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沖縄戦を語り継ぐために〜座談会企画③〜

 慰霊の日は、沖縄を想う人にとって、とても大切な日。でも、大切だからこそ、大事な話だからこそ、自分が話していいのかと喋りにくく感じる人も多いと思います。今回は、慰霊の日や沖縄戦について話す機会をつくるべく、座談会を開催しました。慰霊の日の過ごし方や、体験していない沖縄戦を語ることの難しさ、そして、沖縄戦の話を体験者から直接聞ける最後の世代である私たち90年代生まれがどうやって沖縄戦を継承していくのか、について話しています。

参加者
西由良:あなたの沖縄・主宰。那覇市首里出身で、現在は東京に在住。
豊島鉄博:新聞記者。那覇市小禄出身で、現在は福岡に在住。
玉城愛:80年代における沖縄女性の社会運動史を研究。うるま市出身で、現在は沖縄に在住。

それぞれの慰霊の日の過ごし方

西 まずは、それぞれの慰霊の日の過ごし方について聞いてみたいです。

玉城 私は、平和の礎に足を運んだり、沖縄県南部の糸満や海軍防空壕があった豊見城の壕の中に入るツアーに参加したりして過ごしていました。小さい時から、母が連れて行ってくれたんです。

豊島 僕は、学校は休みだけど部活がありました。でも、顧問の先生が12時になる直前に練習を止めて、みんなで摩文仁の方に向かって黙祷していたのは覚えています。平和祈念公園に足を運んだりっていうのは小さい頃はなかったかな。

西 社会人になってからの過ごし方はどう?

豊島 仕事が新聞記者なので、毎年何かしら取材してますね。沖縄全戦没者追悼式に足を運んだり、担当していた地域の式典に参加したりしていました。

西 私は、家でテレビの中継を見て、12時になったら黙祷していました。東京の大学に進学してからは、インターネット配信で追悼式を見るというのが私の慰霊の日の過ごし方かな。1994年生まれで同い年だけど、それぞれ過ごし方が違うんだね。

祖父母の戦争体験 聞けたこと聞けなかったこと

西 家族や親戚から戦争の話を聞く機会はありましたか?

玉城 父方の祖父から直接聞いたことがあります。今帰仁出身で、満州に行くつもりだったと聞きました。41年か42年に招集され熊本へ行ったそうです。結局、満州には行かず沖縄に戻ってきたとか。沖縄戦末期は防衛隊だったらしく、伊江島の飛行場を作った話や、どうやって戦争中逃げていたかを話してくれました。

西 そうなんだ。他に何か聞いたことはある?

玉城 直接はないかな。母方の祖父が、第2次世界大戦が終わってもしばらく沖縄に帰ってこられなかったという話は、親戚から聞いたことがあります。多分、捕まってたのかな。満州にいたらしいです。沖縄に帰ってくるときに港に迎えに行ったこととか、帰ってきたあとの話も聞きました。「本当に、戦争でしんどい思いをしてたんだろうね」って。泡盛飲んでは、大暴れして……という話も聞きました。
あとは、母方も父方も祖母は疎開してたそうです。でも、疎開先での話を聞けないまま亡くなってしまった。これから、どうにかしておばあちゃんたちの足跡をたどることができないかな、というのがずっと頭の片隅にあります。

西 聞けなかった話ってあるよね。私も、父方の祖父は私が生まれる前に亡くなっていて、話は聞けなかった。おばあちゃんは、渡嘉敷島出身で当時11歳。集団自決のことを鮮明に覚えていて、どんなことが起こったか、どうやって逃げたかなど、たくさん話してくれました。おじいちゃんは慶留間島の出身です。どちらも集団自決の生き残りなんですけど。私の父が言うには、「自分のお父さんからはあんまり聞いたことがなかった」そうです。
てっちゃんのおじいさんは奄美出身だったよね?

豊島 そう、確か台湾にいたらしい。当時15歳で、生粋の軍国少年だったそう。予科練(海軍飛行予科練習生)という、日本軍の航空兵を養成するところに通いたかったけれど、年齢制限か何かで入れず悔しくて泣いたと聞きました。結局、入れないまま戦争が終わったので、実際に戦地に行くことはなかったんだけど。祖父は、行かずに済んで良かったっていうよりは「行けなくて残念だった」と、小学生の僕に話していました。めっちゃ行きたかったみたいな感じで。

西 それを聞いて、孫のてっちゃんとしてはどう思ったの?

