石けんをチーズだと言い張った母の思い出【Edge Rank 1060】
今から40年前の私が幼稚園児のころ、実家にはおやつを入れておく戸棚があった。子どもが勝手に食べないように手が届かない高さの戸棚。甘いお菓子やしょっぱいお菓子、買ったものや貰いものなど、とにかくお菓子に分類されるものはそこに入れることになっていた。
ある日、その戸棚の中身を整理することになり一度ぜんぶ出すことになった。棚卸しである。兄、私、弟からすると普段は下から見上げることしかできない戸棚の中身がフルオープンになるわけであり、大興奮を超えて瞳孔がフルオープンになっていたと思う。
チョコレート、飴、おかきなどの代表メンバーはもちろん、当時はその存在すら知らなかったマドレーヌなる焼菓子などがゴロゴロ出てきた。ばあちゃんが「お客さんが来たときに…」と押し込んでいた洋菓子は賞味期限が過ぎているものもあったが、生菓子でないものについては食べてしまおうという流れになり山分けパーティーが開始。数の少ないものについては早いもの勝ちだったり、手持ちの菓子とのトレードなどが平和的に行われていった。
菓子の山が減っていくころ、白い紙に包まれた小さな四角形が出てきた。消しゴムくらいの大きさの白い塊。それを手にとった私は、まず匂いを嗅いだ。ほんのり甘い香りがした。でもほんのりだった。たくさんのお菓子と一緒になっていたので移ったのかもしれない。はじめて見るそれが何かわからず、となりにいた母に聞いてみた。母はそれを手に取り匂いを嗅ぎ、チーズだと言った。まだ幼稚園児だった私は母の言うことを信じた。信じる以外の選択肢、思考がなかった。いや、信じたかった。なぜなら一つでも多くお菓子を確保したかったから。
チーズは食べたことがあったので、食べたことのあるチーズとは香りが違うことだけはわかった。念の為もう一度聞いてみたが、母はチーズだと言う。完全に信じた。これは新しいチーズだ。
「ぼくがまだたべたことのないちーずだ」
兄と弟にとられてはいけない。トレードするわけにもいかない。私はそれにかじりついた。
石けんだった。
幼稚園児でもわかる。完全に石けんだった。すぐに吐き出したが、口の中に泡ができた。もちろん泣いた。泣きながら母にこれは石けんだと伝えた。
しかし母は笑いながら再びチーズだと言い「いらないならママが食べるね」と残りの石けんを食べた。そして口を泡だらけにしながらそっとティッシュに吐き出し、小さな声で言った。
「これは石けんチーズだね。美味しくないね。」
もう騙されなかった。ぜんぶ気がついた。完全に理解した瞬間だった。母は石けんをチーズと間違えてしまった。それを認めず石けんチーズという謎の食べ物を生み出して私を丸め込もうとしていると。
冷静に考えれば、もしそれが本当にチーズだとしても食べられるはずがない。いつから戸棚に入っていたかもわからず、常温で保管されていたそれを食べるなんてリスクが大きすぎる。
おそらくいろんな感情と思考が母の頭の中に渦巻いたと思う。ものすごく悪く言えば、父や祖父母に石けんとチーズを間違えたと知られたくない、ましてや子どもに食べさせたなどあってはならない、幼稚園児だから石けんチーズって言っておけばなんとかなるだろうとか、私も食べたから許されるよねとか、まあ自分の母だからこそここまで悪く言えるのだけど、もし自分がミスをしても近い感情と思考に支配されるかもしれないのでなんとも言えないが。
そもそもこんなどうでもいいことをなぜ覚えているのか。小さな石けんを目にするたびに思い出すのでよほど強烈な体験だったのだろう。母も間違えることがあること、石けんを食べてしまったこと、石けんチーズという謎の食材が存在するかもしれないと一瞬でも思ったこと、謎の食材を生み出してまでごまかそうとしたこと、多くの出来事が僕を少し大人にしたことは間違いない。
先日ひさしぶりに母に伝えてみたら、まったく覚えていなかった。いや、覚えているのかも知れないが、忘れたふりをしているのかもしれない。私も今では立派な大人になった。石けんは飲み込めなかったが、母の思いは飲み込んだ。
共同マガジン「Edge Rank」の今月のテーマは「だらだら」です。何かだらだらとエッセイを書いてみようと打ち始めたら、母との思い出が出てきました。たまには何も考えずに打ち始めてみるのもいいかもしれません。
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