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5分でわかるニーチェ哲学! 無趣味な畜群

畜群とは何か?
ニーチェはキリスト教を批判したが、実はカトリック以上にプロテスタントを批判している。
そして、伝統的にドイツのカトリックはプロテスタントに近い性質を秘めているのであるから、ニーチェのキリスト教批判は殆どプロテスタント批判であると考えていいだろう。

ニーチェは自分の頭で考えず、ただ群れて権威に追従する者を「畜群」と呼んだ。
「大衆の反逆」を叙述したオルテガは、斯様な集団のことを「大衆」と呼んだが、仏教においては「畜生道」と呼ばれているものだろう。

ナチスと畜群
ヒトラーは、ドイツにおいて「畜群」を扇動することによって、選挙戦に勝ち、その後には憲法を無力化して、独裁的な支配を固めた。
彼は王権神授説的な演説を行うこともあったが、そもそもナチズムという思想自体がプロテスタントの延長であると、歴史学者のフリッツ・ハーバーは述べている。
人間を洗脳によって支配して、扇動によって手駒とすることは宗教権威が古今東西において行ってきたことであって、支配の本質は権力ではなくて権威に存在している。
こうした畜群達は、自らの目で実体を観察することも出来ず、自らの脳で思考することも出来ず、権威に従う能力以外の能力が低い存在なので、ナチスが戦争に負けることは必然であったと言える。

アメリカと畜群
ルターもゲルマン民族至上主義を唱えていたが、彼は活版印刷というマスメディアの力によって、自らの宗教であるプロテスタントを布教することに成功した。
ヒトラーもラジオというマスメディアの力によって、ドイツの民衆を洗脳することに成功した。
現代のアメリカにおいても、ドイツ系アメリカ人のトランプ前大統領はマスメディア出身であるし、Q-Anonというカルト団体や、プロテスタント原理主義の宗教団体に支持されていることも興味深い事実だ。
ドイツとアメリカとプロテスタントには、世界史において密接なつながりが存在していて、実際にヒトラーはアメリカをゲルマン民族の国家であると発言することもあったし、アメリカ・ナチ党という政党も存在している。

「畜群」とは宗教権威が人間を洗脳し、家畜化することによって生まれる信者のことなのだ。
その際に、宗教権威が用いる手法は有形力としての暴力よりも、「脅しと騙し」という無形力の暴力であることが多い。
権威に従わなければ地獄に落ちる、などという洗脳はどこの世界にも存在するが、地獄が存在すると確認出来た者はこの世には存在しない。
無論、筆者は地獄の存在自体を否定するつもりもないが、隷属を強制する権威こそが地獄に相応しいと考えるのは、非論理的でもないだろう。

「鬼畜米英」という言葉も二次大戦中には存在していたが、「家畜独米」という言葉は筆者が今造った言霊である。
アメリカの場合はナチスとは異なって圧倒的な物量が存在するので、畜群だらけの状態となっても一定の戦闘能力を維持することが出来るが、ベトナム戦争でもアフガニスタン戦争でも敗北したことは事実だ。

現代日本の畜群
ニーチェは、死後の世界にのみ関心を持ち、生きることに興味がないことが「畜群」の性質であると述べていた。
宗教権威に洗脳され切っている「畜群」は、社会について思考することもなく、他者を守る機能もなく、実体を観察する意思もなく、ただ妄想に逃げること以外が出来るはずがない。
とはいえ、政治に関心を持つことも無ければ中身のないオタクアニメに熱心な現代日本人は、「畜群」そのものであると言えよう。
現代における宗教権威とはマスメディアであって、民主制の選挙も彼等による洗脳によって結果を左右することが出来る。
真の主権者はマスメディアであるが、実は民主制というシステムは民主主義よりも権威主義というマインドに親和性が高い。

この支配からの卒業
人間が自らの目で世界を観察し、自らの脳で思考する習慣を身に着けない限り、宗教権威による支配は何時まで経っても終わることがないのだ。
この支配から卒業するためには、自らの目で世界を観察し、自らの脳で思考するために、必要な知見を身につけなければならない。
民主主義国家の教育とは本来はそれを教えるためのものであるはずだ。

だが、現状においては、学校という組織自体が江戸時代的な儒教思想の温床であって、日本人は民主主義的な価値観を身に着ける機会を喪失してしまっている。
ブラック校則とは、「慶安の御触書」が現代化されただけのものに過ぎない。
ニーチェに影響を受けた魯迅は、儒教による人間支配を「阿Q正伝」「狂人日記」に記している。
実体と切り離されて受験勉強をすることが強制された者が、カルト宗教に洗脳されることもある種の必然でしかなかろう。
そもそも、受験というシステム自体が、科挙という儒教に影響を受けた制度に過ぎないのだから。
自発的な知的好奇心を持たず、ただ権威の言ったことを覚えるだけの奴隷でも、受験競争に勝つことは可能なのだ。

この支配からの卒業に必要なことは、マスメディアや学校の情報に触れることではなく、一人一人が実体と向き合う意識を持つことである。
つまりそれは、自らが主体的に実体と関わることを趣味にしなければならないということなのだ。

権威に指図される奴隷労働に人生をかけることは、自らの自由意思を放棄することでしかない。
酒を飲むことやらスポーツ観戦に嵌ることは、単に頭を使わないだけのことである。
中身のないスマホゲームやら絵が綺麗なだけのオタクアニメやらに時間を割くことは、自発的に「畜群」に堕落することと同義であり、麻薬中毒者と何も変わりがない。
実は、かのソクラテスも受動的な趣味を持つことは知能を劣化させると述べているのだ。

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