのようなものを捕まえながら、次の言葉を紡いでいる状態だ。
こういう今考えていることをそのまま書いていく方法を「ジャーナリング」と聞いたことがある。
手書きではやったことがあるけれど、デジタルでキーボード打ちでやるのは、今回が人生で初めてだ。

以前に手書きでやったときは、すごく興味深い体験だった。
書きながら、書いている今の自分を常に捉え、捉えたものから次に出てくるものに集中して、それを言葉にして、書いていく。
それの繰り返し。
一瞬のスキもない感じ。
ちょっとでも意識が途切れると、途端に集中の世界から放り出される感覚。
あれは、とても短期的なゾーンに近かったのかもしれない、と今になって思う。
手書きであることは、ジャーナリングという行為に絶妙にフィットしていた。
当然だが、思考は、筆記よりもスピードが速い。
書いている間にも、頭ではずっと思考をしている。
だから、書いたそばから、すぐに書かなければいけないことが出てくる。
次々に出てくる。
それを逃すまいと、自分の思考の背中を追いかけ、それを文字に起こしていく。
そんな感じ。

でも、今回キーボード打ちでジャーナリングをやってみて思ったのは、手書きの時ほど、自分の思考を追いかけることに集中できていないなあという感覚だ。
キーボードを打つとき、たとえば、「たとえば」と打とうとするとき、頭の中では、ごく短い時間だけれど、「TATOEBA」のアルファベットを一文字ずつ追いかけている時がある。
そのアルファベット一文字一文字が、思考の意味を無効化してしまうというか、一瞬ぶつ切りにしてしまうような感覚がある。
加えて、打つときには、画面ではなく、キーボードを見ているので、自分の思考が少しのタイムラグはあれど、リアルタイムで可視化されていくその一挙手一投足を見ることができない。
(ブラインドタッチができれば、このあたりはクリア出来るのかもしれないが、あいにくぼくにそのスキルはない)

でも、結果として、「何もない」から始めて、気づけば、ここまでで1600字ほど書き上げていた。
この文章を書こうとする、今からほんの数分前までは、まさかこんな文章を書き上げるとは思っても見なかった。
とりあえず、始めてみてそこからまさに試行錯誤をごく短いサイクルで繰り返しながらここに辿り着いたという感覚。
これはこれで、とても面白い体験ができたなあと思う。
うん、満足。
なんか、スポーツしたみたいな心地いい疲労感。

結論。
やっぱりなんだって書けるんだろうな。
自分の意識が邪魔を、フィルターの役目を果たしているだけで、その意識をうまく剥ぎ取ってやれば、こうして、自分でも想像しなかった自分に出会えるのかもしれない。
またやってみよう。

なんだか、ネタがなくても全然大丈夫かもしれない、というnoteをこの先も続けていくということに対する安心というか、自信というか、そんなものがほんの少しついたかもしれない。

頭の中のレモンからは、今、また果汁が少し出ている。

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