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8月15日

▼1945年6月,神戸で空襲がありました。その時,母方の祖父は会社の部下と共に町を歩いていて空襲にあいました。近くの防空壕に避難したものの,既に人がいっぱいで入りきれず,祖父は部下を防空壕の中に押し込み,自らの身を盾にして,防空壕の入口を塞ぎました。

▼近くに落ちた爆弾によって,祖父の体は半分になったそうです。祖父が身を呈して守った部下は無事で,祖父の亡骸を集めて会社まで運んでくださったとのことです。

▼これは祖父が従軍していた時の写真です。ネットのアプリでカラー化し,手作業で微調整を施しました。

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▼祖父が亡くなった後,祖母は女手一つで私の母を含む四人のきょうだいを育てました。祖父が亡くなった時,母はまだ幼く,祖父の顔を覚えていません。こうやって写真で見ることしかできません。

▼もし,あの戦争をもう少し早く終えていたら,日本がもっと早く現実を見据えて降伏していたら,自らの身を盾にして部下を庇った高潔な魂を持つ祖父が亡くなることもなかったでしょう。祖母や母のように,大切な人を失って哀しんだり,しなくてもいい苦労をした人も少なくて済んだことでしょう。

▼戦後,76年が経ち,当時のことを実際に体験して覚えている人はどんどん少なくなっていきました。今や,日本の人口の85%が戦後生まれとなりました。

▼しかし,これまで語られなかった当時の真実はまだまだたくさんあるはずです。

▼あとからなら当時のことを何とでも言えるかもしれませんし,現代の価値観で当時のことを語ってはいけない,という意見があることも承知していますが,「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のが人の常でもあります。こんな悲しみや怒りや苦悩を二度と繰り返さぬためにも,戦争の悲惨さ,戦争に至った経緯,そして,戦争を長引かせた指導者たちおよびそれに追従した人々の責任追及は決して忘れてはならないことなのだと思います。

▼戦後76年。年号は昭和,平成,令和と変わりましたが,哀しみに区切りはありません。奇しくも,戦後,平成の世にまで生き延びた父方の祖母は今日が命日です。両親共働きでその祖母に育てられた私にとって,祖母はもう一人の母親のようなかけがえのない存在でした。ですから,私にとって今日という日は,祖母の命日でもあり,高潔な魂を持つ祖父を救えなかった日本がようやくあの愚かな戦争に終わりを告げた日として記憶されているのです。

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