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第一章 門司港レトロ事業 北九州市

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概要
門司港レトロ事業(1990~1994年)
発注者 北九州市 

 ヨシモトポールは、1989年の「美しいくにづくりに良い品を」をスローガンとし、デザイン事務所と協力して新分野をつくり出していくことになった。ヨシモト集合ポールの開発を境に変革期に入り「景観事業」へと積極的に参入していった。
 景観製品の最初は、門司港レトロ事業に納入したコンクリートポールで、標準のコンクリートポール製造技術を基に実現した製品であった。アプル総合計画事務所の代表である中野恒明氏から「北九州市・門司港レトロ事業で提案する照明柱を、コンクリート製で考えている。デザインは復古調だが、製品は最高水準の製造技術でつくって欲しい」との要望であった。ヨシモトポールの経験と技術を駆使した「デザインコンクリートポール(品名:レトロポール)」の開発は、このようなきっかけでスタートした。
 北九州市はかつて、港では大陸貿易の拠点として、また、鉄道では九州の玄関口として栄えた門司港周辺の再開発を推進しており、レトロポールはそのまちづくりのひとつとして採用されたものである。レトロポールは、最新の技術を用いたコンクリートポールとして評価され1990年ヨシモトポールとしては二度目のグッド・デザイン賞(その年に新設された「景観賞」の部門)を受賞した。「不可能と思えるものへの挑戦」が成功した例である。この姿勢は以降も継承され、チャレンジ精神がヨシモトポールの景観事業の基となり、製造・設計に急激な進歩を与えることとなった。
 このレトロポールの製造によって、ヨシモトポールはデザインコンクリートポールの本格的生産を考えるようになり、翌1994年からスタートした臨海副都心景観整備事業での受注にもつながることとなる。

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座談会  2012年5月8日(火)
ファシリテーター 篠原 修

参加者
小野寺康 小野寺康都市設計事務所
南雲勝志 ナグモデザイン事務所
三石傑  ヨシモトポール 
北志郎  ヨシモトポール
上椙隆  ヨシモトポール
本城輝美 ヨシモトポール
鈴木幸男 ヨシモトポール

仕事のきっかけ
篠原: デザインポール開発についての座談会を開催しようと考えたきっかけは、ヨシモトポールがポールメーカーとして技術向上に挑戦してきたことを、特に若い社員に知って欲しいと思ったからです。これは、ヨシモトポールの技術開発の歴史というよりは、日本のデザインポール開発の歴史という側面が大きく、非常に大事だと思っています。そこで、一回目の座談会は「門司港レトロ事業(以下、門司港事業)」をとりあげます。門司港事業は、アプル総合計画事務所(以下、アプル)の中野恒明さん(※1)、小野寺康さんが担当。そしてプロダクトのデザイナーは南雲勝志さん、ヨシモトポールの当時の窓口は三石傑さん。南雲さんとヨシモトポールが組んで、ヨシモトポールとしてはデザインポールのデビューとなった事業ですね。それでは、そもそもの仕事の発端から、小野寺さんお願いします。
小野寺 :僕はアプルに1987年から6年間在籍していました。門司港事業は1989年に入ってきた仕事です。丁度その頃は、アプルに皇居周辺道路景観整備事業(以下、皇居周辺事業)と門司港事業というふたつの大きな仕事が入ってきていました。
僕が最初にヨシモトポールに持った印象は、景観事業の心得が無い、いわゆる電柱屋だという印象でした。主力製品はNTTの電柱でしたが、営業に来ていた三石さんは景観事業をやりたがっていました。自社が皇居に近いということもあって、皇居周辺事業を取るために営業に来ていました。

