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"感情を感じきる"ということ

「感情を感じきろう」
という言葉を、ここ7・8年で聞くようになった。
もっと前からあるのかもしれないけれど、
わたしの世界にその言葉が入ってきたのが
それくらいということだ。

感情を感じきろう。
というのがふんわりしすぎていて
わたしはいままでピンときていなかった。
まあたぶん正解も不正解もないんだけれど、
やってみたからと言って
「だからなに?」
みたいなことが往々にしてあったのだ。

これだ、と思えるような体験をして、
そしてそれを言語化できないか。
と思い続けて数年。

なにやら突然それができたような気がした。


・感情を感じきるってわからない
・言語化や掘り下げをしてもしんどいことには変わりがない

っていう人におすすめ。


きっかけ

きっかけは些細なことで、
友人から誘いのメッセージが入っていたのだが
返信する気力がなかったために既読にせず
そのまま丸一日ほうっておいたら
他の人と行くからやっぱいいや、と
連絡が来ていた、
というイベント。

わたしは人から断られると
グサッッッッッッ!!!!
とくる。
どちらに非があるとかに関わらず、だ。
まあ最終的に自己嫌悪に走りがちではあるが、
それは今回はおいておく。

ともあれ、今回のことでも
グサッッッッッッ!!!!
ときた。

「傷ついた」
という表現は妙なもので、
わたしはほんとうに胸のあたりが
ずきん、とする体感覚がある。
皮膚というよりも内臓に近い部分が
ずきん、とする。
(痛みの表現はまちまちだけれど)

いつもだったら脳内が
ぎゃーぎゃーとうるさい。
あいつが悪いとか
自分が悪いとか
つらいとか
悲しいとか
もうなんでもいい、
漫画のモノローグみたいに
言葉がウワーーーと止まらない。
そして、わたしはそれを
「感情を感じきること」だと思っていた。


そのときにわたしがしたこと

けれども、ふと、
ほんとに、ふと、
今日は、ふと、
母親が赤ん坊の背をたたくように、
とん、
とん、
とん、
とん、
と、イメージで自分の胸を叩いていた。

そして、
言葉はなくて、
その傷をやさしく、
とん、
とん、
とあやして、
その痛みをただじっと感じていた。

”いたーーーーーい!!”
とかもなく、
ただ、じっと。
あえて言葉にするのであれば
”この辺がこういうふうに痛いな”
とかなのだけれど
言葉もなく、
ただ感じてみた。

とん、
とん、
とん、
とん、
と、あやすように。
傷を抱くように、
とん、
とん、
とん、

たまにふと、
自己嫌悪してたな、
という自己分析が始まったけれど、
なんとなく、
それもそっと横において、
とん、
とん、
という時間。

そしたら、
胸の痛いのがなくなっている気がして、
確認もかねて、
もういちどそのあたりを
(感覚的に)なぞってみた。

そうするとまだ痛みがあったので、
また、
とん、
とん、
を再開する。

とん、
とん、
と当時に
ミニマムな自分が、内側から
傷口のあたりに頬を寄せて
ぴた、と寄り添ってるところも
イメージしてみた。
声をかけるというよりも、
うん、
うん、
と、うなずく感じ。


何度か繰り返して、
うん、痛くないな、と確認。
そして、友人からの断りの言葉を
もう一度反芻してみた。

すると、違うところが痛む。
さっきは左右の肋骨の間が縦にぱっくりだったのが
次はみぞおちにナイフのような深さと形で痛みを感じた。

そうしてまた、
その部分を、
とん、
とん、
とん。

入口のところは
イメージの指先が触れられるけど
中はどうしよう、
指を突っ込んでもなんか違う
はさんでみてもなんか違う
う~~~ん、
とにかくおまえを抱きしめたいんじゃ~~~
と、ぎゅーーーーとミニマム自分で抱きしめてみる。

そんなことをしてるうちに落ち着いて、
また反芻してみて、
を繰り返しているうちに、
友人からのメッセージを反芻しても
へっちゃらになっていた。


ポイント

① 痛みがあった/ある場所に集中する:文章や言葉にしない
② 出すのは感嘆詞とかでいい:言語化しない
③ 痛みがあった/ある場所に集中する:頭ではなくて、痛みの箇所に

心の声、つまり
「あいつが悪いんじゃん!!!」
とか
「わたしが悪いんだよ~~~もうこんな自分やだ~~~」
とか
そういうのはしなくてオッケー。
「声」にしなくていい。

ただただただただ、
痛みに集中。

苦しめってことじゃなくて、
その痛みに、そっと、ぴたっと、
頬を寄せてみる。

痛みって「声」とか「言葉」ではないけど、
その「痛み」に対して
うん、うん、
とん、とん、
って、
まだ言葉を知らない赤ん坊にするみたいに
してあげる。

なんで「声」とか「言葉」にしないかっていうと
「言語」にするだけで
「頭」とか「上」に意識が上がって、
痛みのあった場所から自分が離れちゃうから。

だから、
「声」とか「言葉」とか「言語」にしなくていい。
「アアアアアアアアアア」とかでてきても
それは頭で鳴らさないで
傷口から出てきている想像で。
「アアアアアアアアアア」も結局
「あ」っていう、意味のある言葉というか文字というか。
力をもって脳を働かせるから。

それよりも、
「声」とか「言葉」とか「言語」とか「発音」とか
そういうものにならない「痛み」に集中する。
そしてただただそれに
ぴと、って頬を寄せる。


おわりに


ポイントは三つ書いたけど、
一文にまとめるのであれば
「痛みがあった/ある場所に集中」
して
「痛みやその箇所をあやすようにする」。

たったのこれだけ。
世の人たちは
「なんでつらいの?」
「どうして傷ついたの?」
とか聞いてくるけど
傷が痛んでる時に
ばっさばっさと分解してたら
傷が治るどころか全身傷だらけになる。

…という感覚が、わたしにはある。
人によっては、「なぜ?」の種がみつかって
楽になる人もいるだろうけれども。

泣いてる子供に
「なんで泣いてるの???」
って聞くより先にやることがあるだろーがよ

ってことです。

そして
「つらかったねぇ」
とか
「傷ついたねぇ」
とか
そういう言葉もいらず
「ただ一緒にいてくれる」
ってことが大事なひともおるんやで

ってことなのです。


「言語化」の波にさらされて
すこしずつ心が削られている誰かに届きますように。

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