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「オリンピックだけが特別なのか」への答え

 前回で個人に対しては怖がる(感染を避ける)行動に対して広い幅を認めることを提案しましたが、それだけでは感染拡大を防げません。ここでは全体としてどうするべきかを書いていきます。

  その前にこれを書いてる現在、オリンピックの開会式がやってるのですが、その開催や観客数を巡って是非が問われています。
 緊急事態宣言下で「なぜオリンピックが特別なのか?」の声が上がってるのですが、実はこれ、多くの人が誤解しています。今回の緊急事態宣言ではイベントは観客数5割で開催できます。その基準に合わせればオリンピックも有観客で開催できたはずです。
 なぜこんなことが起きたかというと、一つは同じ緊急事態宣言でもその内容がその都度全く違うからです。これでは多くの人が混乱してしまいます。
 もう一つはオリンピックに特別な意味を持つと考えていた人が多かったことです。オリンピックを開催していることで人々の気持ちが緩み外に出るようになるので、オリンピックは開催するべきではない。こういった意見もよく聞かれます。
 それなら甲子園はどうなのでしょう? こういったことを言うとあらゆるイベントがそういった気が緩む意味を持ってしまいます。キリがありません。こういった緩みに関する文言は同調圧力や空気を生み、いじめに似た陰湿な行動を誘発してしまいます。オリンピックを中止しないと人の心が外に向いてしまうというのは自粛警察と根は同じです。
 徹底的に人流を止める必要があるならロックダウンをすべきです。日本は未だに一度もロックダウンをしていない。人流を徹底的に減らすべきだと思うなら「オリンピック中止を」ではなく「ロックダウンを」と訴えるべきです。

 私が考える対コロナの人流の対策としてやるべきことは特定の何かのみを制限しないことです。本当に止めなければいけない時は躊躇なく強いロックダウンをすべきですが、そうでない時は具体的な制限については控えるべきです。感染者数と人流を何十%、どれくらいの間止めるべきかの目標値だけを公表します。あとは個々がそれぞれのできる範囲で行動を変えるだけです。
 特定の行動に対して制限すると「あいつはそれをやっている」「あの行動はよくてどうしてこの行動はダメなんだ」と分断を生んでしまいます。誰も自分の店舗や仕事を失うほどに人流を減らす必要はありません。できる範囲で人流を減らす努力をすればいい。行政はその見通しとなる数字を示せばいいのです。
 オリンピックも何も特別なものはありません。どうしてもダメな時はしっかり止める。そうでないなら特定の行動やイベントを決めずに個々の判断に任せる。中途半端にして同調圧力や空気に判断を任せてしまうのは避けるべきなのです。


まとめ

 コロナ対策をどう考えるのがいいのか、原発事故後の福島で起きたことから考えたことを東京オリンピックを絡めて書いてきました。
 福島もコロナも個人の選択、怖がり方の自由を広く取って個人の感情を大事にしつつ、一方で全体の感情である空気を大きくしないことが大事であるというのが私の結論です。本当に人流を止めるべき時はきっちり法律で止めるべきであって中途半端な個々の判断の集合体である空気に任せるべきではないのです。

 



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