※1 中野恒明 
アプル総合計画事務所所長。都市環境デザイナー・都市プランナー

篠原: 皇居周辺で進められていた道路景観整備事業は、簡単に説明すると東京国道事務所(建設省)が音頭を取って「国と東京都と千代田区の三者が個々に進めるのはおかしいので、統一的考えの下に整備しましょう」という話から始まった事業ですね。その実務担当がアプルでした。
三石さんは、それまではアプルを全然知らなかったの?
三石: 全然知りませんでした。皇居周辺事業に関わるポールの受注を目指して、初めて営業に行きました。
小野寺 :皇居周辺事業は当時はまだ基本設計だったので、そんなに具体的ではなく、目下対応しなければならないのは門司港事業の方でした。
篠原 : 門司港事業に南雲さんはどのように関係するの?
小野寺 :門司港事業のときになぜか中野さんは、基本設計はアプル、照明柱などのプロダクトデザインは外部のデザイナーという整理をされていて、南雲さんを突然連れて来られたようにスタッフからは見えました。
篠原 :南雲さん、アプルとの出会いは?
南雲 :アプルとは新宿モア街整備(※3)が最初の出会いでした。それまでは、中野さんのパートナーだった建築家がプロダクトデザインもやっていました。その後、新たなプロダクトデザイナーを探していたときに、中野さんに僕を紹介したのは、岩崎電気の子会社の、アイインテルナ(※4)という会社でした。
小野寺 :そうですね、南雲さんは新宿モア街整備のときに「黒子の照明」と呼んでいたH形鋼を使った照明をデザインしていました。壁にくっついていて日中は灯具やポールがほとんど見えない照明でしたね。
南雲 :新宿の街が煩雑だったので、照明灯具は見えないように、建物と建物の間に入れました。
篠原 :アイインテルナとは前から付き合っていたの?
南雲 :アイインテルナは、僕が以前に所属していた永原浄デザイン研究所(※5)とタイアップしていて、ちょうど永原さんの事務所を辞めた後、アイインテルナの紹介でアプルの中野さんと出会いました。
篠原 :それで中野さんと一緒に組むようになったわけか。
南雲 :そうです。川崎大師の照明や伊東市の物件も一緒にデザインしましたね。そして門司港事業で初めて、ヨシモトポールと組むことになりました。

※3 新宿モア街整備(1998~2004)
新宿東口駅前の面的な広がりを有する商店街の歩行者空間整備。アプルが監修し、本格的な都市環境デザインの実践プロジェクトとなった。
※4 アイインテルナ(1998~2004)岩崎電気の子会社。
※5 永原浄デザイン研究所 
プロダクトデザイナーの永原浄が設立したデザイン事務所。1980~1987年まで南雲氏が在籍していた

素材の選択
篠原 :レトロポールという名前はいつからつけたの?
南雲 :僕は全然レトロなデザインだなんて思っていない!
小野寺 :「門司港レトロ事業」というのは、北九州市が最初から掲げていた事業名でしたが、アプルではレトロという言葉に抵抗があって、あまり使っていませんでした。
南雲 :レトロというか、最先端をやろうと思っていたんだから。
篠原 :技術的にはそうだけど灯具の傘の部分とかモダンではないよね(笑)
小野寺 :北九州市の方が、ポストモダン(※6)をレトロと感じてくれたわけです。
篠原 :門司港事業の照明柱のデザインには何かモチーフがあるの?
小野寺 :中野さんは南雲さんにデザイン頼むときに、ボストンに視察旅行に行った際に見たコンクリートを使った車道照明柱を参考にされイメージを伝えていたと記憶しています。
南雲 :僕の記憶では、スペインのバルセロナの港の柱も見せてもらいました。
小野寺 :そういう経緯で中野さんがポールの素材はコンクリートがいいと言っていました。港湾地区なので鋼材だと耐久性に問題があるだろうという考えがあったと思います。
南雲 :いや、コンクリートにしたのは、風情がコンクリートの方が合うからじゃなかったかな?。門司港には、使われなくなった鉄道の廃線やコンクリートポールが残っているような場所だったので。

