コテンラジオを聴いてトルコ歴史探訪をした話
こんにちは、コテンラジオリスナーの友人と2人でトルコ歴史探訪旅行に行ってきた話を書きます。
初学者なので学習の結果、若干間違った内容を書いてしまっているかもしれませんし、またあくまで現地に行って個人で感じたことを書いているという点も、ご容赦お願いいたします。
出発前1(なぜトルコに行きたいと思ったか)
コテンラジオでないと得られなかった気付き
旅のきっかけはコテンラジオという歴史のポッドキャストを聴いていたことでした。
私は中学高校時代、歴史の授業はずっと寝ていて何一つ覚えていないような歴史弱者でしたが、このポッドキャストはメインパーソナリティの3人の語りが心地よく軽妙で面白い上に、人物や場面の切り取り方・考察の仕方なども非常に面白くて、3年前くらいから継続して聴いていました。
今回の歴史探訪の企画者である友人のKくんは同じくコテンラジオの愛聴者であり、しばしば感想や気付きを議論する仲でした。私は彼が時々SNSでコテンラジオを推薦しているのを見て、聴き始めました。彼は博学かつ勉強家で、奈良や北海道をはじめ、重要な遺産や遺跡について机上で勉強し、さらに自分の目で確かめに行くような生活をしていました。彼との議論の中で特に盛り上がったのがコテンラジオ#123~132で取り上げられた「オスマン帝国」の回です。https://www.youtube.com/watch?v=oR2IGddFvJ8(もし聴く場合、YoutubeよりもSpotifyなどの音声メディアをおすすめします)
オスマン帝国は現在のトルコ共和国、特にイスタンブールを中心に栄えました。
イスタンブールはボスポラス海峡という大陸を東西に2分割する海峡を境に、そこから東側はアジア、西側はヨーロッパとされているという世界地図的にも特徴的な場所にあります。また歴史的には、383年から1453年という1000年以上もの期間、ビザンツ帝国というキリスト教圏の国がコンスタンティノープルという名前の首都を置いており、1453年からはイスラム教圏のオスマン帝国が征服してイスタンブールに改称されたという背景を抱えています。そしてこの特殊性のために今でもイスラム教とキリスト教の双方の文化が混じり合っているという非常に興味深い都市です。
コテンラジオでは1453年の「コンスタンティノープル陥落」の戦いを一つメイントピックとして取り上げています。三重の防壁を持つ防御力最強都市として紹介されるコンスタンティノープルと奇抜な作戦でそれを攻略するオスマン帝国軍・メフメト2世の戦いはもちろん非常に面白いのですが、このシリーズの総括として出てくる”民族”や”ナショナリズム”に関する説明が私にとっては強く印象に残っています。
(以下の要約も「意味がわからない」もしくは「何が面白いのかわからない」という感想を抱かれると思いますが、何かひっかかるものがあったらぜひコテンラジオを聴いてほしいです。)
上記の論点はKくんともよく話すテーマでした。コテンラジオは全テーマ通じて「国」とか「民族」とか「株式会社」とか、その他諸々の概念が当たり前にある前の世界を想像させてくれる点が、やはりとても面白いです。
トルコについては”ヨーロッパとアジアの境にある異文化の混じり合う国?”という程度の認識でしたが、コテンラジオを聴いてからは上述したように一つの地に幾層もの異文化が重なり合った場所という捉え方ができるようになり、強く惹かれました。
加えて、自分が生まれた日本は島国かつ国家全体の雰囲気として宗教観が薄く※、それらが世界的には特殊な環境というのも全く意識していなかった気付きでした。(※尚、「宗教観が薄い」という傾向は特に現代において顕著な事象であって、過去には禁教を命じるなど宗教に厳しい側面もあったと知人からアドバイスをいただいております。まずは初学者らしい疑問が出ている表現として、このままの表現にすることを選びました。)
ロシアーウクライナの戦争があるので現代の価値観では気軽に議論しにくい話かもしれませんが、大陸国家同士が隣り合いながらライバル関係を持ち、戦争により領土を増減させていたというのは歴史上ではごく一般的に起こっていたことであり、他国の侵略と支配を意識しながら国を維持するという考え方は、海という自然の要害に守られた日本では現代になるまでなかなか起こらなかった事態です。一つの土地を守ったり奪ったり、さらには何かしらの文化がすでに築かれていた土地に定住したりする感覚はどんなものなのでしょうか?
そしてさらに宗教的観点からも、私自身が宗教観が薄いので少し感覚が掴みにくいのですが、歴史上では国や宗教者が対立する別の宗教の信者を強制的に改宗させるといった事態も起こっているはずです。しかし、メフメト2世はイスタンブールという都市を作る上で元々あったキリスト教文化にも寛容で、どこか愛しているような側面もあったという記述があります。実際に世界遺産のアヤソフィアは6世紀に建設されたキリスト教会を取り壊さずにそのままイスラム教のモスクに改修して使っています。「支配した異教徒の街を慈しみ守りながら、その地に新しい文化を築いていく」とはどんな感覚なのでしょうか?
どちらの観点からもコンスタンティノープル陥落は歴史的にセンセーショナルであり、そんな歴史が刻まれた地にどんな風景が広がっているのか、歴史のストーリーに想いを馳せながら観てみたいと思っていました。
歴史探訪を提案された時の心境
このような議論をしていた流れからKくんの提案でトルコ歴史探訪をしないか誘われました。確かに「コンスタンティノープルの城壁をいつか観てみたい」とは言っていたものの正直に言えば、最初はあまりにも実感が湧かず冗談かと思うような感覚もありました。海外旅行自体が卒業旅行以来10年振りだったのもあり、ちょっと実感が湧かな過ぎて「え、自分が、、、行くの、、、本当に、、、?」というくらいの戸惑いと違和感がありました。
戸惑いや違和感という言葉はネガティブなニュアンスで使われることが多いものですが、ここ5年くらいは少しポジティブな受け止め方をできるようになってきました。この戸惑いや違和感の先にある「いつもの自分だったらしないような選択肢」を選んだ先には、いつもの自分と違うリアクションを見せる知らない自分がいて、こういう気付きが人生を動かすヒントになるのではないか、そんな風に捉えているからです。(もちろん慣れない選択をして後悔することもあるでしょう)
今回は曲がりなりにも自分が3年も継続して興味を持てていることですし、きっとポジティブな方向に転ぶだろうと直観が囁いていたので割とすぐに行くことを決断しました。
しかし、元来小心者なので「行く」と決断した後も「いつもと違う選択をしてやったぜ、ハハハ、どうだ!」みたいな強気モードと「あぁ、なんて慣れないことをしちゃってるんだろう、本当に大丈夫かなぁ、、、」みたいな弱気モードが、天使と悪魔のように自分の中に去来しており、よく考えるとこの感覚は出発直前まで続いていたように思います。
それにしてもこれは大変なチャンスです。私はKくんとは異なり日本国内ですら歴史探訪を意識した旅行をしたことはありませんでしたが、「歴史について自分からテーマ設定をして文献を調査し、その土地に足を運んで実際に自分の目で見たものや肌で感じたものを学びとして蓄積していく(しかもそれを海外を舞台にして)」そんな経験を一生に一度くらいしてみてもいいではないかと思いました。また外国語も苦手で歴史調査もやったことはありませんが、そもそも「やってみる」とは言っても本当の初学者はどうやって何から始めていいかすらわからず何も踏み出せないものです。
もちろん上に書いた”民族”や”ナショナリズム”だなんて難しいことは旅行の短い滞在時間では何も感じ取れないかもしれません。しかし何事も自分で体験してみれば当初想像もしていなかったような気付きが得られるもの、この機会に歴史学習や歴史探訪の経験があるKくんから学ばせてもらい、一歩を踏み出すことができれば、これほど価値のあることはなかなかありません。気持ちがオロオロしたり、準備に苦労したりもしましたが、やっぱりこれは自分の殻を破る大きなチャンスだということだけは確信していました。
出発前2(準備・文献調査)
準備・相談1
この話をしたのは確か今年の3月頃だったでしょうか。そして具体的な旅程は9/20-9/25(滞在期間は4日間)と決まりました。ここからさらにトルコ国内のどこに行きたいかを絞り込むため、文献の調査に入ります。とはいっても4月~6月頃は仕事でも異動があってかなりバタバタと忙しく、本格的に調査に入ったのは7月頃からです。それまでの間に「小学館版学習まんが 世界の歴史シリーズ」全17巻+別巻イスラム編4巻を読破し、世界史の大きな流れを掴めるようにしました。https://www.shogakukan.co.jp/pr/sereki/
固有名詞や細かい年号は全然頭に入っていませんが、どのくらいの時代にどの国とどの国がどんな風に敵対or友好関係を持っていたかはなんとなくわかるようになりました(ちなみに当初はイスラム編4巻だけを読むつもりだったのですが、結局他国との関わりの中での歴史なので全体の流れや国家間の関係が気になってしまい、全21巻を読むことになりました…)
7月からは時間のあるタイミングで図書館に行き「トルコ」「イスラム」「オスマン帝国」「ビザンツ帝国」「コンスタンティノープル」「イスタンブール」「アナトリア」などをキーワードに文献を参照していきました。
以下、本当にパラパラとチラ見しただけの本もガッツリ読んだ本もありますが、参照した文献リストを記載しておきます(購入したのは「地球の歩き方」1冊のみです)。歴史初学者なので絵や地図や写真など図説中心の資料から入り、興味を持った項目については追加で文献を読むといった流れを意識していました。
(参考)文献リスト
簡単な本、難しい本、1,2ページしか参照しなかった本、いろいろありますが、こうやって書き出してみると結構な分量になるのだなと感慨深いです。今回のメインテーマはオスマン帝国の栄枯盛衰でしたが、オスマン帝国だけでなく、領土を奪われたビザンツ帝国や、その他の時代のトルコ関連(アナトリア半島やイスラム)の歴史など、なるべく文献が偏らないことを意識しました。
最初は軸となるイスタンブール(コンスタンティノープル)を中心として、オスマン帝国がいつ頃、どこで、どのように領土を拡大していったかという歴史を探りましたが、今回の旅でも訪問したエディルネ(アドリアノープル)というイスタンブールより西(ヨーロッパ側)にある都市を先に支配下に納めていたのが印象的でした。世界史を知っている人には当たり前のことかもしれませんが、1453年の陥落時、コンスタンティノープルのような小さな都市一つを奪うのにはものすごく時間がかかったのにも関わらず、海側からエディルネを含めてバルカン半島の征服領域はかなり広がっていたという事実は、自分の目で地図を確認して最初に衝撃を受けた内容でした。(コンスタンティノープルを奪えないとそれより西側には進出できないのだと勘違いをしていました)
初学者だけに「そんな戦略あるんだ」とか「そんな状態で墜ちないコンスタンティノープルって本当なんなの」とか素朴な感想がいろいろと思いつきます。
オスマン帝国の悲哀の歴史 カフェス制度(鳥かごの中の皇子たち)
次にオスマン帝国の歴代スルタン(「皇帝」に近い役職)が紹介されている資料を見て、悲哀の歴史を感じました。600年と凄まじく長い歴史をもちながらも徐々に弱体化し、近代化したヨーロッパ諸国から狙われ、領土を切り分けられて解体されていった上に、国民からの信用も失って最後には追放される、そうしたストーリーはどちらかといえば悲し気でした(日本史で例えると徳川家に似ているかもしれません)。
個人的にもう一つ悲哀を感じたエピソードとして、世界遺産トプカプ宮殿内で施行されていたカフェス(「鳥かご」の意味)制度が挙げられます。オスマン帝国には元々後継者争いを防止するため兄弟殺しの文化がありましたが、17世紀前半から廃止され、カフェス制度に移行しました。スルタンが死亡すると年長の王子からスルタンに昇進させる方式です。カフェス制度では、この候補者の王子たちは暗い部屋に幽閉され、子供を作ることすら許されていません。歴代スルタンの中にはカフェスに39年間幽閉されて、ようやくスルタンになった人もいます。
大変悲しいことに、こうして数十年に渡ってカフェスに幽閉され続けたスルタンのうち何人かは精神障害と見られるような症状が記録されており、「奇声奇行が認められたため即位は数ヶ月で終了した」などと記述されています。
1600年代とか、そういう時代に飢えずにただ安全に生きられることがどれだけ幸せだったかはわかりませんが、子供の頃から大人(下手をすると中年、老年)になるまでほとんど外部との接触もなく小さな部屋に閉じ込められ、そこを出られたと思ったら宮廷内の権力争いや国内外の政情不安に巻き込まれ、時には飾りのようなスルタンの権威だけを利用される駒のような存在であった、記述を読むとそのような背景が読み取れまして辛い気持ちになりました。有力者の兄弟であったために殺されてしまうことと、子供の頃から何十年も鳥かごに閉じ込められて自分らしく主体的に生きる権利や生きる力そのものを剥奪されてしまうこと、どちらが人間にとって不幸なのか、考えさせられるエピソードでした。
トプカプ宮殿にはこのような魑魅魍魎が渦巻く舞台としての過去があり、このカフェスという部屋をぜひ観てみたいと思いました。またあくまで一説ですが、後述するドルマバフチェ宮殿が作られた理由には精神障害の発症を続ける王子たちがカフェス制度から逃れる意図もあったのではないかとも言われています。
準備・相談2
この後、Kくんからの打診もあり、オスマン帝国最盛期に建てられた名建築家スィナンの最高傑作”セリミエ・モスク”があるエディルネに行くことを決めました。さらにトルコはエーゲ海に面した場所でもあり、ギリシャ文明の痕跡が残るエフェス遺跡という場所があることを調べてきてくれました。そう言われてみれば、ギリシャ神話のトロイの木馬で有名なトロイは(落ち着いて考えると驚くほどのことではないのですが)確かにトルコ!
トルコは考古学分野でも有名な場所だったのです。トルコという国のもはや「わけのわからなさ」と表現したくなるような奥深さ、底知れなさが深まった気付きでもありました。ギリシャ文明はそれほど勉強できないだろうとは初めから思っていましたが、この提案は魅力的でした。あと単純に”オスマン帝国だけ4日間というのも頭が疲れてしまうかもしれないから1日くらい直感的に感動できそうな古代ギリシャ時代の遺跡でも観に行こうよ”という軽いノリもありました。
エフェス行きは海外で深夜便の高速バスを使うという、よくよく考えたら旅行上級者がやるような仰天のプランでしたが、私は海外旅行自体が10年振りでしたのであまり深く考えずに快諾し、むしろこんな短期間しか滞在できないんだし、いろいろ行ける方がいいよね!とワクワクでした。
このプランはあまりにも詰め詰めでしたので、途中高速バスやホテルの予約をある程度柔軟に変更できることを確認しながら、4日目の予定は「もっとじっくりイスタンブールコース」にも「ギリシャ文明を味わうエフェス遺跡コース」にも現地で味わった自分たちの気持ちに向き合いながら2日目の夜にでも話し合って決めようという結論に至りました。
このあと1,2回の打ち合わせを重ね、現地でのホテルや高速バスの予約を進め、現地スケジュールや移動手段や見どころを記載した旅のしおりを作りました。私は1日目2日目のイスタンブール編のスケジューリングを主に担当し、3日目4日目のエディルネ、エフェス、イズミル編はほぼKくんにお願いしました。作る前はできるか不安でしたが、GoogleMapやBooking.comなど国内でも海外でも使えるアプリケーションが増えたおかげで、交通・宿泊の調査などもそれほど困難ではありませんでした。トルコ国内の高速バス予約アプリObilet.comは英語でしか使えず、現地で大問題を引き起こしますが後述します。
出発日はとあるスポーツのビッグレースを日曜日に終えたばかりの水曜日、タフなスポーツなので体調を崩してないか、大怪我や負傷をしていないか、あとレースで大失敗して気落ちしていないか、それらが微妙に心配でしたが、いずれもなんとかなりました。
間の悪い男
ここでひとつ、出発直前に印象的だったエピソードを紹介します。
9月18日月曜日は休日で、レース・遠征の体力回復にも、全く進んでいなかったトルコ旅行準備にも、うってつけの嬉しい日でした。先ほどの文献リストの中で★をつけた3冊は非常に学びが多く、現地でも参照して歴史を深く知りたいと目をつけていた文献です。これらは近所の図書館で借りたので9月18日に借りて旅行のお供にできればと考えていました。
しかし、その図書館に行くとなぜか新聞・雑誌などの閲覧スペース以外が封鎖されています。なんと、9月は市全域の図書館システムが一斉更新のため図書の貸出を完全に停止しているとのこと!
