さよなら、偶然に支配された私たち ノクチルの人生を貫く『目的のない』槍

これは自分自身が確か天塵を読み返していたときに偶然思い至った仮説に関する覚書です。

発表(?)は出来るレベルにまでは文章化できるようになったと自分で感じたので、忘れてしまう前にここに書き記しておいて、私の中でさらなる確信に至る、あるいは誰かが私のこのメモを元にノクチルに興味を持つ…ことができるような内容になってはいないと思いますが、理解を深めて同じようにnoteに発展形を記してくれることを祈ってこの途中経過を報告させていただきます。

また、今回は今までと違って段落ごとに内容を変えたり、段落を使うことでまとまったりというような『明らかに読みやすくなる』段落付けは、私自身もまだこの説が錯綜しているような状態にあるので不可能だと思います。ただ、だからといって全て目次を付けずに連ね続けるというのも、なかなかに厳しいところがあります。なので、今回の段落は目次ごとに今までの少し捻った何かサブタイトルめいたものは付けず純粋に『1 〇〇』『2 △△』などの私の思考における番号と直接何を語っているかのような名前。そして分類はある程度個人的には読みやすくなると感じたような分け方(なので前後で同じ内容について語ることもあります)としています。

1.きっかけ

正確な記事の名前は忘れましたが、確かnoteの中の芹沢あさひに関する記事のうちの一つに、ギリシア哲学との関連のようなものが書かれていた(というか芹沢あさひssrのなかにヘラクレイトスのワードが載っていた)記事があったと記憶しています(恐らく公開前に調べてここにURLを掲載すると思います:https://note.com/heisei_revo/n/n4542f8e50b8b)

もちろん、芹沢あさひは子供のようであり、そこにヘラクレイトスらしさがあると言われれば私は確かにそこには同意します。が、それよりも前から私はノクチルの中にあるギリシア哲学らしさというものを模索し続けていました。少しまわり道にはなりますが、まずギリシア哲学として私がここで語ろうとしているものについての説明から始めさせていただきたいと思います。

2.ここで扱うギリシア哲学とは

私がここでギリシア哲学と分類して扱うものは、一般的に高校教科書の中で話されるソクラテス=問答法やプラトン=イデア説のようなものではなく、むしろソクラテス以前に位置する哲学者たち、中でもあえてカテゴライズするのであれば、フランスの哲学者ルイ・アルチュセールがいうところの『偶然の唯物論』あるいは『不確定の唯物論』と言ったものに近いと思います。これはアルチュセールによればデモクリトスに始まる系譜の哲学であり、唯物論と書いてあるからにはその説の中心にあるのは一つは物なのですが、もう一つは偶然なのです。これの一番分かりやすい説明は、恐らくエピクロスというヘレニズム時代の哲学者の説明だと思います。曰く『この世の全ては原子から構成されているもののもしただ一つの原子が必然的に存在しているのであれば、例えばそれがある方向に従うという性質を持っているのであればただ落ちるだけではないか。しかし現実には一方向に落ちていくだけでなく私たちが存在している。これは原子がただ法則に従っているだけではなく偏り(クリナーメン)を持っていて、偶然に方向を変えることにより、他の原子とぶつかることによる』というのです。ただ原子は下に落ちるのではなく、『偶然』違う方向に進んでしまい、その偶然が今ある全ての根源にあるというのです。という説明の仕方をとってしまえば、どこか一つのものに支配されているといった印象を与えてしまうかもしれませんが、そうではありません。偶然であるということは、言い換えれば無目的であるということです。我々はあくまでも無目的に生まれた物であり、無目的に存在しているというのは、例えばヘーゲルの精神現象学に比べればなんの感動もなく、また遥かに受け入れ難いような真実ですが、だからこそ我々はその偶然に喜び、偶然の中を生きる。

このような考え方が、私がこの記事の中で扱うギリシア哲学になります。

3.ノクチルの中にある無目的=偶然の例

例えばノクチルは幼馴染ですが、幼馴染になったことに必然性、あるいは幼馴染であることに理由はあるでしょうか?

私はそうではないと考えます。要するにそもそもノクチルの存在自体が何か目的のあるものではありません。ノクチルが幼馴染として存在するのは近くにいたからという彼女たち自身がどうこうした結果としての理由ではないのです。私たちが語るところのノクチルというのは、そもそもが偶然の産物なのです。

そして浅倉透がアイドルになったのはPが偶然バスに乗り遅れたから、偶然そこに浅倉が通って声をかけたから、偶然そこでPがあのセリフを口にしたから(ここまで言った状態で、さらにはここでネタバレを気にして伏せる必要があるのかと言われれば分かりませんが、念のため)です、アイドルになりたくて、そのために書類を出したりした訳ではありません。

後からどうこう言っても意味はありませんが、どちらかというと、Pと浅倉は巡り会えたなかった可能性の方が高いのではないかと考えても良いような偶然の巡り合わせではないかと思います。

そして、他のノクチルのメンバーがアイドルになった理由は、偶然浅倉がスカウトされたからです。特に樋口円香なんて、浅倉がスカウトされなければ絶対にアイドルになんてならなかったでしょう。

判断材料が少ないような気もしますが、すでにかなりの長さになっているため、勝手ながら次の議論に話を進めたいと思います。

が、その前に一つ問題(というか仮説?)を提起させていただきたいと思います。

『天塵』、そして『海に出るつもりじゃなかったのに』の二作品もまたどこかに方向を見出してほしいPと意識していながらもどこかに向かおうとして『しまっている』(と書くことが適切なのかどうかはまだあまりわからない段階にありますが)という二つの軸から捉えることで何か新しく考え直せる余地があるかもしれません。

4.必然性=メタ視点でのP

いきなりですが少し話を変えます。

私たちがPとして見続けることが出来るのはWINGに勝った時のPとアイドルであり、シーズンに突破できなければ、そこで物語は終わります。

私はこれを『『我々が』Pとしてアイドルと接することができるのは勝った時だけである』つまり『我々がPとして接する限りアイドルたちがアイドルとして成功する(私たちが掲げた目標に到達する)のは必然的である』と言い換えることが出来ると思います。

私たちはノクチルという偶然の世界を必然の中でしか捉えることが出来ないのではないでしょうか。

樋口円香がギンコ・ビローバの中で語った『折目正しさ』というのもこの中で言語化できる要素なのではないでしょうか。

故に私はあえて面倒くさい言語化をしますが、樋口円香とPとの関係は私たちがPとアイドルとして接している時のみ普段のような悪意として、そして私たちが私と樋口円香として、そして『私たちが』ではないPと樋口円香として接している時(故にGRADの私たちが関与できないコミュの中では…という仮説も立てたものの、ここに関しては不徹底)

5.『透明だった僕たち』は誰か

これまでの意見を以て今回の記事のタイトルは『さよなら 偶然だった『私たち』』とさせていただきました。僕たちという風な記述にはPも加わっているのではないかという風に私は考えています。浅倉透とPを通してそのまま『存在しない記憶』が生まれ、PはPとして我々から『透明ではないもの』として作られようとしていると感じます。特に、トレンドでしゃぼん玉摩美々と三峰結華の隣にいる全身Pを見た時にその確信は強く感じるようになりました。

少し荒削りながらも既に3000字を超えているため、今回はこの辺りで終わりにしたいと思います。

どうかノクチルに安らぎが与えられますよう。

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