※6 ポストモダン
合理主義なモダニズムの反動として、1980年頃に始まった、多様性・装飾性の回復を提唱した芸術運動。

設計の苦労
小野寺 :三石さんは、中野さんに皇居周辺事業をやる前に、門司港事業をやれと言われていましたね(笑)
三石 :ヨシモトポールとしては、皇居周辺事業を取るには門司港事業をやらざるをえなかった。だけど、コンクリートポールの造形物なんてやったことないから、概算金額も出せないし、どうすればいいのか全くわかりませんでした。
篠原 :そのときは、具体的なデザインはあったの?
三石  最初に渡されたのは南雲さんの手描きのスケッチでしたね。
小野寺 :スケッチと言いつつ、高さや断面の寸法はちゃんと描いてありましたよ。
三石 :スケッチでのやり取りに慣れてなくて、なかなか理解できませんでしたね。
小野寺 :南雲さんのスケッチに関しては言うと、今もそうなんですけど南雲さんはギリギリにならないと出してこない(笑)当時も、確か打ち合わせの前日か前々日に、やっと出てきました。スタッフは明日明後日に持って行かなきゃならないのに、いっこうにスケッチが出てこなくて焦っていました。
南雲:いや、前日ってことはないと思うよ(笑)ただ、今みたいにパソコンが無いから、コピー機で縮小をかけて貼付けたりして、結構時間がかかってたんだよ。
小野寺 :デザイン提出の数日前に、南雲さんがふらっとアプルにスケッチを持ってきました。僕らは、南雲さんからいつスケッチが出てくるかわからないから、事前に僕らなりのスケッチを描いていたんですよ。でも南雲さんが出してきたデザインは、従来のコンクリートポールのプロポーションにとらわれないもので、上段と下段でデザインを変えていました。見た瞬間にレベルが違うのがわかって、アプルサイドは、結局描いていたスケッチが出せなかったんです。中野さんも一目で気に入っていました。

レトロポールのスケッチ
全体のバランスや縦溝のディテールなどのイメージが描かれている。

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南雲 :最初はポールの中間に「門司港」と書いた、ステンレスのベルトをつけようかと考えていましたが、それについては、小野寺さんに猛反対されて結局つけませんでした(笑)
小野寺 :反対した理由は、コンクリートポールの純粋な形がいいと思ったからです。下手に上下を分断するより、一本で通す方がインパクトがあるので。
篠原 :北九州市の人たちには、この初めてやるデザインをうまく説明できたの?
南雲 :中野さんは北九州市の人たちに信頼がありましたし理解を得られたと記憶しています。
小野寺 :もちろん正直に、ヨシモトポールがこのような製品を作ったことがないことを、北九州市の人たちに伝えました。ただ、ヨシモトポールに残っていた資料(※7)があったので、北九州市に「こういう製品をやりたいんです」と南雲さんのスケッチも見せながら説明しました。
篠原 :三石さんは、南雲さんのスケッチをもらったとき、製作できると思った?
三石 :こんなのできるわけないと思いましたね。まず縦溝が深いし、溝のエッジをシャープに出せないし、テーパー率も急すぎる(電柱のテーパー率が1/75 → レトロポールのテーパー率は1/30)
どうやって脱型するんだ? どうやってコンクリートの壁厚を均一にするんだ? 現在の電柱の製造方法では不可能で、検討する時間がありませんでした。
篠原 :どういう製造方法で開発をスタートしたの?
 :母型(外型)に電柱と同じ型を使って、成形型(中子)を分割した型にして試作してみました。

※7 昭和30年代の照明柱カタログ

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型の図面

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装着物と鉄筋位置,縦溝の断面図

01-09B断面図_S

三石 :母型にセットされた成形型にコンクリートを流し込み、横に寝かせて遠心力成形(※8)をする。脱型のときは母型を外した後、成形型を1枚ずつ剥がして縦溝の部分がひっかからないようにしました。
当時の上司からは、営業担当の私と技術担当の北志郎・上椙隆、製造責任者の本城輝美が組み、営業・設計・製造とが一体となりやり遂げろと任せられました。
篠原 :「やってみろ」って任せるのはヨシモトポールの社風?
三石 :この時は社風というよりは、突き放された感じがしましたね(笑)でも、今考えてみれば良いチャンスをもらった。
 :仕事を受けてから、非常に短納期だったので困りました。型枠の製造に3ヶ月くらい時間がかかるので、間に合うか間に合わないかわかりませんでした。型枠や配筋、それに極端に細いプロポーションをどう設計するかが課題でした。
三石 :アプルの方から、3~4日のうちに、製作できるか否かの結論と金額を出すように言われていましたが、私もできる自信がなかったし、技術陣も怖がって話に乗ってもらえなかったから、私一人で悩んでいましたよ(笑)
小野寺 :私は外側からヨシモトポールを見ていた人間ですが、当時は特注品をやったことがなく、工場としてもやりたいと考えていない。三石さんが一人で技術陣や工場を説得して、文句を言われながら駆け回って汗をかいていた印象があります。