私は友人たちからよく雨男と揶揄されるので多分間の悪い人間なのだろうと自覚はしていましたが、これまでの人生を通してもこれほど強く図書館を求めたこともなかったのにその図書館がよりによってこのタイミングで使えないだなんて、、、なんと間の悪い、、、
このエピソードは図書館封鎖事件として私の心を確実に砕いてきました。
さて、出発当日を迎え、羽田空港第3ターミナルに集合です。第3はほとんど行ったことがなくて、すでにアウェーの様相。意外とすんなり出国手続きを終え搭乗します。出発の飛行機は13時間もあって疲れましたが、機内食の茄子とハンバーグの煮込みのような料理(トルコ料理で言うと”キョフテ”の一種)が美味しかったことと、また着陸直前、これまでに何度も地図上で確認していたイスタンブールがあまりにもそのままの形で※見えたことが感動的で、現地時間午前5時にもかかわらず気持ちが高まりました。
※金角湾、ボスポラス海峡(アジアとヨーロッパの境目)、海峡にかかる橋、イスタンブールの旧市街地とガラタ地区、5.7㎞に渡ってテオドシウスの城壁があったという郊外のエリア、その全てが地図で見ていた通りの形で綺麗に見えたのです。
第1章 1日目(イスタンブール前編)
1-1 イスタンブールの洗礼
空から観るイスタンブールの夜景に感激しながら意気揚々とテイクオフ、、、するも早速最初のトラブルが勃発。
まず事前にいただいていた案内図の出口ゲートの数字が間違っていて20分程のロス。さらにホテルに依頼していた空港へのお迎えが来ていません。Booking.comを通して緊急連絡先に電話をかけてみるも英語が全然通じずメッセージチャットを送れと言われるも、メッセージチャットにはすぐには反応してくれません。
その場でお迎えバス斡旋のお兄さんがいたので、なんとかGoogle翻訳を使って対応してもらったのですが、どうやらホテルのお迎えは来ておらず、ホテル側の主張では「そちらが事前支払いを行っていないから迎えは出さなかった」とのこと。事前にそんな連絡はなかったのですが、仕方なくタクシーを拾い、空港からホテルへ移動して荷物を置きに行きます。
ホテルに到着すると早速いくつか気付いたことが。どうやら英語を出来る人と出来ない人がまちまちであること、Google翻訳を使ってコミュニケーションを取るのはもはやマニュアル化された仕草であること、あとこれは宿泊するうちに徐々にわかってくることでもありますがこのホテルの従業員が適度にテキトーであること、などです。
実は他にも事前に「ミュージアムパスポート」というトルコ中で使える博物館フリーパスの手配をお願いしていて「もし無理だったら連絡してね」とメッセージを送っていたのですが、この要望も当日フロントに行ったら「マネージャーにも相談したのですが手配できませんでした」と言われました。(だから先に言ってくれ、、、)
ツッコミどころの多い出立でしたが、何はともあれ、ホテルに荷物を置かせてもらえて意気揚々と出発です。
最初にミュージアムパスポートを入手しようと市内を散策するも、まだ朝の7時半で近場の博物館の開館時間になっておらず、トプカプ宮殿で券売機を探そうとするも銃を持った憲兵さんが通してくれず(なんなら若干構えるような仕草も見せ、、、)我々、早速銃文化にビビらされます。
しょうがないので最初の目的地ルメリ・ヒサルであったら買おうと切り替えるもここで早々に次のアクシデントが発生。バスや路面電車や地下鉄(及び有料トイレの支払い)に共通で使える「イスタンブール・カード」という日本で言う「Suica」「Icoka」みたいなカードがあるのですが、その券売機が我々のトルコ・リラ(以下、TL)をどうしても吸い込んでくれません、、、
途中、(恐らく滅茶苦茶善良で親切な)路面電車に乗ろうとしていた女性が5分くらい必死に我々に通じないトルコ語で説明してくれようとするもその甲斐なく、15分ほど格闘した我々は一旦その場でイスタンブールカードの入手を諦めて、とりあえず最寄りの路面電車の駅を離れて次の乗り換えがある乗り場まで歩くことにします(約3km)。
尚、Kくんはこの謎券売機に70TLを吸い込まれ、不幸にもこの70TLが彼の手元に帰ることはありませんでした(R.I.P)。
そして3km歩いた先の停留所で、私は運よく200TLが券売機に吸い込まれ、しかもカード(70TL)との差額130TLがチャージされた完璧な状態となります。Kくんはいつまで経っても200TLが吸い込まれず、ここでも見かねた現地の学生風の男性が助けてくれて、どうやらこの販売機は100TLまでしか吸い込まない仕様なんだと教えてくれました。そこで男性はKくんの持っていた200TLを100TL2枚に両替してくれました。なんとありがたい!(ちなみに私の200TLをなぜ販売機が受け容れてくれたのかは永遠の謎に包まれています、、、)
人心地ついてようやく公共交通に乗れるぞ!と息まいて改札をくぐり路面電車を待つも、なんと次は路面電車でなくバスに乗らなければいけないことにKくんが気付きます。ちなみに不思議な文化ですが、トルコの公共交通機関は出発予定時刻より早く出発することがあり得る、ということがここでわかります。(これは後日、壮大な伏線となります)
バスに乗る時にもさらにトラブルが発生。
路面電車やバスの乗車賃はどうやら一律15TLだったようですが、Kくんは間違えて路面電車に入った時に15TLを、さらに恐らく退出時に誤ってタッチしてしまって15TLを、すでに合計30TLを支払ってしまい、バスに乗車した時点ではチャージ残金が0になっていたことが乗り込んだ際に発覚しました。バスの運転手から「それじゃ乗せられない」と怒られます。
そしてここで見捨てないのがどうやらトルコ人。あまりにも情けないアジア人に同情したらしい一番近くに座っていたおじいさんが「現金で15TL、俺に払ってくれればいいから」と言って、代わりに自分のイスタンブールカードをタッチパネルに差し出して我々をバスに乗れるようにしてくれました。感謝感激です。
ここまでで書いたように、序盤はちょっとしたコミュニケーションミスに加えて、そもそもイスタンブール式の勝手がわからないことによるミスが連発し、早速3㎞30分の徒歩が加わったのも相まってグッタリと疲れてしまいました。しかし、多くの人の優しさによりようやく公共交通機関に乗れた時の安堵感は絶大なものでした。到着したバス停からルメリ・ヒサルの入口を間違えて30℃近い酷暑の中で1㎞↑50mのウォークトレが追加となるも、ここまでのミスの対処の方が遥かに大変だったので自分で解決できる程度のことという傷の浅さなど何でもなかったです。何より空港に降り立ってから約5時間の悪戦苦闘の末、トルコ旅行第一の観光目的地に着くことができたのです、、、その感慨たるや筆舌しがたく、その時の我々には何でも笑って済ませられそうな勢いがありました。
1-2 ルメリ・ヒサル 第一の目的地
ルメリ・ヒサルでは窓口でミュージアム・パスポートを入手することができました。3500TLと高額でしたが、これはこの後の行程を鑑みても入手しておいて良かったです。ルメリ・ヒサルの受付のお姉さんはパスポートを購入したにも関わらず「え、ルメリ・ヒサルも入るの!?」という感じでなぜかちょっと驚いた様子でした。ルメリ・ヒサルはイスタンブールからボスポラス海峡を北に10㎞以上離れた郊外で、他には観光地もないような場所です。これはKくんとも話したことですが、恐らく外国人でこんなコアな場所を見学に来る人もいないのでしょう、、、
ルメリ・ヒサルはメフメト2世がヨーロッパ側に建設したコンスタンティノープル攻略のための砦です。ボスポラス海峡を通る船舶を上から砲撃できる機能を持っているだけでなく、アジア側の対岸に存在するアナドル・ヒサルとの関係も私視点では注目でした。前述しましたが、アナドル・ヒサルもルメリ・ヒサルの対岸にある軍事用の砦であり、これを建設したのはメフメト2世の曾祖父である雷帝バヤズィト1世です。実はオスマン帝国にとってコンスタンティノープルは何十年にも渡って奪いたいと考えられてきた悲願の地であり、バヤズィト1世はメフメト2世より60年以上前に陥落目前まで追い詰めています。(なぜか何の関係もなく突然東からやってきたモンゴル帝国のティムールという武将に倒されて夢が潰えるのですが、、、)
野心家のメフメト2世が、オスマン家に伝わる夢に挑む気持ちはどんなものだったのだろうか、曾祖父の建てたアナドル・ヒサルのことをどんな風に意識してこのルメリ・ヒサルを建てたのだろうか、ルメリ・ヒサルの塔を登ってそんな気持ちを味わってみたいと思いました。ルメリ・ヒサルの上からメフメト2世も観ていたであろうコンスタンティノープルが、特にその象徴であるアヤソフィアが観えたりしたらエモくて最高だなと思いワクワクしていましたが、さすがに砦の一番上までは入れなかったため観えませんでした。しかし、ルメリ・ヒサルからは確かにボスポラス海峡が一望でき、如何にも中世の軍事施設だなという感想を抱きました。この砦をわずかに4ヶ月で造営したというのも驚きで、オスマン帝国の勢いや財力を象徴するエピソードだとも思いました。
1-3 ドルマバフチェ宮殿 自分から勉強して「観たい」と思った風景を観られた時の感動
ルメリ・ヒサルは一つだけ離れた場所にあったので、すぐに折り返しのバスを拾います。チャージできる券売機がなかったのでKくんのバス代は自分が2回タッチすることで代替可能でした。次の目的地はドルマバフチェ宮殿です。
このドルマバフチェ宮殿は事前打ち合わせで行くか行かないかを少し議論した場所でした。ドルマバフチェ宮殿は19世紀に西洋化していく流れの中で作られた、当時のヨーロッパ流行のバロック様式とオスマン様式を折衷した豪奢な宮殿です。4日間しかない旅程はシビアで優先順位付けをしなければ行けない中で、イスラム文化を味わう場としてはどうかという話をKくんとしていましたが、歴史の名場面が刻まれた場所の一つだったので、私は行きたいと主張しました。特に観たかったのはメフメト6世が旅立つ波止場です。
メフメト6世はオスマン帝国最後のスルタンで、1922年に起きたトルコ革命により彼はイギリスの軍艦でマルタへ亡命します。このような経緯を持つ人物としては当然ですが国内でもあまり人気も評価も高くないようです。ドルマバフチェ宮殿にある波止場はメフメト6世の亡命の舞台であり、このシーンは資料集の写真にも多く残っています。オスマン帝国623年の歴史に幕を閉じる一場面、彼の全身から無力さや諦観や哀愁が現れており、私はその写真に深い感銘を受けました。(あくまで私の主観ですが、メフメト6世は眼鏡をかけた小柄な男性で、哀愁漂う雰囲気がそのシーンの物悲しさを増加させているのかもしれません)
とうとうその波止場に辿り着いた時の感動は忘れられません。この旅を通していろいろな気付きや感慨はありましたが、やはり自分が勉強をして観たいと望んだ場所を自分の目で観るという感動が一番大きかったです。
波止場は西洋式の豪奢な門があり、如何にもフォトジェニックなスポットだったので写真撮影の行列が絶えませんでした。ほんの100年前には国の行く末を左右する大事件が起こり、また哀愁溢れる一場面を彩ったこの地が、現在では着飾った民衆によって賑わっている様子というのも歴史の皮肉を感じて非常に良かったです。
ドルマバフチェ宮殿の中を覗いていて、もちろん豪華絢爛さに圧倒されましたが、同時に感じたのはオスマン帝国のヨーロッパに対する気負いです。日本で言うと明治時代、鹿鳴館で日本人がスーツとドレスに身を包んで社交ダンスを嗜み、文化を真似しながら西欧に追い付こうと必死だったと言われていますが、それに似た気負った態度を建物全体から感じました。特にこの後トプカプ宮殿にも行ったのですが、トプカプ宮殿はもっと着実にイスラム文化に寄せた施設というか、例えば壁にはトルコ装飾として知られるようなターコイズブルーを基調とした模様が多くありましたが、ドルマバフチェ宮殿では豪華絢爛なシャンデリアやヨーロッパ式の装飾品ばかりが目立っていて、正直オスマン様式との折衷という要素はかなり薄いように感じられました。この宮殿内にもハレムと呼ばれる、スルタンが妻や子供と過ごすためのプライベートスペースがあるのですが、本館とハレムを比較すると本館の余所行き感が際立つように感じました。本館はヨーロッパからの来賓をもてなす場所として使われていたのでオスマン帝国の首脳陣にとって「舐められてはいけない」場所だったのではないかと想像しました。
この時期の外交としては第32代アブデュルアズィズのエピソードが有名です。彼は1867年にパリで開催中だった万国博覧会の視察を目的に、オスマン帝国のスルタンとしては史上初となる西欧諸国歴訪を行っており、このときイギリスのビクトリア女王やフランスのナポレオン3世と面会していると記録されています。(あとで調べたら豪華なシャンデリアはビクトリア女王から贈られたものとありました)
確かにこの時期のイギリスやフランスはアジアやアフリカ諸国の植民地化に熱を入れている真っ最中です。1857年にはアジアの大国だったインドが大反乱を抑え込まれイギリスに植民地化されるという大きな動きがありました。「西欧諸国に舐められてはいけない」とオスマン帝国が気負うのはある種必然だったかもしれません。
トルコというヨーロッパとイスラムとアジアという多様な文化の結節点となる国が生まれた背景にはただ単に地理的に近かったというだけでなく、まだ植民地化や領土争いの戦争が当たり前にあった時代に、国と国との緊張関係をどうすべきか人々が苦悩した末に生まれたのではないか、そんな背景も感じ取ることができました。
1-4 ガラタ塔とサバサンド 絶景スポットと言われる所以
ドルマバフチェ宮殿を出て水を買い、次の目的地であるガラタ塔は、公共交通機関ではなんとも行きにくいところにあったのでここもさらに歩きました。(+3㎞↑100m程度でしょうか、、、イスタンブールはとにかく坂が多いのです、、、)
イスタンブールの一番のメインどころは有名なアヤソフィアやトプカプ宮殿がある旧市街地と言われる地区ですが、そこから北に金角湾を渡った対岸の地区はガラタ地区と呼ばれています。メフメト2世は”征服王”の異名で知られていますが、信教の自由に関してはかなり寛容な姿勢を取っていたようです。この地域には、ビザンツ帝国時代にはメフメト2世側についてコンスタンティノープル陥落のキッカケを作ったと言われているジェノバ人が住んでおり、またメフメト2世の支配後から現代に至るまでキリスト教徒やユダヤ教徒も住んでいたそうです。1492年、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)と呼ばれる、現在のスペインからのユダヤ人追放が行われますが、この時のユダヤ人の一部を受け容れた国家の一つがオスマン帝国でした。
ガラタ塔はほとんどの旅行雑誌に掲載されているようなイスタンブールの絶景スポットでしたが、そういう背景も調べていたので、途中のガラタ地区の街並みからも多様な人種や民族が混ざり合った雰囲気も感じられるといいなと思っていました。
しかし、ふとこの辺りで気付いたのですが、我々はかなり疲れていたのでした。
この頃時刻は13時を周り、朝3時頃に機内食を食べてからすでに10時間が経過、しかも気温も高く日差しも強く、目の前には延々と続く坂道。ヨーロッパ風の街並みは綺麗でしたが、そもそもドルマバフチェ宮殿を観た後なのでそこまでの感慨もなく、だいぶ疲弊した状態で坂を登るのみだったのがこの辺りの記憶です。
やっぱり到着の興奮やらトラブル対応やらで一生懸命になっている時ってアドレナリンが出ていて、疲労やら空腹なんていつの間にか意識の外に出てて、ふと冷静になった時にドッと来るんですよね。
しかし、この疲労もガラタ塔に登ると吹っ飛びました。
金角湾、ボスポラス海峡、イスタンブールの旧市街地にあるアヤソフィアとトプカプ宮殿、ここは息を呑むような、絶対に行くべき絶景スポットで間違いありませんでした。
実は当初は「旧市街地にある世界遺産群(アヤソフィアやトプカプ宮殿)にどれだけ時間をかけるべきか」はかなり悩んでいてこのガラタ塔も優先順位付けで少し議論になったスポットでした。しかし、やっぱり人間というのは単純で高いところと絶景が好きなのです。(よく考えるとこのリアクション、空からイスタンブールの夜景が観えた時の興奮と全く同じです。「馬鹿と煙は高いところが好き」とはよく言ったもの)
歴史的な観点ではガラタ塔はコンスタンティノープルを攻める際の武器庫として使われていました。ルメリ・ヒサルの時と異なり、イスタンブールの旧市街地は目と鼻の先で、その全容が見渡せます。
メフメトはここからどんな気持ちでコンスタンティノープルの街を観ていたのでしょうか?
