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僕たちは「共感」だけでは生きていけない

ひそかなマイブームのひとつに、「毎月1日に、誰かにおすすめしてもらった本の中から数冊ピックアップして買う」というものがあるんですが、今月は、柚木麻子さんの「ナイルパーチの女子会」という小説を読みました。

一流商社で働く志村栄利子は、愛読していた主婦ブロガーの丸尾翔子と出会い意気投合。だが他人との距離感をうまくつかめない彼女を、やがて翔子は拒否。執着する栄利子は悩みを相談した同僚の男と寝たことが婚約者の派遣女子・高杉真織にばれ、とんでもない約束をさせられてしまう。一方、翔子も実家に問題を抱え──。

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なんで「ナイルパーチ」という普通の人は聞いたことがない魚が「女子会」という言葉とかけ合わさったタイトルになっているのか、それはぜひこの小説を読んで欲しいんですが、この本を読んだ後納得したことがありました。

それは、共感だけでは生きていけない、ということ。

重松清さんの解説文に、こんな文節があります。

わかり合わなきゃ、共感できなきゃ、ということから失うものの大きさについて描かれた長編小説だったのではないか」
「SNSのいいねやリツイートを持ち出すまでもなく、この世の中は誰かに共感されたい思いや誰かに共感したい願いに(時に息苦しさを感じてしまうほど)充ち満ちている」

「私たちは友だちだからわかり合わなきゃね」と何度も言い、自分が共感できる価値観を押しつける栄利子と、それをポカンと見つめる翔子。「どうして分かってくれないの?」と、栄利子の「友だちとはこうであらねばならない」という幻想が強くなっていき、いわゆる【友だち】という考え方からどんどん離れていく。

その様子を傍観者として眺めているのがすごく怖くて、一方で、それがどうなっていくのか結末を見てみたいという気持ちも相まって、どんどんページをめくっていった。

「友だちなんだから共感できなきゃ」と、共感を押しつけるということは、その相手と対等に話すことはできていないということなのだな、と改めて感じた。友だちは家族ではないし、たとえ家族であろうとすべてを共感できるなんて幻想だろう。

大事なのは、相手との違いを納得すること。自分と違うからダメではなく、こういうところが違うのか〜へえ〜と、そういう人がいるということに納得し、存在を理解すること。今の時代、「つながる」というワードをよく目にするなぁと思っていて、それをちょっと重たいなぁと感じていたのはそのせいだったかもしれない。

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この小説を最後まで読み終えた後、ライターの古賀さんが「共感せずに、理解をしよう」というnoteを書いていたのをふと思い出した。

共感せずに、理解をしよう。

たとえ共感できない話だったとしても、理解ができれば、その論理に納得することはできる。「そういう考え方もある」「こういう観点に立ってこんなふうに考えれば、ここまでは言える」という感じで、情で寄り添うのではなく、理で寄り添っていく。共感できないその人の、論の展開を追っていく。

情の部分でたとえ共感できなかったとしても理の部分で寄り添える部分があるのであればそれをきちんと書くのだ、いう話。

それに、共感だけで書いていては外を覗く機会がなくなり、どんどん自分の枠が狭くなってしまう、とも書かれていて、それを読んだときに、パッと視界が開けたような気がしたので、そのnoteはことあるごとに読み返している。

「自分が共感できるもの」だけを書き続けていくと、いつか行き詰まるということ。ちっぽけな「わたし」から抜け出さない原稿しか書けなくなり、気がつけば「わたし」の枠がどんどんちいさくなる。「外」を覗く機会がなくなってしまう。

古賀さんが書かれているように、共感ではなく理解でいいんだと、理解できたことをきちんと書くことが重要なのだと、この小説を読んで思った。ぜんぶ共感できる、なんて無理だから。

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久しぶりに、読み切るまでのスピードがめちゃくちゃ早かった小説でした。そういえば、「BUTTER」も「ランチのアッコちゃん」もすごく面白かったな〜

さて、来月は何を読もうかな〜。

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