※8 遠心力成形
柱体のコンクリートの製造方法。型を鉛直軸周りに回転させ、成形材に遠心力を加えながら硬化させることで、表面密度を高める成型方法。

篠原 :コンクリートのデザインポールなんて、他の会社はやっていた?
南雲 :当時は全体的に景観を考慮したデザインがあまり普及していませんでしたから、そもそもそういうデザインが無かったんじゃないかと思います。
森田 :昭和63年頃のデザインイヤーといわれる頃から、景観デザインがさかんに取り上げられるようになりました。
三石 :門司港事業より前に、他の会社が、千葉県の銚子港でデザインコンクリートポールを納品していたんですよね。。
篠原 :それは見に行ったの?
三石 :見に行きましたよ。ただ、そのポールのデザインは、門司港事業のような造形の施されたものではありませんでした。コンクリートパイルと同じで、寸胴な形でよくパーゴラ(※9)の支柱に使われているものでした。

※9 パーゴラ
つる性の植物を絡ませる日陰棚のことをいう建築用語。日本では公園や学校などにみられ、藤棚などが一般的。

製作の苦労
篠原 :製作の話に戻りますけど、型枠が抜けるとか、抜けないとかの話があって、ヨシモトポールで図面を描いて、それを南雲さんがチェックしていたの?
南雲 :そうです。灯具メーカーとも同じように進めていました。とにかくメーカーは皇居周辺事業を狙っていましたね(笑)
だから門司港事業を失敗したら、皇居周辺事業は受注できないって思いながらやっていたよね(笑)
小野寺 :工場検査は型枠の脱型工程から見に行っていました。わざわざ北九州市の担当者に、群馬工場まで来ていただきました。
三石 :せっかく北九州市から来ていただいたのに、脱型検査のときは型枠から製品がうまく抜けなかったんですよ。
南雲 :皆で脱型の瞬間をヘルメットを被って見守っていたんですけど、縦溝のエッジが型枠に貼り付いて欠けてしまった。
篠原 :検査で欠けてしまって、大丈夫だったの?
三石 :ほとんど欠けていたんですが、うまくいっているところもありました。アルミの成形型の表面がポーラス(※10)(多孔質)だからコンクリートが中に入り込んでアンカー(※11)状態になるわけですね。いくら離型剤(※12)を塗っていても、遠心力をかけるとどうしても孔の中にコンクリートが入り込んでしまう。作り始める前は「離型剤を塗れば大丈夫」だという認識でしたが実際はうまくいきませんでした。

※10 ポーラス
多数の微細な孔(あな)がある状態。アルミニウムの表面に出来る酸化被膜(多孔質被膜)には細かな孔があいている。
※11 アンカー状態
型枠の微細な孔にコンクリートが入り込んで硬化することで密着力が高まる状態のこと。                            ※12 離型剤
コンクリートを流し込む型枠にあらかじめ塗布しておき、コンクリートの脱型を容易にする。

型枠の断面図(斜線部が成形型 60°の角度で6等分されている)

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成形型をはがす様子

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脱型風景

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上椙 :それ以外の理由として、脱型をスムーズにするために、成形型を六分割にしようと型枠屋さんと決めていたのですが、RC(※13)と違って、PC(※14)は引張力を入れるので、コンクリートが収縮するときに縦溝部分に応力がかかり、うまく脱型ができない。引張力を減らしながら、強度を保つという折り合いをみつけながら作っていきました。鉄筋も、中央部胴巻き部分の上段と下段では外径が違うので、円板を間に挟み、上下を鉄筋でつなぐような新しい設計にしました。RCとPCを組み合わせながら試行錯誤して作りました。
三石 :10回くらい試作を行い、シャープなエッジを残した縦溝が表現できるようになりました。
篠原 :設計は変えないで、できるようになったの?
本城 :設計を少し調整しました。通常のポールは100㎏/㎟くらいの引張力をかけるところを、6割くらいに調整しました。
南雲 :その分、強度は落ちたの?
本城 :強度は落ちないように鉄筋量を増やして、PCからRCに近付けていったということです。
三石 :レトロポールのもうひとつの大きな特徴は、アルミ鋳物の開口部を一体化させた点です。これまで、コンクリートポールと開口部が一体型の製品というものはありませんでした。これは、かなり画期的なことなんですよ。もともと電柱の足場受け口も、成形時には一体化されているんです。そういう技術はあったけれども、開口部のような、あそこまで大きいものを一体化するのは初めてでした。
                             