彼の目から当時キリスト教会だったアヤソフィアはどんな風に見えていて、アヤソフィアをイスラム教のモスクに変えるという構想はいつから考えていたのでしょうか?
コンスタンティノープル攻略のキッカケとなる船の丘越えはもしかしたらこの塔にいる時に思いついたのでしょうか?
やっぱり現地で観てみるといろいろな空想が広がります。メフメトの気持ちになってイスタンブール(コンスタンティノープル)の街を見渡してみるという、とてもやりたかったことを達成できました。
さて、ここで気持ちもだいぶ復活。ルメリ・ヒサルまでのトラブルで1時間ほど遅れていましたが、当初から昼食を食べたいと望んでいた漁港が目の前です!
この漁港ではトルコのB級グルメ?として有名なサバサンドを食べたかったのです。匂いに誘われて屋台に行くと、それはそれは大きなサバがたれをつけて網焼きに!
サバサンドは実はパンとの相性が微妙で「その微妙さを楽しむのも一興」みたいな表現をされるような、B級グルメ的な位置づけ料理なのだとKくんが教えてくれましたが※、その屋台のサバサンドは、なんとトルティーヤに具を巻いてくれるタイプでたれとサバと生野菜と相性抜群の絶品料理でした。空腹も相まって美味すぎて橋を渡る数分の間に瞬く間に腹に収まりました。
ターキッシュエアラインズの機内食は美味しかったですが、正直羽田ーイスタンブール便のトルコ料理はかなり日本人の口に合うように寄せているのではないかと勘ぐっていたので、この現地屋台で買う90TLのお手軽サバサンドが自分の口に合ってめちゃくちゃ美味かったことにはすごく安心しました。
※ちなみにKくんはこの旅行に臨むにあたってトルコ料理の勉強や研究もしてきたらしく、トルコ料理店でも食べたし、何品かは自分でも作ってみたとのこと!探求心がすごい!
1-5 トプカプ宮殿 ハレムの中の悲哀の歴史を感じる
さて、精神面はガラタ塔の絶景で、体力面は絶品サバサンドで回復して、意気揚々とトプカプ宮殿に辿り着きます。16:00に一部の施設が閉館ということでしたが、14時半頃に着けたので一安心。
ちなみにドルマバフチェ宮殿あたりからそうなので今更なのですが、やっぱり観光客がめちゃくちゃ多い!
ルメリ・ヒサルですれ違ったのは一組だけ。散歩ついでと思しき老夫婦しかいらっしゃらなかったので、我々が初手ルメリ・ヒサルを選んだ異常性が際立ちます。(ルメリ・ヒサル時点では「平日に来たし、まぁ大都会イスタンブールとはいえ、そんなもんか」と思っていた)
トプカプ宮殿はとにかく広くて、ちょっと全館回り切れる感じではありませんでしたので、本館、ハレム、宝物館だけは行こうと決めて、まぁそれ以外は時間次第で、という感じにしました。
本館はドルマバフチェ宮殿の方でも書きましたが、もちろん豪華絢爛なのですが、あちらを先に観ているだけにどこか抑えた印象。少なくとも当時のオスマン帝国の人が愛していたターコイズカラー中心の装飾がなされているのではないかと思いました。不思議な表現ですが、あちらの余所行き感に比べると、ここは”実家のような安心感”があるとでも言いましょうか。
続いて16時で閉まってしまうハレムに向かいます。ここは本当に落ち着いた空間で、しかし時々日差しが全く当たらない廊下や部屋があって、若干薄暗い印象を受けるくらいでした。ハレムはスルタンの血縁女性が政治権力を争って暗躍する、日本で言うと大奥のような場所でした。オスマン帝国の女性で有名なのは「ヒュッレム・ハセキ・スルタン」と呼ばれる、スレイマン1世の皇后です。奴隷の身分から皇后まで上り詰めたというそのストーリーに魅せられる人は多かったようで、今でもその名前を冠した浴場がアヤソフィアの目の前に残るほどの人気者です。ヒュッレムの登場は血縁の女性の政治参加が活発化する大きな転換点だったそうで「スルタンは神の影から現実の男に戻された」と言われていたとのことです。
前述したカフェスはこのハレムの中にあったのですが、係員の人に訊いてもどうしても見つけられませんでした。後日、日本に帰ってきてからトプカプ宮殿の見取り図などを検索したら、一番奥にあるムラト3世の部屋から、左手に中庭の見える渡り廊下があり、そのすぐそばに「皇子の部屋」と呼ばれるカフェスはあったようでした。探していたのでよく覚えているのですが、当日この部屋のドアは閉まっていましたし、ここを出入りする観光客は一人もいませんでした。恐らく改修期間だったか公開を止めたか、いずれにせよ一般公開はしていなかったのでしょう。
もちろんこのカフェスの部屋に入って、精神が病んでしまうほど追い詰められたスルタン候補の皇子たちに想いを馳せてみたいという目標はありましたが、ある意味これで良かったのかもしれません。このハレム内がどんな雰囲気だったかは薄暗い廊下からなんとなく掴むことができましたし、また400年も経った今も人々から見向きもされないその部屋の方が、却って鳥かごの中で世間から隔離されて苦しんだ皇子たちの悲哀をよく表しているんじゃないかな、と思うからです。
1-6 ブルーモスクとアヤソフィア 異教徒の街を慈しむ感覚について
トプカプ宮殿を出ると17時。9月下旬のイスタンブールはまだまだ夏の気配で外は暑くて明るいです。
アヤソフィアはどうやら礼拝の時間が被ってしまったらしく、ブルーモスクの愛称で知られるスルタンアフメト・モスクに行きます。一応長ズボンを穿いてはいましたが他宗教の宗教施設をどんな恰好で入っていいものか緊張していましたが、さすがに旧市街地の思いっきり観光地なだけあって堅苦しい雰囲気ではなく、なんなら半ズボンを穿いた観光客もたくさんいて、受付で止められては貸出の長ズボンを借りている様子でした。
ブルーモスクは青く美しいステンドグラスが印象的で、建物自体が一つの宝石箱みたいだなという印象を受けました。この後いくつものモスクを巡ることになりますが、早速かなり大きくて綺麗なものを観てしましました。あとで写真を見返すと、当然のことながら当時は写真はなかったにも関わらず、非常に写真映えのするモスクでした。
次のアヤソフィアにいった時のKくんのリアクションは忘れられません。
モスク全体のドームの大きさ、洗練された作りに、目にうっすらと涙を浮かべるほど感動していました。彼は以前も時々話してくれたのですが人の手で作られた偉大な製作物に対して、その仕事の丁寧さやその仕事にかけた人の熱量に、強く感動することがあるそうです。私はKくんほど深く感じ入ったわけではありませんでしたが、確かにその空間は厳かで何か人智を超えて背筋が伸びるようなハッとする感覚がありました。メフメトがここを取り壊さなかった理由はわかるような気がします。よく「第二次世界大戦の時に米軍が京都の町があまりにも綺麗で原爆を落とせなかった」という若干本当か嘘かわからないようなエピソードが語られることがありますが(残存している史実は「古都だからという理由でターゲットから外した」という文章が残っていることですかね?)、もしかしたらそれに近い感覚もあったのではないかと。
もちろん、この時のメフメトの政治体制や施策はもっと現実的な観点から取られたものだと歴史学上の記述はありますし、それは正しいでしょう。しかし、実際に生きる人の心はもっといろいろな出来事と経験を元に細かく細かく揺れ動くものだと思っています。
もしかしたらメフメトはアヤソフィアに最初に入った時に、Kくんと同じくらいに感動して、そうした感動や畏敬の念がその後のコンスタンティノープル統治に関する判断の随所で「支配した異教徒の街を慈しみ守りながら、その地に新しい文化を築いていく」ように繋がっていたとしてもおかしくありません。そんなことを、自分の感覚や隣で涙を浮かべるKくんを見て、改めて感じることができました。歴史的に正しいことは歴史書を見ればわかりますが、こういう体験はやっぱり自分で足を運ばなければ気付くことができません。Kくんとは感じ方や考えは全然違いますが、そうした人の感じ方との違いも含めて、やはり来てみてよかったと思いました。
1-7 考古学博物館 まさかの生演奏
この日はもうお腹いっぱいでしたが、せっかくミュージアムパスポートがあるので考古学博物館に行きました。私は自分の勉強した範囲以外はよくわからない歴史弱者なので「教科書で見たことあるこんなものまでトルコで出土したんだ、へぇー」という愚かさでしたが、Kくんはギリシャ神話に明るいのでテンションが上がっていました。途中、何の像だったかは忘れましたが誰かが誰かに踏まれている構図の石膏像?がありました。たまたま同じ時間に数十名トルコの大学生集団がいて、ふざけていた男の子2人が像と同じ構図の写真を撮影していました。ちょっといいところのおぼっちゃんたちに見えましたが、彼らは我々を見つけて若干邪魔になっていたことを詫びるように決まり悪そうに”めちゃくちゃ見覚えのあるような表情”で微笑みました。
これはそう、内輪ノリの大学生が第三者にふざけているのを見られちゃった時の表情そのものでした。学生時代に海外に行った時に仲良くなったスイス人大学生たちが「スイスウォッカ」コールをしていたのを思い出しました。その時と全く同じ感想を抱きます。
「やっぱり大学生のノリと馬鹿さはどの国でも変わらない」
考古学博物館を出るとなぜだか博物館前の広場でパーティーをやっていて、本当に偶然なのですが、なんと赤い制服を着た吹奏楽団がいてオスマン帝国の軍歌「Ceddin Deden(祖父も父も)」の生演奏を見ることができました。(今回のテーマにピッタリのシチュエーション!)https://www.youtube.com/watch?v=pj6G3JKZD3E
前述の通り、アヤソフィアあたりからもう本当にへとへとでしたが、この勇ましい音楽に勇気づけられ、またなんだかんだ序盤のミスの遅れを取り返して1日目をたくさん回ることができたという達成感も相まって、なんだか元気が出てきました。
1-8 超一等地での夕食と就寝 限界顔でケバブを貪る怪しい日本人男性二人組
ホテルに着き、夜の食事はアヤソフィア周辺に。
しかし、やっぱり超首都圏、日本で言うと銀座のレストランみたいな場所なので物価が凄まじく高い!地球の歩き方は2019-2020年版で博物館も食事場所も、どこに行っても値段は数倍から数十倍しました。とはいえすでにバテバテでしたから、せめて肉料理を一皿300TL(約2000円程度)台で出しているところを探し、一皿に多種類のケバブ肉と野菜が盛られたミックスケバブプレート1人前を頼み、あとはトルコで最も有名なエフェスビールを1杯ずつ頼み、乾杯をしました。その日の歩数は46131歩(36.3km)!
もう味が濃ければ何食ったって美味いに決まってます。
トルコ料理は世界三大料理と言われており、そのミックスケバブはその時まさに欲しかった塩分と油っ気があってめちゃくちゃ美味かったのですが、残念なことにそれを表現するほどの力や楽しかった一日を振り返って笑いながら会話するほどの体力が、もう2人とも残っていませんでした。隣で談笑する陽気なトルコ人たちはきっと我々のテーブルを見て「アジア人ってどうしてこんなに美味しくて楽しい食事の場でつまらなそうに飯を食うんだ」とでも思っていたことでしょう。(多分ただの被害妄想)
その後、トルコアイス屋さんとの振り回されコミュニケーションを楽しみつつ、宿に着きました。
宿はホテルプロフィールでランドリー有となっていたのですが、どうやら洗濯機があるわけではなく朝預けて夜に仕上げてくれるような有料ランドリーサービスに出してもらえるという意味でした。(荷物軽量化のためかなり衣服を削っていたので焦りましたが、2日目の朝にランニングをしてから出せばギリギリ持つかなという計算になりました)
タオルやベッドは清潔でいい感じ。この日の睡眠はここ1年で一番ではないかと見まがうほどのパーフェクトスリープでした。Kくんは寝る前に今日の振り返りや明日の予定確認などもう少ししたかったそうですが、私は飛行機でもあまり寝られていなかった&14時にサバサンド食べるほど欠食していたなどで疲労と眠気のピークに達しており、翌日の朝ジョグの起床時間だけ確認して明日の衣服の準備をしたら速攻で寝ました。後で聞いたら「自分がシャワーから出たらすでにポケモンスリープを立ち上げている様子を見て、ああこの人めちゃくちゃ眠いんだな」と思って、そのまま寝かせたとのこと。
私は比較的自律神経が弱く、諸々の環境変化に弱いので、食事についてだけでなく、海外のホテルでぐっすり寝て体力回復できるかも非常に気になる観点でしたが、2日目朝起きた時のあまりのスッキリ具合に感激しました。
第2章 2日目(イスタンブール後編)
2-1 トラブルは基本的に起こる 早速のプランB
さて、ようやく2日目がはじまります。
昨日迷い込んだギュルハネ公園を北に抜けて、トルコ建国の父”ムスタファ・ケマル・アタテュルク”の像を横目に朝ぼらけのイスタンブールの街を、今度は旧市街地側から望みます。金角湾とボスポラス海峡を隔てて、今度はガラタ地区やアジア側がまた感動的に美しい。日の出まで拝むことができて感無量です。そのまま旧市街地の沿岸を南側まで半周して登り、アヤソフィアにおはようを言いながらホテルに戻ります。素敵な朝ジョグでした。チーズが豊富なホテルの朝食も最高で、これは幸先いいぞ!と思った矢先、トラブル発生です。
2日目はレンタサイクルを借りてイスタンブールを反時計回りに1周し、序盤にフェネルという街を楽しみながら、テオドシウスの城壁5.7kmを自転車で辿ろうとプランしていたのですが、その日フロントの担当者からは「ない」と言い切られてしまいました、、、(Booking.comには「有」って書いてあったのになぁ、、、)
一旦話し合ってプランBに切り替えます。最初にバスを使って当初予定とは逆の時計回りに回っていくことにしました。本日最後に行こうと思っていたイェディクレ要塞博物館が今日最初の目的地になります。そしてその後は、、、もういっそテオドシウスの城壁を歩いて辿り、なんならその後のフェネルの街並みなども歩きながら観ていこう、、、というプランになりました。これはどういうことかというと、イスタンブールの中でもちょうど旧市街地から6㎞圏内くらいの扇形が過去にコンスタンティノープルの街があったエリアなのですが、その約三分の二を全部歩こうというプランになったということを意味しています。
実はKくんとは同じスポーツのチームに所属していました。このためこうした判断において、「体力で殴れば大体勝てる」といった、すぐに脳筋(脳みそ筋肉)の思考をしてしまいます。まぁ、この旅に行く前からすでに(深夜高速バス使う話をし始めた頃から?)「体力を削ってでも出来るだけ多くの経験を蓄積していく」そんな優先順位の旅にはなることはとっくに合意していたので、そういう会話を事前に出来ていたことが現地での判断を素早く迷いないものにし、今回の旅を満足なものにさせる大きな要因だったと思います。
そう決めたら早速ガラタ橋近くのバス停に行きます。
Kくんがイスタンブールカードをチャージしていると、ここで何やら頼みもしないのに券売機の操作を(しかも訳のわからない方向に)誘導・指示してくる少年が現れました。もしや、とは思いましたが、なぜかチャージ操作を終えた末に全くわからないトルコ語でチップを要求されました(言葉はわからなくてもお金を要求している人ってわかるものですね)。
払わず無視してそこを立ち退きました。
要求している金額は5TL、日本円にしたって30〜40円、我々のような成人男性の会社員が失ったところで痛くも痒くもありません。彼はまだ7,8歳に見えましたし、他に稼ぐ手段もない状況だとは思うので、そんな少額のチップでも彼の明日は少し良くなるのかもしれません。
だとしてもただただ"関わってはいけない"そんな感覚で立ち去りました。別に"こちらがありがたがってもいない方法で押し売りされてそれにお金を払うことは彼のためにならない"なんて、そんな殊勝なこと考えていたわけじゃもちろんありません。とにかく"関わりたくない"、それだけ。
異国の地で経験するこの感覚は、この旅の中でも何度か出会うことになります。
2-2 イェディクレ要塞博物館 守備力最強都市コンスタンティノープルの核心
さて、バスに揺られてウトウトしていたらイェディクレ要塞博物館にはすぐに着きました。ここはテオドシウスの城壁の南の端にある要塞で、高さ20m程度の城壁が星型に砦を成しており、壁の上部はビルの屋上のような構造となっています。この屋上部からは砲撃用のスリットが空いていて、壁に取り付いて登ろうとする敵軍を上から攻撃可能、という特に軍事用途で攻撃力・守備力の高い構造をしています。1453年の戦いに際してもコンスタンティノープル軍のコンスタンティヌス11世や主力兵士はここで戦ったそうです。
イェディクレ要塞博物館はGoogleマップでの評価も4.3とそこまで高い訳でもなく、正直大して期待していなかったのですが、今回の旅で3本の指に入るほど素晴らしいスポットでした。
この高くて分厚い城壁を下から見上げてオスマン帝国軍兵士の絶望を想像するのも一興でしたが、なんと嬉しいことにこの壁の屋上部にも入ることができたのです!
