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基本的には対岸の火事だから

つらつらと犯罪被害者の講演録を読んでいたら、下記の様な内容を目にした。


「そしてさらに、一口に犯罪被害者といいましても、交通事故の方とそれ以外の方とはちょっと違うのです。」

「そしてまたさらに、犯罪被害者は事件のことに触れないで、事件の前と同じように接してくれるのが、一番精神的に、安定にも繋がるのだというふうに思っています。」

「周囲の人からの言葉や言動に影響を受けますが、「運が悪かったね」というのは、交通事故の人には、これは結構です。しかし、殺人とか性被害の人に対してこういう言葉を使ったら、かえって傷つく場合もあります。」



講演が行われた平成20年(2008年)は娘が生まれた年である。

「交通事故は運が悪かったね。交通事故の人にはこれは結構です。」
こういう考え方が世の大勢である事は承知している。

全ての人に事細かに実態を知って頂くのは難しい。
現実的には不可能だろう。
だって、基本的には対岸の火事だから。

しかしである。

例えば報道関係者や、子供を守る、犯罪被害者を支援すると言っている政治家達がこの理解では困ると言うのが、私の思いだ。

信号の手前30メートルで赤信号を見て、さらにその地点から、70メートル近く離れた先の親子を轢いた。
ノーブレーキで。
少女は死に、父親は重症を負った。

これは運が悪かったのだろうか?
確かに、運は悪かったのだろう。
悪い加害者に出会ってしまったのだから。

なぜか車を凶器にしたこうした事件については、「運が悪かった」「加害者にも被害者にもならない様に気をつけよう」こうした偏った前提が色濃く出る様に思う。

でも、「運が悪かった」「加害者にも被害者にもならない様に気をつけよう」だけで何となく終わらせてきた結果、異常な運転により殺された人たちとその遺族たちは、恨み骨髄に入る思いを黙殺され続けて来た様に思う。

つまり、異常な運転への取締りは中途半端なまま放置され続けて来た。

我々の事件が起きたが2020年3月14日。
世間は本格化しそうなコロナと言う見えない脅威に翻弄され始めていた頃であった。
そのせいもあったのか、悪質な赤無視の加害者により11歳の少女が死に、父親は重症を負うと言う事件について、殆ど報道される事は無かった。

運が悪い交通事故だったからだろうか。

事件から1年が経った2021年3月、一向に起訴処分をしない検察の動きにしびれを切らし、押し黙り続ける事はやめた方が良いのではないかと考えた。
そうは言ってもどの様に発信すれば良いのか分からない。
既知のメディアなどいない。
相手にされなかったら、余計に傷つくと言う思いもあった。
一か八かの気持ちで柳原三佳さんに連絡を取った。

すぐに現場に来て下さり、記事を書いて頂いた。

そこから少しずつ流れが変わった。
記事の影響があったとは思わないが、過剰なまでに保守的な検察が危険運転致死傷罪で立件してくれた。
裁判で闘う覚悟で臨んでくれたのである。

少しずつ、新聞社から問い合わせが来た。

交通事故を取材するのは、まずは新聞記者なのだと、当事者になって知った。
多くは駆け出しの若手の記者が担当する事が多いそうだ。
新聞の記事になると、検察も裁判所もその報道を意識して一生懸命に取り組む。そんな嘘か本当か分からない事に思いを寄せて、取材に来てくれる記者たちには出来る限り丁寧に接する様に心がけた。

記者たちは、どんな娘だったか、どんな思い出があるかなど、情緒的な事を聞きたがる。

我々は事件の悪質性を訴え、ただでさえ軽いと言われる交通事故の処罰相場を超えた処罰を下してやりたい気持ちを訴える。

取材する側とされる側の微妙なせめぎ合いがある。


この辺りのせめぎ合いについては、上記の本が詳しい。
P.106に次の様な記載がある。

記者の業
新聞記者は人の不幸を前提に仕事をしている。それは記者という職業が持つ「業」なのかもしれない。人が不幸な死に方をしたとき、それがニュースとなる。そして、取材経験を積めば積むほど、人が死ぬことに鈍感になっていく記者が多いように思える。


記者も人間だ。しかも、私が出会った記者は皆若い。
組織の中で仕事をしている以上、自分が書いた記事が世に出るフローのルーティーンをはみ出してまで何かを訴えようとは思わない事は分かる。
いちいち感情移入していたら仕事にならないだろう。

しかし、それが残念だし、もどかしい。
交通事故は若手記者のトレーニング案件となり、型通り記事に落とし込む格好のネタになっているが、取材される側もそこに敏感に気が付いている。

結果、「運が悪かった」「加害者にも被害者にもならない様に気をつけよう」程度の訴求力しか持たない、平面的な記事ばかりが世に出る。

多くの被害者、被害者遺族は、再発防止を願うものだと思う。
その事を願う事しか、他に手立てがないから。

しかし、その願いや、当事者が身をもって痛感している課題に光を当てるメディアは少ない。

再発防止の行きつく先は、再発を防ぐ仕組み作りだ。
その仕組みを、社会に実装させるには政治の力が不可欠。
しかし、政治家と言うのはえてして各当事者の声と言うの聞かないものだと、最近の経験で分かって来た。

先生方、曰く

世論を作って欲しい。
仲間を募って結束して訴えて欲しい。
党の委員会や役職の仕事で手一杯なのが実情。

これはざっくり言うと、

超忙しいから、自分に票が動く様な目立つ形で訴えてくれ。

そう言う事だ。

奥行をもった継続的な取材はしないメディア。
何かよく分からないものに忙殺されている政治家。


そうした現実を前に、この1年が無意味なものだったのかと、力が抜ける様な思いで6月を迎えた。











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