※13  RC(鉄筋コンクリート)
引張力に弱いコンクリートを補強するために、引張力に強い鉄筋を、中に配したコンクリート。                          ※14  PC(プレストレストコンクリート)
圧縮力に強く、引張力に弱いコンクリートの特性に対応するために、緊張材(引張力を加えられている鉄筋)を中に配して、あらかじめ応力を加えているコンクリート。

篠原 :表面仕上げはどうなっていたの?
南雲 :基壇部は、研磨して透明のシリコン系艶消し塗装で仕上げ、上段部はグレーの艶消し塗装でコンクリートの質感を損なわないようにしました。くびれの下で塗装を分けました。

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篠原 :北九州市からの評価はどうだった?
南雲 :脱型検査で溝が欠けたところから始まり、それを含めて「いやあ、これはすごいわ」と言ってくれて、感動してくれました。
篠原 :縦溝が欠けていたのに?
三石 :一部分が欠けて型の方に貼り付いていたんですが、欠けなかった縦溝のエッジの部分は、当初想定した以上のシャープさで成形されているんです。さらに、型に貼り付いててしまった部分を剥ぎ取って元に戻してみました。そうするとピシッとシャープなエッジが出るんです。このシャープな直線は遠心力成形以外では出せない、 脱型品は不完全ながらも、南雲さんもここまでシャープにできるとは思ってなかったんじゃないかな?
南雲 :三石さんが「なんとかこのようにシャープにしますから」と言っていましたね(笑)
三石 :北九州市の担当者が帰られたあとで、型に貼り付いて欠けてしまった破片を接着剤で本体に付けてみたのですが、縦溝の陰影が夜の照明に照らされてクッキリと浮かび上がってくる。その陰影の美しさに感動して 涙が出ましたね。 私としては脱型はうまくいきませんでしたが、可能性は十分で、絶対に成功すると思いましたね!
篠原 :接着した品物を北九州市に納めてないよね?(笑)
三石 :いやいや、それはやっていません。(笑)
小野寺 :そのときは型枠の検査ですから、最終の検査ではないんですよ。だからまず図面通りの寸法になっているかどうかという検査でした。後は脱型してみて、うまくいったねと帰れたら良かったんだけど、結局その日はうまくいきませんでした。ただ、北九州市の担当者は、ゼロから新しい試みをやるんだという気持ちになっていたので、良く理解してくれて「これは大変だ。でき上がったらすごいね」と言ってくれていた。こちらとしても「なんとかやりますよ」と言ってその日は終わり、数日後に、できましたと連絡をしました。
三石 :北九州市の担当者が、すごくいい人で、チャレンジすることを応援してくれていました。この人がいたから最後まで頑張れました。
篠原 :北九州市の担当者が、試作品段階で工場まで見に来るってすごいよね。
小野寺 :あのときは、北九州市の人たちも大事業だと考えていました。だからこちらも失敗できないというプレッシャーがありました。

製作費
篠原 :最初の質問に戻るけど、そんな初めての状態でコストはどうやってはじいたの?
三石 :誰も答えられる人がいませんでした。当時はレトロポールと同じ長さ(6m)の標準コンクリートポール(電柱)が1本6千円位の時代でした。もちろんレトロポールは、デザインをしているから高くしていいんだけど、いくらにしようかと。値段の付け方がよくわかりませんでした。
篠原 :それで、どう見積りを出したの?
三石 :本城が腹をくくって、工場原価で12万円くらいの原価をつけたんです。それで北九州市の担当者に、35万円くらいになると言ったら「オッ、安いじゃん」と言われて「あれだけ苦労したんだからもう少し高くてもよかったのに」と言われました(笑)
篠原 :もっと高く言っとけばよかったのに!(笑)
三石 :電柱を1本6千円で売っている時代ですから、35万円でも200本って言ったら、すごい金額になっちゃうんですよ。
当時の見積書は手書きで、合計金額の欄が100万円の位までしかなくて、合計金額が書けないので、単価見積りで提出した記憶があります。当時はそんなもんでしたね。
篠原 :確かに、あの時代にこれほど斬新なポールが35万円って安いよね。
三石 :でも私にとっては35万円というのは、見積りを書くのに手が震えましたよ。
南雲 :灯具をつけて、最終的にはいくらだったんでしょうね?
三石 :いや、灯具の方が高かったと思いますよ。灯具メーカーの方が場慣れしていましたから。