昨日のルメリ・ヒサルではちょうどこんな砦の屋上みたいなスポットに入りたいなぁ、と眺めつつ立入禁止で入れないという経験をしていたので、屋上に続いてそうな暗い階段を登りながらも「いやいや、まさかそんな」「え、まだ上がある…ってこと」「え、ちょ、え、そこも、、、」「この先はまさか、、、」「キターーー!!!」と所々ちいかわ化しながらテンションを上げていき、屋上に出た時はボルテージMAXでした。
屋上に出たからこその気付きはたくさんありました。まずこの要塞を起点にテオドシウスの城壁5.7kmが伸びていることを視認できたこと。「うわっ、本当にずっと続いてるよ!」と思わず声が出るくらいで、やっぱり人が意思を持って造ったデカい構造物って感動しますね。
コンスタンティノープル軍の観ていた風景や気持ちを味わえたことも素晴らしかったです。こちら側からはアヤソフィアのある旧市街地やガラタ塔まで、コンスタンティノープル一帯が一望でき、まさに国防の拠点だなという感じでした。この20mの絶望的な壁の上にいられるのは心強いようでもあり、かといってこんな狭いところをオスマン帝国約10万人の軍隊が取り囲んで常に隙を伺って睨まれていたと思うと心細くもあり、なんとなく心細さの方が勝ちそうです。
また、前日空港に着いた際やガラタ塔に登った際に、都心らしい高層ビルがいくつか遠くに見えていたのですが、我々が対象範囲にしたような歴史遺産群からは外れていて、どこにあるのかがよくわかりませんでした。しかしこのイェディクレ要塞からはテオドシウスの城壁の外側の風景も一望できて、そこを境に一気に歴史的街並みの雰囲気が薄まってビジネス街的な高層ビル・オフィス群が見えてくるということがわかりました(私たちはその街並みを勝手に「ニューイスタンブール」と名付けていました)。
ここはある意味ガラタ塔よりも「今のイスタンブール」がわかる展望台なのではないか、そんな印象する受ける素晴らしい場所でした。(評価4.8くらいに修正すべきです)
ちなみにここも例によって観光客来るわけねぇだろスポットの一つのようでしたが、地元に住んでるらしきおじ様とワンちゃんが2人で仲良く散歩していました。このワンちゃんが人懐こい系で我々のところに空のペットボトルを持ってきてくれたり、かわいかったので犬好きの私とK氏はしばし戯れて癒されました。
2-3 テオドシウスの城壁辿り1
さて、圧巻の要塞博物館に別れを告げ、テオドシウスの城壁辿りが始まります。
これはまたお客様向けのイスタンブールとはかけ離れた様子の街並みが続きます。住宅地の裏のような道路を歩き、どの家の窓からも大家族の洗濯物がぶら下がっています。時々人通りが全然なくて怖いなと思う道路もあったものの、高齢の男性女性が荷物を持ってのんびり歩いているのによくすれ違い、治安の悪い感じはそれほどありませんでした。
三枚の城壁が(特に一重目が)どれも埋もれていて少しわかりにくいのですが、その難攻不落っぷりは二重目三重目の城壁を見るだけでも一目瞭然でした。(以下、距離は目測ですが)まず一重目から二重目は幅・高さとも3~5m離れていてこれを一っ飛びで超えられたオスマン戦士はまずいなかったことでしょう。二重目と三重目は少し幅が縮まって幅・高さとも2~3mといったところ。しかし、この城壁、一部観光用にか二重目三重目の構造に入れるようなところが存在して、三重目の城壁は現在でも高さ10m、恐らく二重目でも7~8mといったところ。城壁全体がどのくらい埋まってしまったのかはわかりませんが、少なくとも二重目の城壁に登れたところで目の眩むような高さで、尚且つ三重目の城壁の裏にいるコンスタンティノープル兵はこの至近距離から攻撃をしてきたはずです。これは実に厳しい。
このテオドシウスの城壁が伸びる5.7㎞、今では幹線道路が走っており、本当にず~っと辿れたのですが、実は結構アップダウンがあり城壁の高さも場所によって変わりそうです。メフメト2世も、いえ、もしかしたらバヤズィト1世の頃から、この壁を舐め回すように見つめ、どうやって攻略するかずっと考えていたんじゃないかなと思いました。(もしかしたら今まさに我々がやっているように、壁に沿ってずっと歩くなんてこともやってた可能性ありますよね)
2-4 1453パノラマミュージアム 心の琴線に触れるエンタメ化と歴史認識の問題
イェディクレ要塞から約3㎞、1453パノラマミュージアムに到着です。
何度も登場しているのでこの記事を継続して読んでくださっている方には説明不要かもしれませんが、「1453」とはコンスタンティノープル陥落の年です。ここはつまりコンスタンティノープル陥落の戦争についての資料館です。そして我々がコテンラジオ深井さんの語りだけで熱狂したあの戦いが、なんとエンタメ化され、まるでプラネタリウムのような劇場でパノラマARで上映されるというのです!
実はこの施設を最初に知った時、ビザンツ帝国が滅ぼされた歴史を、思いっきりメフメト2世をスーパースターにする形でエンタメ化するのOKなんだなぁ、という感想を抱きました。まぁ、日本でも大河ドラマなど歴史をエンタメ化するのなんて当たり前なのですが、記事の第1回に書いた通り「オスマン帝国≠トルコ共和国」という認識にセンシティブになりすぎていてそういう感覚になったのだと思います。
ただしこういう行き過ぎた配慮みたいなのも含めて、歴史認識なんてその地に住んできた人しか絶対にわからない感覚があるよなと思いました。
私の考えたことを日本版で例えると「関ケ原で負けた西軍(石田三成など)の子孫に申し訳ないから徳川家康を主人公にしたエンタメ作品なんて作りません」くらいの感じでしょうか。
現代日本を生きてきた我々からしたら、ちょっと滑稽に思えるくらいの配慮具合だと思いますが、海外の人は変に勉強したら私と同じような変な気遣いをしたりするんじゃないかなぁ、とか。前の例はさすがに極端過ぎましたが、もっと近い歴史、例えば第二次世界大戦をエンタメ(映画・小説)として描けるようになったのは日本国内ではいつ頃なんだろう、とか。
あとこの例を書いている最中に気付いたのですが、もしかしたら一番わかりやすい例は、今年映画バービーの公式Twitterが炎上した件かもしれません。原爆投下に対する日本人の歴史認識のまだまだセンシティブな部分の温度感と、そのセンシティブさや温度感を見誤ってしまった海外の(よりによってアメリカ人の)方が、日本人にとってまだまだ負の歴史として抱えていて冗談にできないものを冗談で笑い飛ばそうとしてしまった。その国を生きる人とそうでない人の歴史認識の感覚・温度感が異なっていたために起きた残念な事例かもしれません。
ある国にとって(もしくはある人にとって)、過去を過去にできるのってどんなタイミングなんでしょうね。永遠に答えの出ない問いかけのように思いますし、だからこそそういう「もしかしたら踏み込んではいけないのかもしれない」というセンシティブさ・慎重さは持ち続けたらいいのかもしれません。
…すみません、現実に戻り、執筆を続けます。
やっぱりパノラマARで見る映像美は胸ときめいて素晴らしかったです。
Kくんはここでも作り手のパワーを強く感じ、感動したとのこと。
私としてはコテンラジオの語りによる事前情報、そこから興味を持って自分で調べた歴史書の記述、そしてこのド迫力の映像の三連奏でこの15分間を本当に楽しみ切れたなと充実感がありました。そしてやっぱりエンタメのパワーってデカいなと思いました。何せ私がこの歴史を追うきっかけになったコテンラジオも一種のエンタメですから。
先ほどの歴史認識の話は「見誤る罪」の話だけでは少し片手落ちで、それこそ「全く知らないことで配慮なく傷つけてしまう罪」も存在すると思います。やはりライトな形から興味を持って知るきっかけになる大衆向けエンタメ作品はその良性・悪性の両面を論じないといけないよなと思います。
2-5 テオドシウスの城壁辿り2
この後は周囲から目立っていたモスクに立ち寄ったりしました。13時頃で礼拝が始まっていました。Kくんがぐんぐん進むので私は焦っていました。半ズボンだったからです…
実は前日夜、自由に洗濯できるわけではないことがわかったので、服装計画が若干狂ってしまい、また昨日のアヤソフィアやスルタンアフメト・モスクでは両方とも貸出の受付があったのでそういうものかと油断していました。しかし、あれはスーパー観光地のイスタンブール旧市街地だからこそ実施していたサービスであって、その辺のモスクではそんなものなかったのです。
入り口で叱られたら彼には申し訳ないが退却か、と何も言われなかったので少しだけひっそり入って、数分で立ち退きました。以前、草津の温泉に行った時に地元のおじいさん数名が入浴マナーについて誰彼構わず厳しく𠮟責していた場面を思い出しました(威張りたかっただけじゃないかとは思っていますが)。基本、自分は文化のわからない相手のセンシティブな領域を侵してしまうことを恐れているみたいです。
だいぶ疲れてきて「エディルネ門」。ここはメフメト2世がコンスタンティノープルに入城する時の一番有名な絵画に描かれている門です。本当はもっとメフメトの入城シーンを想像したりして感じ入りたかったのですが、若干位置が不明瞭でここかな?という感じで、あとになってから「やっぱりあそこだった~」と気付く感じでした。惜しいですが、疲労も出てきていたのでこれはしょうがないですね。
そこからさらに歩き、城壁全景の模型がある博物館など立ち寄り、14時過ぎにようやく金角湾です。「城壁を歩き切った~!!!」城壁は5.7㎞に渡って本当に途切れることなく海から海まで続いていました。(本当、ビザンツの方々こんな馬鹿でかいものをよく作りましたよ笑)
2-6 フェネル メフメトが愛したキリスト教の街
そこから2㎞くらい歩いてフェネルの街のロカンタ(お惣菜屋兼大衆食堂みたいなところ)でヘトヘトの昼食です。じゃがいもと羊肉の煮込みケバブをいただきました。ちなみにトルコ料理はデフォルトでパンが無限の如く出てきます。ついつい食べ切ろうとしてしまって、毎回最後の3切れくらいになってから「あぁ、元々食べ切る仕様じゃなかったよな」と後悔します。
そしてここでトルコ滞在のお供とも言えるAyranについて紹介していきましょう。
Ayranとはヨーグルトに水と塩を足して混ぜたもので、Kくん曰く自宅でも簡単に作れるとのことです。塩気がスポーツドリンクのような風味で、最初はヨーグルトから塩味がすることに慣れずビックリしましたが、すぐに慣れて暑い日差しの中をこれだけ歩いた身体にキンキンに冷えたAyranは深く大変染み入り、すぐにお気に入りの飲み物になりました。このAyran、皆さんにも味わって欲しいくらい最高の飲み物なのですが、この旅において複数のトラブルを引き起こすことになります。後述。
フェネルという街はキリスト教文化が手厚く守られています。
この街に象徴的な建物として1454年から現在に至るまで現役で運営されている「私立フェネル・ギリシャ中学校・高校」(現在の名称)が挙げられるでしょう。コンスタンティノープルを征服した後、多くの人々がコンスタンティノープルからイタリアやギリシャに移住してしまったため、メフメト2世は、言葉や文化の自由を保証した上で、この地にギリシャ人を呼び戻すことにしました。1454年に建てられた学校は、コンスタンティノープル主教座に属するアカデミーとして設立され、神学、哲学、文学を教えていました。まさしく宗教的な寛容さを象徴する存在で、メフメトはこのキリスト教色が色濃く残るフェネルの街を愛していたと言われています。
ここも散策してみたかった風景の一つで、まるでヨーロッパにいるようで素敵な雰囲気でした。ただし、ガラタ地区のヨーロッパ風の街並みと何が違うのかと言われれば、そこに気付いたり語ったりできるほどの見識はなく、やっぱり何かを楽しむためには教養が大事ですね。そこだけがちょびっと悔しいです。
またこのあたりで我々、ちょっとした幸運に気付きます。フェネルの街はまたとんでもない坂の街(ギリシャ人学校などは斜度20度を優に超えるだろう坂の上でした)。こんなのレンタサイクルで来ていたら押すしかない、、、というか仮に当初計画通り反時計回りに回っていたとしたら、この街を通過した後にエディルネ門やパノラマ1453ミュージアムやイェディクレ要塞を見に行かないといけないと思って急いでいるわけで、坂の上にあるいろいろな名所を諦めて先を急ぐ姿が容易に想像できます。
なんという巡り合わせでしょう、レンタサイクルが借りれなかったことも、回り方を時計回りに変えたことも、全部プラスに作用しました。本当にラッキー!
