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重層的な理不尽さの中で

▼Amazonプライムで映画『ヒトラーの忘れもの』(原題:Under sandet/英語版:Land of Mine)を観た。(公式サイト:http://hitler-wasuremono.jp/

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▼舞台は第二次大戦後のデンマーク。ナチス・ドイツが海岸線に埋めた無数の地雷処理にまつわる史実をもとにしたフィクションである。

▼あらすじ(公式サイトより)
 1945年5月、ナチス・ドイツによる5年間の占領から解放されたデンマーク。ドイツ軍が海岸線に埋めた無数の地雷を除去するため、捕虜のドイツ兵たちが駆り出された。セバスチャン、双子のヴェルナーとエルンストらを含む11名は、地雷を扱った経験がほとんどない。彼らを監督するデンマーク軍のラスムスン軍曹は、全員があどけない少年であることに驚くが、初対面の彼らに容赦ない暴力と罵声を浴びせる。
 広大な浜辺に這いつくばりながら地雷を見つけ、信管を抜き取る作業は死と背中合わせだった。少年たちは祖国に帰る日を夢見て苛酷な任務に取り組むが、飢えや体調不良に苦しみ、地雷の暴発によってひとりまたひとりと命を落としていく。そんな様子を見て、ナチを激しく憎んでいたラスムスンも、彼らにその罪を償わせることに疑問を抱くようになる。とりわけ純粋な心を持つセバスチャンと打ち解け、二人の間には信頼関係や絆が芽生え始めていた。
 やがてラスムスンは、残された任務をやり遂げて帰郷を願う少年たちの切なる思いを叶えてやろうと胸に誓うようになる。しかしその先には思いがけない新たな苦難が待ち受け、ラスムスンは重大な決断を迫られるのだった……。

▼映画の最後に出るテロップには次のように書かれていた。

「2000名を超える独軍捕虜が除去した地雷は150万を上回る。半数近くが死亡または重傷を負った。彼らの多くは少年兵だった。」

▼この映画の中には,いくつもの「理不尽さ」が存在する。

・捕虜の少年兵たちにとっては,戦争を始めたのはそもそも大人たちであり,しかも異国に置き去りにされたあげく,確かにドイツ軍が仕掛けたものとはいえ,命懸けの地雷の除去作業に何の装備もなく,食事も満足に与えられぬ状況で従事させられる理不尽さ。

・ラスムスン軍曹にとっては,憎いナチスドイツの兵士とはいえ,親子ほど年の離れた捕虜たち,しかも地雷の除去作業について経験のない素人の少年兵たちを使って地雷の除去作業を遂行しなければならない理不尽さ。そして,自分より明らかに年下の,しかも安全で快適な場所にいる上官から無理難題を押しつけられている理不尽さ。

・海岸の近く,ラスムスン軍曹と捕虜の少年兵たちが滞在する家を間借りしている農家の母娘にとっては,美しい近所の浜辺が危険な地雷地帯になってしまったことや,物資もろくにないのに軍の命令で彼らの世話をしなくてはならないことの理不尽さ。

▼そうした重層的な理不尽さの中で,物語は淡々と進み,少年たちは一人,また一人と命を落としてゆく。そして,この作品の中にはいくつもの対立項が登場する。梶井基次郎は「櫻の樹の下には屍体が埋まっている」と書いたが,この映画の中では,美しい浜辺の下には無数の地雷が埋まっていて,常に「死」を思わせる。そのコントラストのはざまで,白い砂浜に這いつくばって生きるか死ぬかのぎりぎりの瀬戸際で地雷を探している―そして,おそらくは水浴び以外に体を洗う術もなく,顔も体も垢まみれで黒くなった―少年兵たちの姿が描かれている。

美しい海の風景と死に至る地雷。
白い砂浜と少年兵たちの黒ずんだ顔。
太陽が降り注ぐ明るい浜辺と暗い表情。
憎しみと赦し。
希望と絶望。
勝った国と負けた国。
支配するものと支配されるもの。
国家と個人。
大人と子ども。
生と死…

▼地雷除去作業が進むにつれて,ラスムスン軍曹の心境にも変化が生じ,ある時は「休日」と称して捕虜の少年兵たちと砂浜でサッカーに興じるようにまでなった。まるで本当の父と息子たちのように。それはほんの束の間であったが,もろもろの「理不尽さ」から解き放たれ,あらゆる対立を克服した一瞬だったのかもしれない。

▼そういえば,ちょうど先日,映画『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』を観てきたばかりだが,ここで描かれているラスムスン軍曹と少年兵たちもまた,そうした「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」いる,ごく当たり前の存在なのだ,と思った。

▼重層的な理不尽さの中で,人はいかにして生きるべきなのか。エンディングでラスムスン軍曹が取った行動は,その一つの答だったのかもしれない。

▼マーチン・サントフリート監督からのメッセージ(公式サイトより)
 本作で描かれているのは、デンマーク人のほとんどが目を背けてきて知られていない史実です。

 私は誰かを非難したり責任を追及しているわけではありません。ただ、ドイツ人を怪物扱いしない映画があっても面白いんじゃないかと思ったんです。第二次世界大戦の後始末のためにドイツ人の少年たちが犠牲になるという物語を。でも、結局のところ人間についての映画で、憎しみがいかにして赦しへと変わっていくかが描かれます。国に代わって懺悔することを強要された少年たちの物語です。少ない登場人物たちを通して、誰もが共感できる物語を作り、観客に恐怖や希望、夢、友情、そして生への渇望のパワーを体験してもらいたかったのです。

 ドイツ軍捕虜に地雷除去をさせるというイギリスの提案により、当時のデンマーク政府は政治的ジレンマに陥りました。要求を断れば、国内世論からも連合国からも非難を浴びる。戦後のデンマークは国として、評判が良くなかったんです。一方、イギリスは汚点のない英雄で、デンマークを解放に導きました。それでも、若きドイツ軍捕虜に地雷を除去させることで、デンマークが戦争犯罪に加担することになるのではないかと議論されるべきだったと思います。

 映画制作者の間には、「人間は美しくなければならない」「美しいとは欠点がないことだ」という暗黙の了解が存在します。私は、人それぞれに歴史があるから人間は一人ひとりが興味深いのだと思っています。苦悩や心の傷、内なる悪魔があったって別に構わない。人間の醜悪さばかりを見せるつもりはなかったけれど、醜悪さのなかにこそ自分は何者なのかが見えると思うのです。

 本作は人道的な映画です。観客は少年たちに希望を託すし、悪夢のような任務を生き延びてほしいと祈るでしょう。残虐な体制に属していたことを受け入れられないにしても、彼らは再び人間らしさを取り戻せると信じなければならないんです。ある意味、私たちは質問を投げかけていると思います、「ナチの恐怖を象徴する個々に同情することはできるのだろうか?」とね。


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