工場の雰囲気と専門家の評価
篠原 :最初失敗してから、ようやくできたときは、嬉しかったでしょ?
三石 :いやー嬉しかったですね。涙がボロボロ出ました。
南雲 :泣きながら酒飲んでね。(笑)
篠原 :南雲さんも、できたときにはその場にいたんだね。
南雲 :いました。三石さんに「南雲さんがエッジを出せってあんなに言わなければ、もっと楽だったんだよ」って言われましたもん(笑)
 :南雲さんは、鋳物に勝ちたいって随分言っていましたよね。「鋳物よりシャープにきちっとつくりたい」と。
篠原 :確かにコンクリートポールは、エッジがきちっと出てきれいだよね。
三石 :きちっとエッジを出せないと、遠心力成形の意味がないですからね。
小野寺 :僕が印象深かったのは、レトロポールの製造をしているとき、工場のスタッフの人たちが注目していたことです。電柱しかつくったことのない人たちが、あんなものを作るわけですからね。
当時の三石さんは、景観をやるんだって一人で張り切っている感じで、空回りな感じもしましたけど。
三石: 空回りですよ、完全に。誰にも相手にされませんでした。
 :そうでもなかったよ。実際、デザイナーと初めて関わったのは、ジイケイ設計(※15)(以下、GK設計)のヨシモト集合ポール(※16)でした。ヨシモト集合ポールがあったので、デザイナーとどのような会話をしながら進めていかなくてはならないか、ある程度わかっている人もいました。
鈴木 :ヨシモト集合ポールの時に、デザイナーがこうしてほしいと言ったものを、ヨシモトポールの技術と製造で作ることを初めてやりました。
三石 :景観事業にたいして前向きな見方をする人もいたし、逆にこんなの商売にならないと、アレルギーになってしまった人もいます。両方なんですよね。
篠原 :でも、こうしてデザイナーと組んでやると、ものすごく製品に対しての付加価値が上がることがわかったわけだね?
三石 :そうですね。
南雲 :レトロポールがうまくいっていたので、これからコンクリートポールの時代が来る雰囲気でした。どんどんコンクリートポールをやろうと言って、デザインコンクリートポールの製造ラインを増やしたくらいだもんね。
でも結局、中野さんが臨海副都心景観整備事業でやったくらいで、あまり普及はしませんでした。

※15   ジイケイ設計
GKデザイングループ。都市、公共施設、ファニチャーなど環境デザインの計画・設計を主とするデザイン会社。                ※16   ヨシモト集合ポール
信号機と照明が一体となったヨシモトポールの製品。景観に合せて、全四種類のタイプが選択出来る。            

トラスタイプ

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コンテンポラリークラシックタイプ

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フレームタイプ

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パネルタイプ

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篠原 :門司港にレトロポールが建って、業界の反応はどうだったの?
三石 :グッド・デザイン賞(※17)に出展したときに、コンクリートでこんなものができるなんてすごいと評判になりました。今でも覚えていますが、西沢健さん(当時GK設計社長)から、会社に突然電話がかかってきて、レトロポールの名称について「お前、なんであんな名前にするんだ。レトロと名付けたら評価ができないだろ!」って言われました。            