2-7 水道橋、スレイマニエ・モスク、地下宮殿
その後はローマ時代からあるという水道橋を見て、付近の公園にあったオスマン帝国スルタン大集合銅像に盛り上がり、スレイマニエ・モスクに向かいます。
しょうもない余談ですが、スルタン大集合銅像のセンターは馬に乗ったメフメト2世で、下から見たら馬の下腹部がとても写実的に描かれていることに感銘を受け、それを”最も幼稚な言葉で”表現しました。
そこはさすがの名コンビ、”周囲が日本語がわからないから”と私が「しょうもない日本語」を使ったことに彼はすぐに気付いて、ニヤリと笑いました。
スレイマニエ・モスクはオスマン帝国で最も有名かつ優秀なスルタンの一人と名高いスレイマン1世の建設したモスクです。確かに歴史弱者状態だった高校生の私も、メフメトもバヤズィトもムラトも知らなかったものの、スレイマンだけはその名前を知っていました。
この内装がまた印象的。美しい宝石箱のようなブルーモスクと対照的に、華美さはないものの濃緑や薄朱色を局所局所に配置した色遣いは、例えば現代でもこの柄の服を出したら流行するのではないかと思うほど洗練されたデザインでした。
Kくんはこのスレイマニエ・モスクを「最も好きかもしれない」と言っており、この後比較のためブルーモスクやアヤソフィアに入り直そうとしたのですが、礼拝の時間が重なったり、私の半ズボン問題が尾を引いてしまったりで諦める結果となり、若干申し訳ないことをしてしまいました。
ちなみにこのスレイマニエ・モスクで我々無料配布の全日本語訳クルアーンを入手します。あまりの気前の良さに「え、本当?、本当に無料、、、?」と戸惑いながら受け取りました(まだ読めていないのですが、いつか、、、)。
この後はグランドバザール、地下宮殿と回って、夕食候補のロカンタをホテル付近の街中で見繕ってフィニッシュしました。
まずグランドバザールですが、有名観光地にもかかわらず一瞬で通り抜けてしまいました。もちろんトルコ絨毯の店などもありましたが、ほとんどの店がお菓子の叩き売りやNIKE・adidasのアパレル・シューズの安売りなどで、「あれ、これって、、、アメ横?」となってしまい、また喧騒も疲れてしまい、さーーーーっと通り過ぎました。
地下宮殿は前日開館時間を間違えて観られなかったのでちょうど良かったです。これまたよく地下にこんな貯水槽を作ったものだと感動する馬鹿でかさのインフラでこれがビザンツ帝国の時代に掘られたなんて、人間の意思が一つに揃った時のパワーというものには感銘を受けます。
人間は食糧を2~3週間食べなくても死なない、でも水分は4~5日摂らないと死ぬ、と言われていますよね。私は仕事で少し利水治水事業に関わっているのですがこうした水路や貯水池が整備された時期を知るたびに古の統治者の水確保に対する知識や建設技術、そしてなんとしても生活インフラを確保せんとする執念や発想力に感動してしまいます。
2-8 夕食 メシを楽しめない日本人
この後先述のアヤソフィア、ブルーモスクからの退却を経て、辺りも暗くなりこの時20時。今日本当にコンスタンティノープルの三分の二を回れたことに大満足しながら、ホテルに荷物を置いて夕食に繰り出します。昨日は夕食に1500TLも使ってしまったのを反省して、ホテルからも近いロカンタを見繕っておいたのです。「よっしゃ、今日は気兼ねなくトルコ料理食べるぞ〜」と息巻いていくものの、なんとロカンタ、20時閉店、、、!
神はどうして我々に試練を与え続けるのでしょうか。(この場合の神はキリストかアッラーか別の日本の八百万の神か波紋を呼びそうな記述)
この日は昨日にも増して歩数49202歩(42.7㎞)!もちろん体力の限界です😵
もうこれ以上こだわって探す気力はなく、また店のキャッチのお兄さんからも「ウチも21時には閉店予定だから決めるなら早めに」と言われ、とりあえず近場の、昨日と比べると随分庶民的な価格のケバブ料理屋台に入りました。
私は下にヨーグルトソースとポテトフライが入り、主にトマトソースで味付けたややジャンキーな焼きケバブとAyranを頼みましたが、ここで気付いたことがあります。
ヨーグルトってとっても重いんです。
Ayranはもちろん半分以上がヨーグルトですし、ケバブの下に入っているというヨーグルトソースが、ヨーグルトソースではなく、ヨーグルトそのもの(ブルガリアヨーグルトが料理の下に200g仕込まれている様子を想像してください)。
ロカンタのパンも残さないように食べたあのお昼ご飯は14時半くらいで、こんなに運動したにも関わらず、実は2人ともそこまでお腹がすいてなかったのです。
そもそもヨーグルトを200g食べたらある程度お腹いっぱいになるのに、そこにお肉とフライドポテトと、そして例によってパン!またやっちまいました。やっぱり出された食べ物を残すのは苦手で、パンもソースに漬けながら4切れも食べていました…
そしてさらにKくんは野菜果物不足にとスイカ(70TLとお手頃価格)を頼んでくれたのですが、付け合わせに控えめな小皿か何かで来るかと思ったいたのが運の尽き、、、メイン料理と同じくらいの面積の皿に、食べるのに3口は必要そうな大振りなカットスイカが10切れくらい入っていました。
雰囲気が悪くなりそうでお互いに言わなかったのですが、絶妙にストレスフルな食事になってしまい、さらに今度はフードファイト要素まで加わり、またしても「アジア人はなんであんなにつまらなそうに食事をするんだ?」って感じになっていたと思います。(もちろんケバブとヨーグルトの相性もよく普通に美味しかったんですけどね笑)
さすがに「メシより歴史、メシより経験」の旅です。「とりあえずあのロカンタで良くね」という判断まで含めて徹底して食事の優先度が低い…
フードファイトを終えて、部屋に戻ると、そさくさとシャワーを浴び、明日の準備をしながらエフェスビールを飲んで人心地つきました。旅行に行く前からターニングポイントになると話していた2日目の夜です。ここまで読んでくださった方ならお気づきでしょうが、満場一致(2人ですが)で「4日目はエフェス行き」に決定です!
フェネルの部分でも書きましたが、本当にいろいろな偶然が重なって、無茶苦茶かもしれないと話していた旅行計画で行きたかったところにほとんど行くことができ、感無量の気持ちでした。イスタンブールの文化をここまでしっかりと味わい尽くした後に、エフェスにも行けることが楽しみでなりません。
明日も5時に起きれば朝ジョグができるという約束だけし、眠りにつきました。
第3章 3日目(エディルネ)
3-1 No trouble, No life
さぁ、旅も折り返しの3日目。朝ジョグは昨日と逆回りをし、完全に暗かったですが、イスタンブールの2日目までを彩った風景たち(金角湾、ボスポラス海峡、ガラタ塔など)にお別れを告げます。
今日はエディルネの街に向かい、そして夜通し深夜高速バスに乗って起きたらエフェスです。どんな経験ができるかのワクワク感よりも、どんなトラブルが起きるかのドキドキ感が若干勝ります。
イスタンブール・カードの扱いも慣れたもの。最寄り駅から路面電車、地下鉄と乗り継いで、運命の地「イスタンブール・オトガル」に到着します。オトガルは高速バスのターミナル駅で、「イスタンブール・オトガル」は日本で言うと「バスタ新宿」みたいな場所です。
まずはめちゃくちゃドキドキしながらスマホを見せて高速バスのチケットを引き換えに行きます。係員のお兄さんが声をかけて教えてくれて、バスの会社もすぐに見つかり、バスの紙チケットも全く問題なく発行できました。3日目は高速バス移動がとにかく肝要になります。高速バスの予約は自分が担当していた、かつ、これまで初めて乗る公共交通機関でトラブルが起きなかった試しがないのでこの場面は心から安堵しました。ちなみに本当は紙チケットはもらわなくても何も問題はなかったのですが、どこで勝手のわからないイスタンブール式が発動するかわからないのでその辺は恐る恐るな感じで行動していました。
また、実はこの前日から困った問題が発生していました。私のスマホがWi-Fiに接続してもインターネットを更新できなくなったのです。3日目の命綱であるObilet.comの高速バスの予約情報がその場で出せないとか、英語も通じない土地なのに私の方ではGoogle翻訳を使えないとか、様々な弊害が出てきます。Obilet.comの予約情報は前日宿でスクショしておきました。
さて、チケット引き換えに安堵して、待望のロカンタにありつくことができます!
ロカンタでは当然のようにパンが付いてくるので、朝ごはんはスープを頼み、それをパンに漬けながら楽しみました。私が頼んだのはレンズ豆のスープで、これは朝ごはんには実にちょうどいい!
順調すぎて怖いくらいの感じで高速バスに乗り込み、20分くらい遅れてバスが発車します。しばらく外の景色を見ていたのですが、前日に見た”ニューイスタンブール”のオフィス街をすぐに抜け、地中海性気候のトルコの大地が見えてきます。かなり乾燥している様子で、作物を育てている場所は局所的で、何より地形がデカい!一つのゆるやか~な沢の幅が5㎞とか10㎞とかそんな感じです。
地形的にも気候的にもとあるスポーツの遠征で過去に行ったスペイン・アリカンテにかなり似ていました。その旅でもバスに揺られてこんな風景を観ていたせいか、11年も経ったのにいろいろと細かい記憶をふと思い出して一人でエモくなってました。
さて、このバスはエディルネまでの道中10か所近くに寄るタイプだった、かつ最初に20分のロスがあったので当初2時間半と称していた時間を大幅にオーバーします。
エディルネ・オトガルからエディルネまでは今度は地域巡回型の路線バスに乗らなければいけないということでバスの表示の行先が若干不明瞭でした。Kくんが荷物を預けてくれている間に路線バスの確認をしに行ったものの、翻訳も使えない状態の私はポンコツで、結局Kくんの判断で「これか」と思う路線バスに乗り込みます。(路線バスなので、最初エディルネとは全然違う方向に発進し、すごく焦ったのも懐かしい記憶です)
30分くらいするとエディルネに着き、この時点で約1時間遅れです。
3-2 セリミエ・モスク え、エディルネ、、、
エディルネの街の見どころは一目瞭然です。名建築家スィナンの最高傑作”セリミエ・モスク”が街の中心に抜群の存在感で陣取っています。セリミエ・モスクは1568年から1574年の間に完成させたと言われています。なぜメフメトの支配から100年も経って、改めて「最高傑作」のモスクを造る必要があったのか、このモスクを巡る物語も面白いです。
アヤソフィアは6世紀にキリスト教徒が完成させたモスクで、当時の建築技術では最高レベルと言われるような大変大きなドーム型構造の建造物です。イスラム教徒もいくつも素晴らしいドーム型のモスクを建設していますが、ドームの大きさに関しては当時のイスラムに伝わる技術ではどうしてもこのアヤソフィアを超えることが出来なかったそうです。セリミエ・モスクはイスラム教徒が一から建設した中で「アヤソフィアを超える大きさ」の初めてのモスクです。ここに「キリスト教の建築技術をイスラム教が上回ることができた」という歴史的な意義があるそうです。
アヤソフィアはメフメトの築いた宗教的寛容さ・世界観を象徴する建造物ですが、このセリミエ・モスクの歴史的意義と当時のイスラム教徒の気持ちを鑑みると、やはりイスラム教徒の中にはキリスト教徒の建物が残っていることに対する敵対心やライバル意識を持つ人が一人もいなかったわけではないのでしょう。
トップの方針によって「宗教的寛容さがあった」とは記述されているかもしれませんが、こうした複雑な想いは人によって(もしかしたら一人の人の内面の中にも)グラデーションがあるのかもしれません。だからこそ「異教徒の建てたモスクなんて超えなければいけない」という発想を100年も抱え続けられたのではないかと、そんな想像をしました。
しかし、大変残念なことにセリミエ・モスクの内部はなんと改修中、、、
一部だけ公開されていたので「一部分だけみても大きさがわかるね」などと語ってはみたものの、やはりお互いに「こ、これは、、、さすがにキツいぞ、、、」と感じていたと後で話してわかりました。(セリミエ・モスクしかない街のセリミエ・モスクが観られなかったのです、、、)
3-3 エスキ・モスク オスマン帝国が全盛期を迎える前の気迫を感じる
ここで(なんとか気分を変えたいという想いもあり)セリミエ・モスクの前にあった、エスキ・モスクにも足を運んでみます。これが殊の外良かったのでお互いに一安心しました。エスキ・モスクの中は武骨というか質実剛健というか、そんな言葉で形容されそうな雰囲気を持っており、それまで見てきたモスクとはまた違う印象を与えてくれました。モスクの壁にはクルアーンの文字が模様として描かれることが多いのですが、ほとんどのモスクでは崩し過ぎてもはや原型がわからないような「柄」という感じで、装飾的な美しさを追求するような印象を受けていました。(スルタンの衣服などにもこうしたクルアーン文字を原型にした「柄」が入るのですが、崩し過ぎていて近くで見るまでそれが文字だとは気付けないものも多くありました)
しかし、エスキ・モスクの壁の文字はとても力強く、日本で例えるなら武道館に「質実剛健」とか達筆で書いてあるような感じなのです。モスクはスルタンたちが戦いの前に身を清める場でもありました。これまで見てきた中ではそうした場面で最も身が引き締まるような、まさに「武道館のような場所」という印象を受けました。
エスキ・モスクが建設されたのは1414年で、これはコンスタンティノープル陥落の40年近く前であり、ここはこれまで見てきたモスクと大きく異なる点です。
また1日目にルメリ・ヒサルのところで書いたコンスタンティノープル陥落目前まで戦ったバヤズィト1世、彼がモンゴルのティムールにアンカラの戦いで敗戦したのは1390年の出来事です。
バヤズィト1世はこの敗戦でモンゴル軍に攫われて幽閉され、最終的には自死を選んだと言われています。実はこのアンカラの戦いに敗戦してからしばらくのオスマン帝国は「空白の30年」とも言われており、かなり勢力的に落ち込んで再興には時間がかかりました。ここに書くことには史実的根拠は特にないのですが、もしかしたら1414年というのは冬の時代を過ごしたオスマン帝国が、ようやく大きなモスクを建設できるくらいに盛り返してきて、「もうあんな時代に戻ってたまるか」「これからやってやるぞ」という雰囲気だったのかもしれません。
エスキ・モスクの壁に描かれた力強い筆跡を見て、そんなことを感じました。
(ちなみにイスラム教は「習字」が有名で、日本の「習字」的な力強さも惹かれた要因かもしれないです。)
3-4 ここはトルコの秩父なの?
さて、なんとか気を取り直し、次の目的地へ。
この日は1日目2日目に比べたら全然歩かないゆったりプランだと話していたのですが、次の目的地は徒歩で2km先でした…
ちなみにこの日の夕食はイスタンブール・オトガルの先ほど食事をしたロカンタで食べる予定でした。エディルネからイスタンブール・オトガルに帰り、イスタンブール・オトガルからエフェスに出発するまでの時間は1時間半もあります。高速バスの予約の引き換え方はもうわかりました。ロカンタの営業時間も22時と事前に調べておき、さすがに、さすがにもう、圧倒的に完璧な準備です。
だからこそ「ここはパンで済ませますか」と合意して、超地元のパン屋さんへ。
この夫婦でやっているパン屋さん、若干申し訳ないことに、突然の外国人の訪問にめちゃくちゃ驚いている様子がありありとわかりました。ここまででもう何度も味わっていますが、この歴史探訪もマニアックな地域では悉く驚かれ、しかもここは歴史遺跡セリミエ・モスクだけが売りの街、エディルネ、、、まぁ、そういうことかと、、、
しかし、やはり彼らはホスピタリティに溢れていて、私はトルコ語が全くわからない中でとりあえずミートパイのようなパンを欲しいということだけジェスチャーで伝えて、あとは何度かハイハイと頷いていたのですが、食べやすいように一口に切ってくれた上にトレーに入れて、プラスチックのフォークを付けてくれました。確かにそのミートパイは直に手で持つにはかなり油っぽく、手が汚れなくてめちゃくちゃ助かりました。
ここからエディルネの田舎道を辿ります。これが想像以上に本当に和やかな田舎道!
