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玉置浩二さんはまるでミケランジェロ。私たちをとらわれから救い出してくれる。生きているんだ。それでいいんだ。


生きているんだ。それでいいんだ。

玉置浩二「田園」(1996年)

そう玉置浩二さんは歌う。玉置浩二さんの言葉は,いつも淡々としている。誰かに何かを求めたりしない。こうじゃなければいけないとも言わない。絶対,そうだよねとか,ひとに同意を求めたりもしない。

私たちは,いろいろなものにとらわれている。なにかにこだわって苦しんでいる。

玉置さんの曲を聴いて泣いてしまったという経験をもつひとは多い。

愛だったんだよ

玉置さんの曲に「愛だったんだよ」がある。1998年発表の曲。NHK の「みんなの歌」でも取り上げられている。

この曲を初めて聴いたとき,私は強い衝撃を受けた。目はぱかーと見開いて,釘付けになった。一気に詩の世界に吸い込まれていった。私も暗闇を一歩一歩歩いている。曲が終わる。夢から覚めたような感覚,そして泣いている自分。でも,心地よかった。そういう体験を今も覚えている。

なんということもない詩だ。

一晩中,ずっと歩いていた。いろんなことがあった。そんなことが淡々と歌われる。ただ,意味がつかみにくい。カゴメカゴメのように。聞き流すとなんともないが,何度も何度も聴いて意味をとろうと思うと,呪文のようでもあり,謎かけのようでもあり,なにかの秘密をささやいているようでもあり,不思議な詩だ。わかるようで,わからない。簡単なようで,全然,つかめない。人生みたいだ。

でも,玉置さんが最後に歌う。

それはいつでもあったんだよ。

玉置浩二「愛だったんだよ」(1998年)

ああ,愛だったんだ。いろいろあったけど,愛はいつもそばにあったんだ。

解き放たれる感覚。自由になると言う感覚。そういう力が玉置浩二さんの詩にはある。あのなんだかわかったような,全然わからないような詩は,この最後の自由の感覚のためにあったのか!

でも,あのとりとめのない,まとまりもない言葉。あの言葉は,あれに似ている。だから,はっと息を飲むのか。あの言葉,あれは私のとりとめもない,まとまりもない,なんだかわからないけど,暗闇の中,一生懸命歩いているかのような,わたしの人生と似ている。

15世紀から16世紀の彫刻家,ミケランジェロ。彼の言葉にこんなものがあると聞く。

大理石の中に,天使が見える。その天使を大理石から救い出してやらないといけない。天使を自由にするまで掘り続ける。

ミケランジェロは大理石を掘って,天使を自由にする。

玉置さんは歌を歌って,私たちをときはなつ。

すごいひとがいたもんだ。

ミケランジェロのポスター

この時期の絵画で言うと,私はブリューゲルが大好きです。


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