豊島 なんか……。おじいちゃんの中では、そういう思考になっちゃってるんだっていうか……。正直共感はできなかった。でも、それだけ戦争が与えたインパクトは大きかったんだろうなと思う。おじいちゃんが元気だった頃に家族でカラオケ行ったんだけど、ずっと軍歌を歌ってるわけよ。

西 わかる、私のおばあちゃんも歌ってたよ! 小さい頃の話をするときに歌ってて。孫の立場からすると結構ギョッとしない? 「鬼畜米英を倒せ…」みたいな。

豊島 そうそう。でも、おじいちゃんにとっては青春の歌なんだよね。

西 これがこの人たちの生きた時代だったんだなと思うよね。

豊島 おばあちゃんは対照的だったな。ビリーバンバンの「白いブランコ」や五輪真弓の「恋人よ」とか、70〜80年代のヒットソングをよく歌っていました。部屋には宇多田ヒカルのアルバムもあって。でも、おじいちゃんは、もう止まってたんだよね。カラオケに行っても歌うのは軍歌しかないというか。
こういう話をしていると、おじいちゃんおばあちゃんの戦争の話をしっかり聞いたことはあまりなかったなと感じるな。もっと聞いておけばよかったなと思う。

沖縄戦の継承 記憶を語り継ぐこと 

西 てっちゃんに教えてもらったニュースで知ったのですが、沖縄戦の体験者が県内人口の1割を切っていると。記憶の継承が難しくなっていますが、今の私たちにもできることはあると思います。
自分が聞いてきた沖縄戦の話を誰かに伝えることってありますか? 家族の中で話すことはありそうだけど。

豊島 家族とあんまりそういう話ができていないかな。母方のおばあちゃんは施設に入っているんですが、おばあちゃんが当時どんな思いだったのかとか、もっと聞けることがあったんじゃないかと思いますね。

西 愛さんはどう? 誰かと話すことはある?

玉城 私は、友達に自分が知ったことを「こうだったってよー」って少し話すことはあるけど、頻繁にはないかも。何かテーマを決めて、勉強会とかやってもいいかもしれないですね。

西 学校では平和教育があって、体験者の語りを聞いて、その感想を書いたり、発表したりと、沖縄戦について話す機会があったと思うんですけど。社会人になったら、話す機会ってないですよね。

豊島 本当に。僕も由良もそうだと思うけど、県外に出ちゃうとまずないですよね。

西 だから、6月23日に、一年に一回でも沖縄戦のこととかおばあちゃんのこととか考えないとと思うんですよね。戦争を体験していない私たちがどうつないでいくのか、よく考えるんですけど、皆さんはどうですか?

豊島 沖縄の人って、みんな戦争の体験を聞いたことがあると思うんです。それを文字に残していきたい。インスタなんかだと、みんな日常の話が多くて、なかなか難しいと思うけど、そういうSNSも活用できるんじゃないかな。

西 SNSを使うというのもいいですね。愛さんは継承についてどんなことを考えてますか?

玉城 私、宮森小学校出身なんですけど。1959年6月30日に米軍のジェット機が学校に墜落して18名の方が亡くなった事故(後遺症含む)があったんですね。だから、6月になると、その事故も合わせた平和月間が行われるんです。当時は気づかなかったけど、今思えば、沖縄戦があって、米軍基地が沖縄にできて、ジェット機が墜落して、と沖縄戦とジェット機墜落事故は地続きの出来事で。性暴力の事件だってそうですよね。沖縄戦があって、そこと地続きに今の沖縄があるんだと思います。そういうことも含めて、継承していけたらいいなって考えています。

西 確かにそうですよね。今起こっている貧困問題だって、辿っていけば沖縄戦があるわけで。今を考えるために受け継ぐという視点も大事なんだと、愛さんの話を聞いて気づきました。

豊島 由良は何か考えてることはある?