地域の少年たちが遊ぶサッカー場以外何もなく、途中本当にちょっとした2級河川みたいなやつを橋で超えたのですが、この橋が何一つ気取っていなくて、しかも地元の工事屋さんが修理をしていたりして、大変良かったです。イスタンブールではなかなか見ることができなかった気取らないトルコの田舎の日常風景を見たようでした。Kくんはしきりに「なんて落ち着くんだ!ここはまるで秩父みたいだ!」と故郷埼玉に想いを馳せて大興奮していました。
この橋を超えると目的地の「バヤズィト2世のモスク・医学博物館」があります。
ちなみに私も、「観光地のくせにまるで鶴見川河川敷の裏みたいなところにあるじゃないの、何これ最高!」と故郷に想いを馳せながらテンションMaxでした。
3-5 バヤズィト2世のモスク・医学博物館
異様な熱を帯びたアジア人たち。本当に牧歌的なこの公園のようなモスク兼博物館に入場します。医学博物館の前身は医学学校とのこと。どうやらこの施設、モスクや学校を一体にした複合施設で、運営資金はワクフ制度を元にしていたそうです。ワクフとは「寄付」や「寄進」と翻訳されることが多い概念であり、「ワクフはイスラム教にとっての公共施設の運営費用に充てられ、都市のインフラ維持に欠かせない制度だった」とされているので、今の日本で言うと、ワクフは税金、この医学学校は国立大学医学部のような位置づけが近いかもしれません。
今まで単独で建っている有名なモスクしか見てこなかったので感覚がわかりにくかったのですが、ここが複合施設になっているということからして、信仰と実生活がより近かったのかもしれません。
また、ここでは医学博物館の展示が衝撃的でした。
その展示内容はイスラムの絵画における手術のシーンなどが何点かあり、かなり写実的な人形たちが置いてあり、手術のシーンを再現する、、、というものでした。この写実的な人形というのが、例えるなら佐渡金山にあるアレみたいな感じでちょっとゾッとする感じのやつでした。イスラム絵画は比較的平面的なのでそこまで想像力が掻き立てられませんが、やっぱり人形でリアルに表現されるとまるで自分が痛みを感じているかのような気分になります。ヘルニア手術、目の手術、分娩・出産シーン、「それもちろん麻酔なしでやるんですよね…」と目を覆いたくなるような展示が続きます。
それらを観た後に、医学の発達においてはもちろん解剖が必須のようで、例えば視神経は脳のどこに繋がっているかを表すような医学書の絵がありました。
「つまり、その、、、視覚が脳のどの部分が司っているかわかるためには、、、こんな時代にどんな実験をなさったんでしょうね…」と想像し、すぐに想像するのを止めました…
3-6 初めてのハマム 異文化コミュニケーションでギュゼルな体験
そんなこんなで大満足でエディルネ市街地に戻ります。
そういえばここは日本人が絶対に立ち入らないような場所ではじめはこの田舎道を歩き始めるのが怖かったのですが、あまりにも治安がいいのが印象的でした。そして後から地図を見て気付いたのはバヤズィト2世のモスクからギリシャの国境はもう2~3㎞と目の前だったことです。こんな感覚も、やはり大陸国家だからこそという感じがしました。
この日は深夜高速バスの移動でシャワーを浴びれない予定だったので、ハマム(銭湯)に行こうと話していました。トルコのハマムは垢すりで有名なので、できたらここで体験してみたいと思いつつ。
正直外から様子を伺ってもどういうサービス形態なのか全然わからず飛び込んでみると、やっぱり英語が全く通じない店主と寛いでいるお客さんがおり、Kくんがタオルを借りられるかなど尋ねるも全くコミュニケーションが取れません。そこで店主はとりあえず600TLを受け取り、お金を払ったらとにかく上で着替えてこいというジェスチャーをして鍵を渡しました。我々は異国の地で全裸になり、タオルを腰に巻いて1階に戻りました。
店主は垢すり師を呼んで我々の対応をさせます。我々は陶板浴(岩盤浴のように温かいタイルが敷いてある)のような場所でちょっと待機させられ、いつ呼ばれるのかはわからなかったものの、他の客に倣って、身体にお湯をかけたり、陶板に横になって寛いだりしてみます。
サウナなどにも入りつつ、20分くらい待つと、垢すり師に2人とも呼ばれます。先にKくんが垢すりをやってもらい、私は見学する形でした。すると、垢すり師、うつ伏せに横たわった彼の背中を大きく「パーンっ!」といい音で叩きます。久しぶりに見ました、あんな風に人が叩かれているのを。思わず笑っちゃいました。
そしてトルコ語で「仰向けになれ!」「ここに座れ!」「このくらい痛くねぇだろ!」「もっとだ!」と多分そんなことを10分間の間に言いながら、時々頭も「パーンっ!」と叩かれたりしながら垢すりを終えました。途中ストッキングのようなスポンジを使って巨大な泡を身体に落としたり、サービス満点です。そんなストロングスタイルコミュニケーションも完全に笑わせに来てる、サービスなのでしょう。他の客にもそんな感じだったかはわかりませんが、垢すり師さんなりにこの言葉も通じず緊張で困り顔をしているアジア人を和ませようと、笑わせようとしてくれたのかもしれません。
実際時々痛かったものの、垢すりはすごく気持ち良くて、やってもらっている間も終わってもずっと笑顔でした。終わったら身体を拭いて、店主がレモンソーダを用意してくれて、リラックスできるタイプの椅子の上で寛いでいたら、もう眠ってしまいたいような心地よさです。トルコの方が当たり前にいる場所でこんなに寛いだ気持ちになったのは初めてかもしれません。
それこそ、こんなに相手と身体接触しながら「委ねる」経験って日本でもほとんどしてないかもしれません。相手を信頼しきって「委ねた」この時間が寛いだ気持ちを生んでくれたのかもな、などと思いました。
この旅を通して「メルハバ(こんにちは)」「サオール(ありがとう)」以外のトルコ語を本当に全くと言っていいほど使えませんでしたが、ここでトルコ語学習Youtubeのギュネシ先生が教えてくれた「ギュゼル!」を使ったら、垢すり師のおじさんは「オー、ギュゼル?」と言ってニコニコと喜んでくれました。
「ギュゼル」とは「最高、きれい、いいね、やばいね」などなんでも使える便利ワードとのこと。こちら言葉は通じませんし、しかもシャイですし、なかなかこの感謝を伝えることができませんでしたが、この「ギュゼル!」を言えた時はちゃんと通じ合えた感触がありました。幸福感の溢れる経験で非常に良かったです。
3-7 さらばエディルネ ここまでの総括を話すエモいバスの中
帰りのエディルネ・オトガルまでのバスはまたチケット購入場所がわからず、結局タクシーを使いましたが、190TLとかなりリーズナブルで良かったです。15分くらいで到着しました。やっぱり巡回バスはだいぶ寄り道をしていたようです。
エディルネ・オトガルで荷物を受け取り、サービスエリアのような場所でチャイ(トルコの紅茶)を飲み、エディルネを出発します。帰りのバスは出発当初、冷房が効かなかったり、あとバスの添乗員が何か重大な忘れ物をした様子でしばらくかなり焦っていたり(途中絶対に止まるはずのない場所で停車し、別の添乗員が乗り込んでくる…)、細かいトラブルはありましたが、帰りはイスタンブール・オトガルまで途中停車地はないので時間はほとんど遅れず安心です。
時間はまだ少し明るい19時でちょうど夕暮れ。地中海気候の砂漠のような大地に沈む夕陽を眺めていると、同時についさっき上ってきた月も見えてきて、沈む太陽と月が同時に見えるという最高の眺めでした。この圧倒的に大きくて開けた大地でないとこんな風景は見えないことを思い起こさせます。
バスの中では時間があったのでKくんとここまでの総括をします。私は次のような話をしました。一言目は確か「どこかの国に”住むだけ”であればネイティブレベルの会話が必要な場面なんてどのくらいあるのだろうか?」という疑問を口にしたように記憶しています。
私はトルコでは英語がほとんど通じないと知ってから気負っており、(かといって全然時間は取れなかったので)先述のトルコ語会話Youtubeなどを出来るだけ勉強してはいましたが、実際にはトルコ語を全く使えなかったし、全く使えなくても料理は注文できたしお金の支払いはできたしハマムにも入れました。
もちろん今の仕事は日本語をネイティブレベルでできるからこそ成り立っていますし、その他友人関係なども、もし日本語ができなかったら少し味気ないものになってしまうかもしれません。
しかし、実は日本に住んでいたって、例えばコンビニやスーパーで買い物をしたり、飲食店に入って何かを注文したり、ネットでチケットを手配して映画館に行ったり、精々今回の旅でトルコでやっている程度のコミュニケーションをするだけの休日も結構多くあります。
この旅を通して「なんとかなった」という感触とともに、もちろん「本質的な交流はできてないよな」という残念さも感じています。しかし、日本にいたって日本語ネイティブの言語が必要なほどの「本質的な交流」なんて普段どのくらい意識してできているんだろうか?
すごく逆説的にですが、そんな疑問を抱きました。
言葉がわからなくたって住むなんてすごく簡単なことかもしれないし、言葉がわからなかったらどんな憧れの場所に住んだとしてもその生活はとても味気ないものになってしまうかもしれないし、そしてどんなに言葉がわかっていたとしても自分の態度によって人生はいくらでも味気ないものになってしまうのではないか、そんなことを訥々と考えていました。
3-8 夕飯はまさかのアレ
さて、そんなことを話していたらいつの間にか外は真っ暗になっており、バスはイスタンブール・オトガルに到着します。さぁ、待望のロカンタへ!!!
とその前にエフェス行きの高速バスをまずは引き換えに行きます。
なんたってここをミスしたらエフェスに行けない。
しかし、しかし、しかし、しかし、、、、、
ここでスーパー大問題が発生、、、、、
なんと22時発エフェス行きの高速バスは予約後にキャンセルされていると受付で言われてしまいました。確かにObilet.comでこの便を予約した時に少し割引のある「OPEN TICKET」という形式しか選べなかったのでこれはなんだろうと疑問に思っていました。
Obilet.com内の注意書きを読むと仮予約状態で当日現金を支払って引き換える方式、ということまでは読み取っていました。しかし、恐らく後から予約者が入ったら自動キャンセルされるような、そんな方式だったようです。(それゆえの3割引きか、、、)
それでももう我々はエフェスに行くしかありません。Google翻訳も使って「エフェスに明日の朝に行きたいです。他に予約できるバスはありませんか?」と訊いて必死で粘ります。
そして受付の女性、とても有能な方でエフェス行きのバスを代わりに予約してくれました。これには大変安堵しました。
しかしほっとしたのも束の間、次に言われた女性の一言に我々は驚愕します。
「あと10分でそこにある21時発のバスが出ます、すぐに乗ってください」
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、え?
えぇぇぇぇーーーーーーー!
ロカンタ行けないどころか、今夜の夕食すら食べられない!
なんとか当初通りの22時発のバスの座席は空いてないのか食い下がるもここは聞き入れられず、、、私はひとまずトイレにだけ行かせてもらい、バスに乗り込む際はもし最悪トルコ料理が全く体質に合わなかった時のために、と保険で持ってきたカロリーメイトを取り出しました。
あぁ、夢にまでみたロカンタがまたしても、、、(しかも世界三大料理の場所に来たのに夕飯カロリーメイトなの、、、泣)
「メシより歴史、メシより経験」そんな言葉を脳内で反芻しながら疲弊した私たちを乗せて、バスはエフェスへ向けて走りだします。
3-9 Bad communication
ちなみにバスではなかなか記憶に残る嫌なトラブルが起こります。
高速バスの中には黒人の大学生のような男女5人組くらいの集団が付近の席にいて、時々騒いでいたりしたのですが、バスが発車して10分くらいしてから、その中でもかなり体格のいい女性が眠りかけていた私の頭を軽く触り、動かして席番号を確認するような仕草をしました。なんだったんだろう?席番を探していたのだろうか?と疑問に思います。確かにその女性は乗車直後から乗務員と話をしたり、何度か席を変わったりしているな、と思ってはいました。
そして、そこからさらに20分くらいしてその女性は急に話しかけてきます。全くわからない言葉で恐らく「お前は席を間違っているだろう、番号をちゃんと確認してそこをどけ」ということを言っていることだけはニュアンスでわかりました。そして、説得しているというより感情に任せてまくし立てているということも雰囲気でわかりました。
せめて簡単な英語ならわかるだろうか、と何とか「Have I mistake?」と”ミステイク”のところを強調してコミュニケーションを取ろうとするもやっぱり彼女は彼女の国の言葉で感情的にまくし立ててきます。
そもそも彼女は隣り合わせで座っているKくんでなく私だけに言っています。ここでKくんの隣に彼らの中の一人が来たとしてどうしたいのか?なぜ乗車してすぐに私に文句を言わなかったのか?そういうことまで含めて全く意味がわかりませんでした。
最大の問題は、そんな状況でもこの人と8時間密室で一緒に過ごさねばならないことです。何としてでも穏便に済ませねばなりません。
何度も自分のチケット31番と席番号が合っていることを確認して、これまでのホテル対応なども踏まえると、もしかしたらバス会社側が31番の席番号を誤って2枚発券してしまっている可能性もあるのではないか、そんな可能性に思い至りました。だからこそ彼女は頭を触ったり、知らない言葉でまくし立てたり、感情的で失礼な態度を取ってくるのではないかと。
なので一旦、自分が正しい番号の席に座っていることを確認してもらったら後は乗務員さんにトラブルについて相談しに行こう、そんな落としどころかと考えました。
後ろの彼女の友人と思しき男性は彼女に比べれば冷静な雰囲気で「君の席番号、確認しなよ、間違っているんだと思うよ」とでもいう感じにシートの番号が書いてある部分を後ろからコンコンと叩くジェスチャーをしてくれたので、彼に私のチケットを見せると、何やら感情的になっていた女性に彼から話してくれました。そして、私がGoogle翻訳で先ほどの乗務員への相談を提案する準備をしていると、彼は「もういいよ」のジェスチャーを返しました。
「ん?どういう意味?なんか別の問題発生?」
とその後どのようなことを言われるのか一刻身構えていましたが、その後彼らは話しかけてこず、本当に「もういいよ」だったようです。なんとも釈然としない事件でした。
その後も何度かバスの休憩時間があったりしましたが貴重品は肌身離さずしっかりと身に着けました。何か復讐や報復がないか気になって仕方がなかったからです。このバスがイズミルという街に着いた時に彼らが降りて行って、本当にホッとした気持ちになりました。
それにしても、どうして相手が正しい席番号のチケットを持っていたら引き下がるような状態であそこまで感情的に文句を言い、まして見ず知らずの相手の頭を触るなど相手に失礼な態度を働いていいと思っているのか、理解ができませんでした。あの対応に不満はいくらでもありましたが、文句を言いたくても彼女は言葉が通じない以上に対話する姿勢すら持っていない。そして、いくら文化圏が違うとはいえ、見ず知らずの相手の頭を触るような常識のなさを持っている人物とこれ以上関わりたくなかった。
トラブルを避けるために何も言わなくて正解だったともちろん思っていますが、そういう感情を飲み込んでいました。
そして、この事件は、これまでの3日間で体験したこととは全く異なる意味で、この世界では自分たちが圧倒的にマイノリティであり、それはこんなにも心細い気持ちになるのだということを強烈に知らしめました。男女とも自分たちより体格が良く、人数も勝てないような状況で、何かよくわからない理由で責められて、挙句謝罪の一言すらなく、解決したのかしてないのかわからないような態度で「もういいよ」で終わらせられる、正直とても怖く、そして悔しかったです。
冷静に振り返れば、「いやぁ、海外で言葉の通じないヤンキーに絡まれちゃったよ」くらいの話なのですが、これもいい経験・気付きだったのでちょっと率直な気持ちを言葉にしてみました。