※17   グッド・デザイン賞
通商産業省(現・経済産業省)が一九五七年に創設したグッドデザイン商品選定制度のことで、現在のグッドデザイン賞。

篠原 :西沢さんは当時、グッド・デザイン賞の審査員だったのかな?
三石 :そうです。それで「すごいものつくったなぁー」と褒めてくれました。誰がデザインしたのかと聞かれたので、南雲さんの話をしたら「すごいやつがいるんだな」と言っていたのが、とても印象に残っています。
篠原 :グッド・デザイン賞に応募しようというのは、誰が言ったの?
三石 :それは私の上司の赤尾と中野さんと南雲さんです。前にヨシモト集合ポールでGK設計とグッド・デザイン賞(公共空間部門大賞)を取っていて、レトロポールも出そうということになりました。
コンクリートでこういうことができたので、非常によかったです。会社全体の活性化につながりました。
小野寺 :電柱をつくっていた現場の人が「こういうのだったらまた作りたいね」と言っていました。
三石 :ヨシモトポールでは、今までは「俺が作ったんだ」と言えるものがなかったんですよね。形が同じだから、ヨシモトポールの電柱なのか、他社の電柱なのかよくわからないし「自分がどこで社会とつながって、貢献しているのか?」っていう形が見えてこないんですよね。ところがレトロポールのときに、「俺はここのエッジをきちっと出したんだ」とか、「石目はこういう風に出したんだ」とか言えるようになったことで、仕事をやっている自分の存在価値も感じられるようになった。それが非常に活性化につながりました。今までは、子供に「これをお父さんが作ったんだ」って言えるものがありませんでした。でもレトロポールでは具体的な形として話が出来るし、子供もその存在価値が理解できる。製品に対し愛着が持てるようになったんですね。

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篠原 :じゃあ、やる前と後では随分会社の雰囲気が変わったんだね。
三石 :全然違います。それで儲からなかったら、ガクッときたかもしれないですが、利益もしっかり出たので!
森田 :三石さんは、あのとき初めてヨシモトポールに技術力があるって確信したんだよね?(笑)
三石 :そうそう! それまでバカにしていたけど! (笑)
篠原 :他のメーカーの反応はどうだったの?
三石 :みんなびっくりしていましたよ。他のコンクリートメーカーも、門司港に見に来ていて、「どうやって作ったんだ?、これは絶対作れないな」と言っていました。とにかく、コンクリートポールの業界には、すごくショックを与えたことは確かです。価格も6mの標準コンクリートポールが6千円の時代に、35万円だから衝撃的ですよね。
篠原 :南雲さんはでき上がってどう思ったの?                 南雲 :中野さんが喜んでくれたのが一番嬉しかったですね。
それとコンクリートポールは、社会から忘れられかけている作り方なんです。それを現代に蘇らせることに、とても興味がありました。これからずっと、未来にもっともっと使われていくと思っていました。

コンクリートポールのその後
三石 :私は、南雲さんがよく言っていたことで、記憶に残っているのは「コンクリートポールは造形にこそ価値がある」という言葉ですね。要するに「コンクリートじゃなきゃ、こういう造形はできないよ」という形が絶対にあると。僕は、進歩したコンクリートポールの技術には、素晴らしさがあることを教えてもらったし、それを造形として表現したのがこの製品だと思います。また、質感やエイジング(※18)、どれをとっても、現在コンクリートで表現出来る、最高のものができたと思います。今まで「景観の邪魔者」とされていた電柱を作る技術で、ここまでの価値観を表現出来る製品になるとは、思ってもみませんでした。でも残念ながら、あまり普及はしませんでした。
南雲 :その後、コンクリートポールをデザインする機会はなかったですが、レトロポールでは、基壇部では磨き処理をして骨材を見せたり、鋳物とは違う素材感で、悪くないと思いましたけどね。
三石 :ただコンクリートポールの悪い点は金型代が高いところで、数が出ないと減価償却出来ない。

※18  エイジング
経年劣化。年月を経て、風格を備えた味わいのある状態。

篠原 :鋳物の型代より高い?
南雲 :鋳物は木型ですけど、コンクリートポールは金型で製作しますから。
高いですね。
篠原 :南雲さん、今また、コンクリートを使ってデザインしてと言われたら、やるつもりある?
南雲 :あまりやる気が湧かないなあ、なんでだろうな・・・。
三石 :逆に、その辺がわからないですよ。私が当時から南雲さんに質問したかったことは、こんないいもの作って、なんで後に続くデザインが出てこないのかということですね。次に「木」の方に走っちゃったんですよね(笑)
一同 :笑









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