西 おばあちゃんのコラムを書いた時に考えていたことなんですけど。継承するには、体験者の生の声を聞くのがやっぱり一番ですが、私のおばあちゃんは、認知症で自分の体験を話せなくなっています。おばあちゃんの体験を直に聞くことはもうできないんですよね。でも、その話の衝撃をなんとか残したくて、おばあちゃんから聞いた話と合わせて、話を聞いたその瞬間に私が感じたことも書きました。

豊島 自分が聞いた話と一緒に、自分の気持ちも継承するってこと?

西 そうそう。読んだ人が、私の気持ちを通しておばあちゃんの体験に寄り添ってもらいたい、そう思って私が感じたことも書いたんです。

玉城 由良さんの話を聞いて、おじいちゃんから話を聞いた時の感覚を誰にも伝えてないことに気づきました。自分の気持ちも大切にしたいな。

私が語っていいの? 語りにくさを超えて

西 祖父母の戦争体験って、自分の中ですごく大切なものだから、言葉にするのは難しいですよね。皆さんは、誰かと沖縄戦の話をしたことありますか?

豊島 今、県外のマスコミで働いていて、周りも社会問題に詳しい人が多いですが、沖縄戦について誰かとしゃべったことはほとんどないですね。慰霊の日が近づいたら特集に向けて動きがありますが、職場の人や周りの友人や知人と、沖縄戦のことを話す機会はなかなかありません。県外に来て、どうやったら沖縄戦のことを多くの人に届けられるかを意識するようになりました。

玉城 女性が気軽に集まれるコミュニティーを作りたいって最近考えているんです。そこで沖縄戦の話もできたらいいなと計画は立てていますが、まだ実現できていなくて。

西 沖縄戦のことを喋れる場所って本当に少ないですよね。私もあなたの沖縄を立ち上げるまでは、ほとんど話したことがなかったです。なんでなんだろう。

玉城 私の場合、自分が喋っていいのかなという気持ちがあります。

豊島 わかる! 今日も思ってました。誰かに継承できるほど、家族の話をちゃんと聞いたことないなって。

玉城 間違ったことを伝えたくないし、どういう視点に立って話せばいいのかも難しいです。

西 そうですよね。戦争を体験してない私たちがどういう立場で話せばいいのか、悩みますよね。

豊島 おじいちゃんが「俺は戦争にいきたかった」と言うんですが、全く共感できなくて。でも、当時はそう思わせるだけの教育があったんだろうな、と色々と思いをめぐらせてるうちに、何をどう伝えたらいいのか、わからなくなってしまうんです。

西 難しいですよね。でも、やっぱり、語ることを続けて行かないと、と思います。私が中一のとき、教科書検定問題がありました。集団自決について「日本軍による強制」という記述が消されそうになったんです。おばあちゃんから聞いていた話と違うし、おばあちゃんの友達があのとき何で死んでしまったのか説明できない、当時そう思ったことを今だに忘れられません。だから、継承は続けていきたいです。

まとめ

西 もう2時間近く話していますね(笑)。今日はどうでしたか?

豊島 話していて、おじいちゃんの話をあまり聞けていなかったなと、悔いが残りました。でも、自分にもできることはあると思うので、また考えていきたいと思います。

玉城 私は、ずっと戦後の沖縄の女性たちを研究してきたのですが、沖縄戦のときはどうだったのか、調べてみたいと思いました。その当時の女性たちがどんな歩みだったのか、聞いてみたいです。

豊島 そういえば、『ウナリ叢書:奄美新時代の女性たち』という奄美大島の女性たちの話を書いたシリーズ本に、祖父のお姉さんの話も載っているんです。それをまた読み直してみようかな。直接聞いたことはなかった話が載ってるんですよね。

玉城 私も、おじいちゃんが戦争で体験した話を地域の人たちに話している回顧録が「字誌」に載っています。それ以外にも、親戚が話す沖縄戦の資料は、探してみたらまだまだいっぱいあるんだろうな。私たちが祖父母から聞けなかったこともたくさんあるかもしれないけど、本から知ることもできますよね。

西 お二人ともありがとうございました。今日は、同い年の3人で話せて嬉しかったです。同い年でも、慰霊の日の過ごし方や、沖縄戦に対する視線が違っていましたね。同じ沖縄戦の話でも、聞いてきた話も、その話の受け止め方もみんな違っていて、でもその違いから自分にできることを考えられる、そんないい機会になったと思います。


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