初回に書いた通り、やっぱり深夜高速バスというのは旅行上級者が使う交通手段というのは予約トラブルと乗客トラブルの二連奏を経験して、本当なんだなぁと改めて実感しました。これらは確実に私の体力とメンタルを削り、それでもバスは走ります。
そして私は眠りに落ちます。こんな想いをしてまで行くエフェスはきっと最高だと信じて…
第4章 4日目前半(エフェス遺跡・セルチュク)
4-1 セルチュクで歓迎してくれたのは…
さて、4日目の午前5時、深夜高速バスはセルチュク(エフェス遺跡の最寄りの街で公共交通機関のターミナル駅)に到着し、ここで降りたのはなんと我々2人だけでした。しんと静まり返る街に我々を出迎えるものがいました。大型の野犬です…
う、嘘だろこいつら…ってくらい野放しのデカい野犬が4,5匹、我々を(恐らく)歓迎しています。元気で運動量の多い野犬たち、オオカミと見まがうような迫力でじゃれ合い、特になぜか野良猫を追いかける時だけは本当にオオカミのような凶暴さです…
しかし、なぜか彼ら、我々に食い物を出してくれたらラッキーくらいに期待はしている様子なものの、一応行政から躾をされているのか決して噛みついてくることはありませんでした。
観光地は8時まで空かないのでその真っ暗な街でどう過ごすかでしたが、なんとロカンタ24という24時間営業のロカンタがあるとのこと。実は深夜高速バスに乗っている間も大小いくつかのパーキングエリアやサービスエリアのような場所に休憩に寄っていたのですが、こうした深夜営業の施設があることも実はちょっと意外でした。
深夜高速バスという業態が成立している時点でそういうものはあって当たり前なのですが、恐らくお酒を飲まないイメージに起因しているのだとは思いますが、なぜだか私にはイスラム教徒の方が深夜に起きているイメージがなかったのです。またコンビニエンスストアのような業態で24時間営業の店があんなにたくさんあるのは日本が特殊、という先入観にも逆の形で囚われていました。「あんなにたくさん」はないかもしれないけど、あることはあるのです。やっぱりこういう細かいところでも微妙な偏見ってあるもんだなぁと思いました。
ロカンタ24の近くにはもう一つおじ様たちが酒盛りをしている24時間営業ロカンタがあったのでそこに入ります。そのロカンタはイスタンブール・オトガルのロカンタと同じく朝食にピッタリのスープとパンを提供していました。私は昨日の予約トラブルでカロリーメイトと途中のサービスエリアで買ったスニッカーズもどきみたいなお菓子しか食べてないので腹ペコです。イスタンブール・オトガルでは野菜の裏ごしみたいなスープが多かったですが、ここはかなり肉の煮込みにニンニクを加えたようなガッツリ系スープが多くあり、これはもう今の状況にうってつけです。私は羊の足を煮込んだスープを、Kくんはモツ肉(内臓)を煮込んだスープを頼みました。店主は追いニンニクを出してくれましたが、それが絶妙に合うような活力の出る味で、深夜高速バスの洗礼を受けて朝っぱらから疲労した我々には効果抜群です。
店主のご厚意でトルコ紅茶”チャイ”もサービスしてくれて、ほっこりとした気分でまた4日目の旅を始めることができそうです。
4-2 エフェス遺跡に向かう道中 サトシとピカチュウ
エフェス遺跡に向かうにはまだ開館時間より随分早かったので、外から観るだけでも圧巻のセルチュク城塞を眺めたり、その高さから街並みを眺めたり、近くの公園に寄ったりセルチュクの街のぶらり散歩を楽しみます。公園で面白かったのは、その公園、いわゆる古代ギリシャ様式の柱の残骸があったのですが、ちょっとした砂場みたいになっていて、尚且つ、そこに「まぁ、普通の公園ならあるよね」程度のゴミが捨てられていたことです。「え、こんな歴史遺産っぽいものがそんなテキトーな扱いなの」と思うと同時に考古学的な歴史と生活の近さをこんなちょっとしたところにも感じました。
さて、いつの間にかいい時間になっていたのでエフェス遺跡へ徒歩で出発です。(尚、この時私もKくんも若干縮尺を間違えていて、結局約4㎞歩くことになりました、、、)
歩き出すと不思議なことが、、、先ほどの大型野犬たちの1匹、三車線の国道を歩く我々をどこまでもどこまでも着いてきます。私たちが足を止めると止まり、進むと少し前を行き我々を案内してくれるような感じで一緒に進み始めました。Kくんと大型犬が進む様子がさながら「サトシとピカチュウ」のようでした。我々は彼を「Our Friend」と呼び始めます。Our Friendは道中の邸宅に繋がれていた飼い犬と途中小競り合いなどをしながらも、エフェス遺跡まで片時も離れずに我々を先導し、そのままエフェス遺跡に入り、その後は離れていってしまい、ちなみにエフェス遺跡を出る時に見たら他の観光客に懐いているような様子すら見受けられました。「こいつはここの従業員(のつもり)で、さっきのはたまたま出勤時間が被っただけだったのか?」謎のほっこりOur Friend事件です。
4-3 エフェス遺跡1 大都会は僕たちの胸を躍らせる
さぁ、結局1時間弱かかって、本日の超メインイベント、エフェス(「エフェソス」とも表記する)遺跡に辿り着きました。
”エフェスでは、世界七不思議のひとつであるアルテミス神殿、聖母マリアの家、世界三大図書館に数えられるセルシウス(ケルスス)図書館など、ヘレニズム時代・ローマ帝国時代・初期キリスト教時代の貴重な遺跡を数多く見ることができます。
ローマ帝国時代には、かの有名なアントニウスとクレオパトラも滞在し、古代ローマ帝国では貿易の要衝となり、初期キリスト教時代の教会会議や公会議が幾度も行われるなど、歴史的にも重要な意義を持つため世界中から多くの観光客が訪れる。”というのが旅行会社の紹介プロフィール、ちょっと背景知識は薄目ですが、ここでもまた忘れられない感動の時間が我々を包みます。
特に大きく感銘を受けたのはここは当時誰もが憧れる先進都市で大都会だったという、その痕跡を随所に感じ取れたことです。例えばこの遺跡内で恐らく観光地パンフレットの写真なども一番多く有名なのは、今でもコンサートで使用されるという大型の円形劇場です。改修されたとはいえ、古代にこんなスケールのデカい、しかも生活インフラでなくエンタメ用途の建築物があったということに衝撃を受けます。またこの円形劇場の正面には先述のアントニウスやクレオパトラも来航したであろう貿易港からの道があり、この大劇場のある大都会を船旅を終えて初めて観た人たちの衝撃や興奮はどんなものだったのでしょうか?(例えばニューヨークに初めて降り立ったような感動なのかもしれません)
私とKくんはエフェス遺跡の建築物を見て、ひたすら大興奮してピョンピョンしてましたが、その時代に大都会エフェスを目の当たりにした人たちも、私たちと全く同じように大興奮でピョンピョンしていたのかもしれません。(最も、アントニウスやクレオパトラであればそもそも都会から来ているのでそんなにかもしれませんが)
4-4 エフェス遺跡2 未来を想い、自分の可能性を信じる力
図書館も非常に素敵でした。これはこの日の終わりの出国前にKくんとも話したのですが、古代の人が図書館を建てて「知を集積する」という営みが生まれていることにそもそも大変な感動を覚えます。
これもあくまで私の視点ですが、「知を集積する」ということの多くは自分が死んだ後に未来を生きる人のための行為であり、古代の、自分がその日一日を生き抜くことすら難しかった時代に「この世界がずっと続いて、さらにより良いものになれば良い」とそんな願いを込めて図書や図書館はつくられているのではないかと思うからです。
その考えに辿り着くためには、平均年齢80歳を超え、地球温暖化も予測できる現代人が「未来のためを想う」のとは一線を画すような高尚さ・精神の気高さがあったのではないかと想像しており、そんな点から「古代の図書館」というものに感動してしまいます。
我々はすごく早めに着いていたので円形劇場で、アメリカからの旅行者と思しきお兄ちゃんと他に誰もいないのをいいことに歌って踊って遊んだりしていました。しかし、美しい遺跡に気を取られているといつの間にかツアー旅行客がめちゃくちゃ増えてエフェス遺跡が大賑わいになっていることに気付きました。エフェス遺跡にはアゴラと呼ばれる市場などが開かれるような集会所があり、メインロードの緩やかな坂を隔てて、それぞれ「上のアゴラ」「下のアゴラ」と呼ばれています。
この時、上のアゴラ辺りの坂の上から下を覗いてみると、図書館から娼館、集合住宅(奇しくも「テラスハウス」という名称)に至るまで、この古代都市に驚き、興奮し、おしゃべりが止まらない様子の人々の群れで埋め尽くされています。
この光景がとても心に響きました。もしかしたらですが、最先端の都市に驚き、興奮し、おしゃべりが止まらない、当時を生きていた人たちも今目の前にいる人たちと全く同じような表情で全く同じような反応をして、この場所にこんな風に人がたくさんいたんじゃないかなと想像したらなんだか”二千年の時を一気に超えたような”堪らない気持ちになってしまったからです。
この旅行で何度も感じていることですが、圧倒的な文化や技術力には人々をあっと言わせる普遍的な力が備わっているのかもしれませんね。これがオスマン帝国文化の15世紀以降よりも、ビザンツ帝国の時代よりも、さらに何百年も前に造られたものであるという事実が、その感動をさらに大きなものにします。文明もそれほど発達していない時代であればあるほど、そこで引き出された人間の力や意志、そして何よりも「自分たちの可能性を信じる力」をより強く感じ、畏敬の念を抱きます。
古代を中世に、中世を近代に、近代を現代に、変えてきたのは
「未来のためを思い」「自分たちの可能性を信じる力」なのではないかということをこの場所で改めて感じました。
4-5 アルテミス神殿 魅力溢れる偽コイン
さて、大満足でエフェス遺跡を出て、地元の親切なおじさんが割引価格でセルチュク行きのバスに乗せてくれます。次のイズミルまでの出発にはあと1時間ほど。
この後、アルテミス神殿跡、聖ヨハネ教会、考古学博物館に行きます。
アルテミス神殿は他に何もないぽっかりした原っぱの絶景スポット?という感じでしたが、エフェス遺跡以外のセルチュクの見どころが全て一つの風景に詰まった確かに絶景スポットでした。
もう一本しか残っていないというアルテミス神殿の柱は本来10本あったそうで、奥にはモスク、聖ヨハネ教会、そして早朝に観たセルチュク城塞の城壁が全て一望できました。ここでは謎の解説おじさんが現れて10本の柱のことをめちゃくちゃわかりやすく解説してくれました。
当然のことながら彼は物売りでその解説絵本を売ってくるなどしました。あまりこういうのを買いたくなくてあと付き纏われるのも面倒なので断りましたが、彼はエフェス遺跡で発掘をしていて、この間もアレクサンドロスやカエサルのコインを掘り当てたと見せびらかしてきました。これも商品のようで、ちょっと心惹かれます。
おじさんの話の真偽もそのコインが偽物かどうかも分かりませんが、正直偽物なら偽物でお土産・記念品として割と出来が良いくらいのものでしたので、かなり後ろ髪引かれながらの退却となりました。
4-6 聖ヨハネ教会 良スポット過ぎて痺れる
聖ヨハネ教会はこれまた予想を完全に裏切る最高のスポットでした。Kくん曰く、布教活動を終えたヨハネが聖母マリアとともに余生を過ごし、生涯を終えた場所ということで密やかな隠居場所というイメージを持っていたからです。
しかし、行ってみると絵に描いたような古代ギリシャの遺跡群!
見晴らしの良い丘に建てられたこの遺跡はセルチュクの街の展望台ともなっており、先ほどアルテミス神殿から見えたセルチュクの風景だけでなく、周囲の山々や地形まで一望できました。ヨハネさんも贅沢な場所で余生を過ごされたものです。イスタンブールよりだいぶ南で地中海気候の特性が強いセルチュクはとにかく日差しが強く、エフェス遺跡までの4kmやら、エフェス遺跡内での大興奮やらですでに10km近く歩きまくっていたので疲れていましたが、これも疲れが吹っ飛ぶような素敵な場所でした。
4-7 考古学博物館 トルコの博物館には必ずアレがある
考古学博物館は本当に10分しか滞在できなかったのですが、ここまでも含めた気付きとして博物館のセキュリティの厳重さが挙げられます。ここでは大きな荷物預けを「必須だから」と一旦入場を止められてロッカーに入れてから入場するよう指示されており、それだけでなく、トルコ全域の博物館がとても小さなものでも必ず荷物検査(あの空港でやるやつです)がありました。この背景には考古学的に価値のある遺産が多いという以外にも、トルコ国内が非常に多様な民族が住む国家であることや、イスラム教徒の中に過激なテロ行為を働く集団もいることなど、ここまでセキュリティを強化するには多様な背景が推察されるとKくんと議論しました。
さて、大満足のエフェス遺跡、セルチュクに別れを告げ、この度最後の目的地イズミルに向かいます。この時点ではセルチュクをもっとじっくり楽しむ選択肢もありましたが、イスタンブールもエディルネもセルチュクも、ほんの少しの滞在期間でも現地に行ったなりに行かないと得られなかった気付きが多かったので、エーゲ海に面したトルコ第三の都市イズミルにも行ってみたいと考えたからです。
4-8 映画のワンシーンみたいな大ピンチ
さて、列車の切符をなんとか入手しますが、、、
ここでこの旅最大のピンチが訪れます。
炎天下をすっかり歩き通しで、またセルチュクの街には商店が少なかった※ので、完全に水不足になっていました。セルチュクからイズミルまでの電車は1時間半です。
(※トルコの街中には自動販売機がほとんどありません)
電車の出発時刻は12:09。12:04に駅から100mのところに商店を見つけ、Kくんからは「僕が水を買っておくので、あの電車が本当にイズミル行きか他のお客さんとかに一応確認してもらえますか?」と指示されて、私は駅の方に戻ります。
この時確か12:06くらい?
駅を振り返った私は列車がすでに来て乗客が乗り始めていることを発見し、とりあえず自分も乗り込みます。そしてあることに気付きます。
(あれ、なんかこの列車、、、もうすぐにでも発車しそうじゃないか、、、?)
そして100m近くある店のドアを凝視して、Kくんが全く現れない状況で、決定的なことに発車のベルが鳴ってしまいます。(この時、12:08)
私は祈るような気持ちで店のドアを凝視します。
(おい、K、おいこら、早く来い、大変なことになるぞ、早く来い!!!)
人に対してこんなにイライラしたのは久しぶりで、仕事中でもそこまではしないだろというほど、信じられないほどの回数舌打ちをしました。
そして決定的なことが起こります。まだ12:08:10くらいなのに、ドアが閉まり始めました。Wifiは彼しか持っていません。このままはぐれると大変なことになります。車掌のいる車両は遠く、相談しにいく時間はもうありません。
(乗るか、降りるか、どうするか、、、あぁ~もう考えるのめんどくさい!どうにでもなれ!!!)
私はこの一瞬の判断で、とりあえず閉まりかけたドアに右手を差し出して押し返しました。
すると日本の電車と同じ仕様で、安全装置が作動して、ドアが開き直しました。
しかし、まだ姿は見えず、もう一回閉まり始めたらさすがに諦めて降りようと思った時に、Kくんは現れました。
私は人に対して声を荒げて命令形で何か言うことが滅多にないのですが、この時は、
「早くしろ!乗れ!」
と短く早く声を荒げて命令形で言い放ちました。
なんとか12:09発のイズミル行きに乗れて、この旅行最大のピンチを乗り越えました。
しかし、この場面を冷静に振り返ると、私がドアに手を挟んで止めてからいかにも電車に乗ろうとしている彼の姿が見えるまで30秒近くドアが閉まらなかったように思います。
恐らくですが、安全装置でドアの開閉が止まってから車掌が何かあったことに気付いて、駆け寄ってくるKくんの姿を視認して、ドアを閉めずに待っていてくれたのではないかと思います。
乗り込んだ直後の彼は私がここまで緊張と葛藤を強いられる場面を迎えていることを知らず、ギリギリで乗れたと思っていたっぽいので、これが如何に大変な場面だったかについてだいぶ話しましたが、海外に来てまでマナー違反で公共交通機関のダイヤを乱してしまったのですからちゃんと反省して欲しいですね(半分冗談です笑、乱す判断をしたのは私ですし)
ちなみにずっと前に書いた1日目の「公共交通機関が定刻より早めに出発する」という伏線はここで回収されます。(それにしたって、確かに定刻より早めに発車する習慣ってなんなんだろう?)
