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バンド『コンテンポラリーな生活』の歌詞の世界

シンプルでキャッチー、「ゆるふわ樹海ガール」で一世を風靡した石風呂(朝日廉)がボーカルをとるバンド、それがコンテンポラリーな生活(通称コンポラ)である。

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その魅力は色々あるが、なんといっても飾り気のなさ、率直さ、開き直りが挙げられる。世間は色々ゆうとりますが、その通りやってられへんのはそうですが、まあまあそんな恐い顔しないで、変な踊りでも踊ってやり過ごしましょ、そんな肩の力の抜けた感じ、あっけらかんとしたやるせなさに宿るセンチメンタルこそ本物だ。

こうしたいとか特に僕はなかったから、半年も同じことを繰り返しするのさ
ハッピーエンドはどこにもない、逆にバッドエンドも実はない。最後に笑えたら(ライフワーク)

壁にぶつかって、無力を感じて、なんとなく笑って、変わることを受け入れて前に進もうとする態度、ハスキーガールには野暮じゃない真剣さが込められている。


この楽曲もAメロで、普通のラブソングにはない逼迫した自己が歌われる。

幻想が全部消えたって心が死んだって 現実の一つも見れんようさ
オレは異端になるんだって斜に構えてたって 誰も見ちゃいないんだよなあ 
流行りなどしょうもないなってテレビを消したって静けさが虚しくなるんだよな まるで終わらんようだった悲しい話だって金数えて笑ってる

そこからサビにかけて、恋愛というか女の子に対する思いが、自己反省の上で自己を超えさせてくれるものとして求められる。

そう、ハスキーガール 踊ってないで こっち来て さよならしなくていいよ

最後の大サビではぐだぐだ言ってたAメロに決別するかのように、きっぱりと前に進む意志を感じさせてくれる。

ハスキーガール いつか一緒に死のうぜ いまは昔さ
だれも覚えちゃいないよ 野暮はやめにしようよ(ハスキーガール)

グダグダ言わない、野暮天にならない、なれない、悲しみに酔わない美学、それを目指し、生き延びていく。生き延びてしまう。

それで生きるのは大変だ、逃げ道がない。わだかまった感情を解き放つのは音楽以外にはない。そのため、コンテンポラリーな生活は再帰的な歌詞となる。生きるための音楽を死にながら探す、のが歌詞になる(「死なない声を探す」)。

【JK写_大】鉄腕ナインティーン_JK写_大-1400x1400

生活を生き延びる言葉を探し、誤りながらも掴もうとする。それは日常感覚と地続きの泥臭い作業だ。だが、生活のなかから生活を超えた位置へ飛び出し、そこから肯定するものとしての音楽。音楽を掻き鳴らす以外に道はない。抜き差しならない切実さを伴いながら。

ヤンキーもネクラも政治家も飛べない犬も50過ぎたオッサンもこんな地獄みたいな街でガチャガチャうるせえ金にもならん音楽を心の奥底では信じていたんだ!(地獄の沙汰も金次第)

それらは朝日廉の新しいバンド、ネクライトーキーの『音楽が嫌いな女の子』に結晶化している。


うんたらかんたら講釈やめろって 腹立ってどつけば感情ぶっ飛んで
愛してるけど音楽大変ね ムカついて投げだしゃさびしくなっちゃって どうにかこうにか涙は拭いといて
ほらもっとかき鳴らせ(音楽が嫌いな女の子)

いわゆる恋愛や友情のようなテーマがほとんど挙がることはなく、歌われるのはただただ生きていく姿勢だ。(コンテンポラリーな生活の再帰的な態度とは裏腹に、石風呂名義のボカロ曲は虚構と現実の入り混じる拡大していく世界観であり、ネクライトーキーの受け継いでいるのは基本的に後者である。)ゴミ箱のように言いたいことを飲み込んでしまうコンポラの目指すのは、無理のない生き方だ。石風呂作品で展開されるような広がりを準備するような、のびのびとした暮らし方を彼らは模索する。それは好きや嫌いを世間の基準によらず、おのれの感ずるままに表明するありようである。


不純な自分を騙してごめんな 昔を思い出し笑うんだ 嫌いなものは嫌いと言えばよかった それだけだなあ
全部を海に溶かしてしまうような それじゃだめだ
嫌いな人には軽蔑の歌を 好きな人には愛の歌を それくらい素直に生きてもいいもんだ それでいいんだ(さかな暮らし)

さかな暮らしで歌われる「不純」とは、自分に嘘をつく在りようである。「野暮」とは、早急な判断による感情の偽りの謂いである。野暮で覆われたしゃらくさい音楽シーンにて、等身大でギターを掻き鳴らす朝日廉のこれからを見守りたい。


ギター俺!!!




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