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美しい振袖とある友人の告白

横井貴子(92年生まれ 神奈川県出身)

 成人式の日、「友人」が琉球紅型の振袖を着ていた。
 鮮やかな山吹色の生地に、花や鳥などが大胆な色づかいで描かれている。まわりの同級生から「すてきだね」「珍しいデザインだね」と褒められていた。友人は沖縄にゆかりはないが、彼女の母が成人式のときに着たものを譲りうけたという。

 友人は、幼稚園から高校まで、神奈川にあるミッション系の私立女子校で育った。
 私立校出身者は地元とのつながりが希薄なひとが多い。そのため、成人式当日は、地元の式典のかわりに、東京の一等地にあるホテルで同窓のつどいがひらかれた。琉球紅型を着ていた彼女だけでなく、ほとんどの人が振袖を着ていた。

 友人がみずからの特権性を自覚するようになったのは、ここ最近のことだ。三歳から一八歳までの時間をともに過ごした学友は、首都圏に住み、高い学費が払え、同じ学校に長く通わせる見通しがつき、キリスト教的価値観に共感する、大学受験で難関私大や国公立を目指させる教育熱心な家庭に育った、勉強にある程度ついていける、女子、だけだった。
 社会に出てから、それが当たり前の環境ではなく「特権」という名のエスカレーターに乗っていたことを知った。
 「井の中の蛙、大海を知らず」「ここが温室だったと気が付くときがきますよ」。当時、聞き流していた高校教師の言葉が時をこえて届き、胸をうった。

 沖縄についても、ゴーヤーチャンプルーが食卓に出る家庭に育ちながら、なにも考えないでここまで生きてきてしまったという。
 友人は、成人するまでは沖縄旅行に行ったこともなく、沖縄にはどこかで見聞きしたステレオタイプなイメージを抱いていた。才能ある歌手を輩出した沖縄アクターズスクールのある土地。毎年、夏になると特番が組まれる沖縄戦。選挙のたびに争点になる基地問題。青い海、白い砂浜のある南の島。海で遊ぶタイプではなかったので、行ってみたいという憧れを覚えることもなく、どこか遠い存在のまま生きてきた。
 仕事をはじめてからは、さまざまな社会問題と向きあう機会が多くなり、個人の生活から社会について考えられるようになりたいと思って、社会学者の岸政彦さんの書籍を読むようになった。そして、岸さんが大阪出身の沖縄研究者であったことから、沖縄のことや「沖縄を語る特権性」についても関心をもつようになった。『マンゴーと手榴弾―生活史の理論』(勁草書房、2018年)を片手に、はじめて沖縄にも行った。そのあとも周辺領域の本を読んだり、石川竜一さんや石川真生さんの写真作品、山城知佳子さんの映像作品などをみたりするなかで、沖縄のなかでも複雑に絡み合う立場があることを知った。
 この春からは、沖縄をフィールドに調査研究している社会学者・打越正行さんの授業を受講するようになり、自分の特権性と立場性を強く意識するようになったという。沖縄の歴史とそこに暮らす人々のありようから、自分とのかかわりを考え、ときに省みながら、想像の翼をひろげるようになった。

 わたしは、いま、ここで、告白をする。

 これは「友人」の話ではない。
 成人の日、琉球紅型の振袖を着ていたのは、わたしだ。

 あの美しい振袖は、いまから四五年前、東京の振袖販売会で祖母がいたく気に入って母のために六〇万円で購入したものだ。母が成人式で着たあと、わたしの手元にやってきた。大丸デパートの箱に入れられた、母の愛された記憶を手渡されたのだと嬉しく思っていた。
 しかし、わたしはいま、あの美しい振袖には、琉球王国時代から続く外からの支配のなかで継承されてきた技術と誇りがつめこまれていたのだと理解する。本土復帰後に海をこえて、内地の東京で高値で販売された意味を考えるようになる。そして沖縄の伝統と歴史のうえに母の記憶が織りこまれた振袖を、沖縄にルーツのない自分が無自覚なまま譲り受けていたのだとわかる。
 知ることで、「美しい振袖」が「美しい琉球紅型の振袖」へと変わる。

 わたしは自分が傷つかないように、振袖を着ていたのは「友人」だと嘘をつくことができる。あるいは「ナイチャー」の特権的ふるまいを省みることなく、珍しいデザインの振袖を着ることができたと、良い思い出にすることができる。

 知識を鎧にはしたくない。柔らかい生身のからだを晒し、ときに痛みを伴いながら学んでいきたい。大人になった祝いの日に、神奈川に住むわたしが琉球紅型を着た意味をどう受けとめて生きていくのか。振袖に「おまえはどんなスタンスで生きていくんだい?」と問われていると思う。

 この夏、わたしは打越正行さん主催の沖縄フィールドワーク調査に行くことにした。内省の旅はここで一区切りにして、人生二度目の沖縄へ行こう。「美しい琉球紅型の振袖」を心に纏って。

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