こんな映画のワンシーンみたいなやりとりを経て、列車はイズミルへ旅立ちます。窓の外には奇岩地形のような不思議な形をした岩岩が現れ、やはり異国の景色というのは退屈しません。地球の歩き方を読んでいたら、日本語を完璧に話せるトルコ人のおじさんが「楽しんでる?」と声をかけてくれて、彼はどうやら宮城県名取市で石窯焼きピザの店を経営しているとのこと。高速バスで異文化の方と怖いやり取りがあった後だっただけにその心遣いに温かい気持ちになりました。
第5章 4日目後半(イズミル)
5-1 最後の街、イズミル 恵まれない僕たちの食事事情
列車から観るイズミルは、島っぽい地形という印象です。狭い面積のエーゲ海岸からすぐに傾斜変換があり、これまたとんでもない傾斜の山が見えました。(またかよ…)
イズミルの中心からは少し外れた場所にあったIzmirBasmane駅は綺麗で、またチケット販売所もわかりやすくあって、都会的な場所に来たことを予感させます。
イズミル最初の目的地はエーゲ海沿いにあるトルコ共和国建国の父"ムスタファ・ケマル・アタトゥルク"の博物館です。ここに向かいながらまず昼食をロカンタで、と探し始めま、Kくんが当てをつけてくれた数ヶ所あったのですが、駅付近は飲食店が結構賑わっていたのにある通りを境に開店している飲食店がほとんどなくなりました。
ケバブ屋とキョフテ屋が一つずつあったものの、ちょっとお高めな雰囲気。仕方なく2km弱の距離を戻ってさっき見つけていたロカンタに入ります。本当、メシには縁のない旅です。しかし、暑い中で飲むAyranはいつも我々を癒してくれます。
5-2 ムスタファ・ケマル・アタトゥルク博物館 歴史の人物を捉えることの難しさ
気を取り直してまた道を行き、我々2人とも人生初のエーゲ海との接触を図ります。気持ちいい!
エーゲ海の風を浴びながら気分良くムスタファ・ケマル・アタトゥルク博物館へ向かいます。ムスタファ・ケマル・アタトゥルクはトルコ共和国の初代大統領で「救国の英雄」「トルコ建国の父」と言われています。
1919年頃、オスマン帝国は欧州各国に領土を分割され、衰微の一途をたどっており帝国解体の危機にあるにもかかわらず、当時の首脳陣は外国の支配下に入ってもいいと考える人が多数派でした。
ムスタファ・ケマルは、外国に支配される状況を受け入れることができず、祖国を開放する徹底抗戦を行うため、イスタンブールにて愛国家の将校達と密かに集結し綿密に計画をします。これが祖国解放軍による欧州各国とのトルコ独立戦争の始まりと言われています。
このようにオスマン帝国内部体制は混乱した状況になる中、ムスタファ・ケマルは1920年には東方のアルメニアに勝利し、続いて西部の占領国ギリシャへ反転攻勢に力を注ぎ、1922年にギリシャ軍を破り、このイズミルの地を奪還しました。これら2つの戦争に勝利したことをきっかけに国土のほとんどを取り返すことに成功します。同年10月に各国との停戦協定であるローザンヌ条約を結び、トルコ独立戦争が終結しトルコの平和を回復することに成功しました。
その後、トルコ大国民議会は1922年11月1日にオスマン帝国スルタン制を廃止し、メフメト6世を退位させ、ここで623年間続いたオスマントルコ帝国が終焉しました。
1923年10月29日月曜日午後8時半に共和国が宣言され、ここにトルコ共和国が成立。ムスタファ・ケマルは選挙で大統領に就任します。
こうした経緯から今でもトルコ料理の店に彼の額縁が飾られるほど国民から尊敬と崇拝を集めている存在であり、この旅行の中でトルコ国旗とアタトゥルクの銅像を数え切れないほど観てきました。「アタトゥルク」という称号自体がトルコ大国民議会から与えられた「父なるトルコ人」ということを意味しています。また、アタトゥルクの批判をすることはこの国では許されません。「アタトゥルク擁護法」という法律が存在し、公の場でアタトゥルクを侮辱する者に対して罰則が加えられることもあるからです。
しかし、Kくんの調べてきてくれた印象では「どこか独裁者のような気質があるように感じる」ということを教えてくれました。私はアタトゥルクについてそれほど調べることが出来なかったのでコテンラジオ(オスマン帝国編)の最後に少しだけ「救国の英雄でかなりのイケメン」として紹介される彼のことを、どこか憧れるような気持ちでポジティブな印象を抱いていました。
だからこそ今回自分の目で見たものを確認したいと思っていました。
確かに、彼は民族主義的な思想が強く、ギリシャ-トルコ間の「民族交換」を行うなど一部残酷なことも行っており、アタトゥルクの政策には国内でも批判的な声が大きかったようです。先述の「アタトゥルク擁護法」もこのような風潮の中での国内の思想統制・言論統制の意味合いがありました。
私がこの資料館で印象に残ったことは大きく2つあります。
一つはアタトゥルクの表情の変化です。1917年、まだオスマン帝国の青年将校だったムスタファ・ケマルはどこか精悍な爽やかさを感じさせる表情でした。しかし、資料館の壁を隔てて1919年、祖国解放軍の指揮官になった頃の写真でしょうか、まるで20年は年を取った老人のような彼の気難しいような、思いつめたような表情を目の当たりにして、思わず2つの写真を何度も見比べてしまいました。この旅ではここまで、写真で観られるような最近の歴史人物を見ることはほとんどありませんでしたが、アタトゥルクの表情の変化を見て、大きな歴史の結節点にいるリーダーとして何かを背負うことは、これほどまでに人を変えてしまうのか、ということを強く感じました。
またもう一つは1933年、アタテュルクが残したある言葉です。
以下、原文(博物館に書いてあった英文訳)とGoogle翻訳での日本語訳です。
もちろん、もしかしたらKくんの言葉による先入観が私の中にあったかもしれません。しかし、私はこの言葉から、アドルフ・ヒトラーの言葉や態度にあるような「ドイツと自分自身を同一化している」、それに近い感覚を覚えました。
彼が向き合っていたトルコ民族による共和国の成立と維持という課題。
それに対する彼のアプローチの仕方。
それはまさに”民族”による結束と”ナショナリズム”の醸成という私がこの記事の一番最初に書いた内容でした。
そしてこのムスタファ・ケマルの言葉を通して、ヒトラーがドイツ・ナショナリズムの醸成に「我々は優れたアーリア人である」という主張を何度も用いていたのを思い出しました。それに加えて、言論統制、当事者たちに有無を言わさぬ民族交換、、、
同じような時代を同じような思想で生きた2人が、一人は第二次世界大戦を引き起こした大戦犯、一人は100年後まで崇拝される救国の英雄で建国の父。このような事実に改めて、私があまり調べもせず安直にムスタファ・ケマル・アタトゥルクに良いイメージを抱いていたことに若干の怖さを感じました。国家が危機的状況に晒されている状況で立ち上がった強烈な思想を持つ2人のリーダーに想いを馳せ、私には何が正解なのか、またしてもわからなくなりました。
5-3 アゴラ遺跡、カディフェカレ城塞 異文化に入り込むということ
そうした感想を論じながら、エーゲ海沿いを歩き、時計台、バザール、古代都市スルミナのアゴラ遺跡などを巡ります。最後の目的地に定めたカディフェカレ城塞はアップ150m以上のとんでもない傾斜の住宅街の山の上。コテンラジオでも人気のあのアレクサンドロス先輩が4世紀にペルシャの侵攻を防ぐために建てた、ということで「最後の力を振り絞って行くしかないぜ!」と励まし合います。
街中に突然現れるアゴラ遺跡は、ビルに囲まれた中にある珍しい遺跡とのこと。ミュージアムパスポートで最後に入ったこの遺跡は、本来の我々の好奇心と体力があればめちゃくちゃテンション上がるスポットのはずでしたが、午前中すでにエフェス遺跡を堪能し、また地中海の強い日差しにやられていた私は(結局毎日同じようにやられてますね、、、)もう楽しむ余裕がなく、もはや英語の解説をいくら読んでも頭に入ってきませんでした。もう本当にあの山を登ったらオールアウトな感じです。
途中バザールからアゴラまで抜ける道で、若干身なりが悪い人がいたり、ペットボトルと紙コップを持って恐らくジュースを売りたい貧困層の子供たちなどはいましたが、この時はまだそこまで気にしていませんでした。
次の通りでは、「イスタンブール空港のシャワーかイズミルのハマムか、どちらかに入って身体を洗おう」と話していた、そのハマムのある通りに出たのですが、こちらも今まで通ってきたどの通りとも違って、ちょっと身なりの悪い人が多く、怪訝な顔でアジア人2人をチロチロと見てきます。それでもそこは商店街で、普通に営業をしていましたし、煽ったり声をかけてきたりする人はいなかったので、「ちょっとここのハマムには入りたくないな、空港で入る計画にして良かったかな」くらいに、違和感を感じつつも引き下がるほどではないと思っていました。
恐らくイスタンブールの裏通りでも、エディルネやエフェスの田舎道でも、非常に治安が良かったことも判断に影響しており、「ここまでずっと治安的な面で危険には晒されてこなかったし、トルコで3番目の都市というイズミルでそんなに危ないことは起こるはずがない」というでもような、正常性バイアスに囚われていたのだと思います。
次の通りからはちょっと車が入れないくらいに路地が細く傾斜は20%を超えそうなほど急になっていて、それでも旅の最後だし力を振り絞って頑張ろうと、狭くて急峻な怪しい住宅街の裏路地の細い分岐をGoogleマップを見ながら進み、かなり登った先の分岐の合流点でそれは起こりました。
小学校中学年~高学年と思しき年齢の子供が2人組でパイプに腰掛けながら喫煙していたのです。
心のどこかで、こんな光景に出会うんじゃないかと薄々勘付いてはいたものの「出るなよ、出てくるなよ」と思っていた光景、それが現実のものとして現れました。
「Hey!」「Konichiwa!」「Anyeonghaseyo!」「「Japone!」と彼らは騒ぎます。
その子供たちを見てしまってから一気に緊張感が高まり、お互いに何か軽口を叩く雰囲気は完全に失われました。時間帯は夕方でしたので、小学生~中学生くらいの、子供たちだけでサッカーなどして遊んでいる集団、時々柄の悪そうな大人も含めて、たくさんの人がいました。そのうち何人かは我々を見て(恐らく2日目の券売機チップ少年のように)「おいお前、日本人だろ、お金ちょうだいよ」くらいのことを言っているのはなんとなくわかりましたが、ひたすら無表情で無視をして、Kくんともほとんどコミュニケーションを取らずにGoogleマップを頼りに黙々とカディフェカレ城塞跡公園の頂上を目指しました。(喫煙少年に会ってから先はどの通りにも人がいて、どこか引き返すタイミングを失ったような感覚もありました)
本当に直観的にですが、彼らに少しでも悩んだり迷ったり、何なら笑いかけて阿ったりする様子を見せてはいけないとその時は思っていました。もちろん中学生~高校生と思しき体格の子供もいて、その子たちにちょっかいを出されたら勝てないので本当に危ないとか、また荷物的にも体力的にも素早く動くことができないので万が一囲まれたりすると貴重品も持っているのでマズいとか、現実的な判断もありましたが、その時の自分を突き動かしていたのはもっと直観的で、動物的な危機感だったように思います。
別にその地域の子供たちだって、大きな荷物を背負ったいかにも旅行者の、見慣れない日本人をちょっとからかってみただけでしょうし、金品やら生命やらを脅かそうなんて99%考えてなかったろうとは思います。
正直に言えば、今回の旅行のきっかけがそうだったようにチャレンジングな姿勢と生き方を今は大事にして生きているつもりでした。本当に極端な例えをすれば、危険を恐れて一度も海外にも行かない人生を送るよりは、何かとんでもない不幸があって海外で死んでしまったとしても勇気を出して一歩を踏み出せるような人生を送りたいと考えているつもりでした。
しかし、実際にこういう事態に直面して自分の内面に起こったことは自分でもがっかりしてしまうくらい情けないものでした。こんなに安易な判断で踏み込んでしまった危険地帯で、全く素性もわからないこの子供たちに、何か少しでも金品を失ったり怪我をさせられたり行程の遅延に繋がるようなトラブルを起こされたりすることを想像したら、何か猛烈な嫌悪感とか憤りとか、もしくは自分の軽率さへの怒りや異文化の生活圏に安易に踏み込んだ自分の浅薄さを恥じ入るような感情すら湧いてきました。
カディフェカレ城塞跡公園の頂上展望台には我々を煽ってくるような子供はいなかったので少し落ち着いてイズミルの街とエーゲ海を望み、写真を撮るなどしましたが、ここを下らなければいけないことを考えるとどこか気が晴れず、また城壁の上部(一般的には入れないはずの部分)に高校生くらいの集団がいるのが見えて、仮に彼らに見つかっていて、スマホで連絡を取って仲間と取り囲むなどされたらマズいと悪い想像をしてしまい、そさくさと立ち去りました。展望台とは逆側の公園外周の道路にタクシーがおり、「歩いてくるべきところではなかったんだな」と痛感しました。(一応はこんな場所でしたが「地球の歩き方」には紹介されていたのです)
「空いているタクシーがいるか探さないか?」と提案しようか迷っているうちにKくんがGoogleマップを開いてタクシーがいるのとは逆側を下り始めたので、なぜか言い出す気力がなくなってしまって「できるだけ彼らがいなそうな太い道を通ろう」とだけ言いました。恐らくですが一刻も早くここを立ち去りたいという気持ち以外にも、「タクシーを探そう」と言って自分が怯えているということをはっきりと言葉にしてしまった後に、結局タクシーが見つからないという状況になるのがなんとなく嫌だったのだと思います。
慎重に道を選んで下っていると一か所だけ、大きな階段の一番下の段に高校生くらいの体格の良い5人組が横並びで座っているのが上から見えて、階段の横幅を完全に塞いでいたので、50mくらい離れた別の階段を降りて避けました。しかし、道順的には下りた後に右折して先ほどの5人組がいた真ん前を通過せねばなりませんでした。
「Hey!」「Konichiwa!」「Anyeonghaseyo!」「「Japone!」と20mくらい離れているはずなのですがやはり小学生に言われるのとは迫力の違う大きな声で、内心ビクビクしながら無表情で通過しました。
ようやく貧民街を抜けて、抜けた後は小さな川沿いの道路があり、日曜バザーをやっていたようでブルーシートを出して品物を並べていました。売っているものはあまり綺麗ではなく、やはり貧民街のバザーという印象です。そこにいたのは大人ばかりで、もちろんその人たちは我々に何一つ声をかけてはこなかったのですが、どうも疑心暗鬼になってしまい、恐る恐るそのバザーを通過しました。
到着したKemer駅は小さな駅で大学生くらいの男女数人が階段に座り込んで散らばって談笑しており、たった1駅隣のIzmirBasmane駅で受けた清潔な印象とはかなり異なりました。喉はカラカラで、途中ちょっとした売店はあったのですが、何よりとにかく早くこの地域から脱出したくて、脇目も降らずに歩を進めてきてしまいました。
この駅でも例によって券売機の売り場がわからなかったのでKくんが駅員に確認すると「降りたら払えばいい」と言われて改札をスルーして電車のホームに通されました。ちなみに降りた時に払う場所などなく、普通に無賃乗車になってしまいました。恐らくKemer駅の駅員さんとしても、ほとんど死にそうな顔をしたアジア人2人組が困っていて、しかも空港に行くというので急いでるだろうし、もう対応が面倒になったのではないか、と空港駅に着いた時にKくんと話しました。
5-4 予想もしていなかった旅の終わり方 疲労困憊の私たち
電車に乗っている時間はとにかく一言も話せませんでした。もちろん喉が乾き過ぎていましたがそれだけではありません。激しいスポーツをしていて気力・体力を使い果たしてしばらく話せなくなったようなことはありましたが、それとは全く異なる状態に思えました。精神の摩耗という感じです。人の気配に神経をそばだて、誰かに見られている中では動揺している様子を悟られないように気を張り、同時に頭の中では「なんで安易にこんな場所に立ち入ってしまった」という後悔や羞恥心や自責の念にも苛まれている。ここまで動物的な感覚で精神が摩耗したのは初めての経験でした。
「次降りますね」などの本当に最低限の会話とそれに対して無言で頷くだけで、2人とも魂の抜けたような顔をしたまま30分間電車に揺られ続けました。イズミル空港駅に無事到着して、水が市場価格の5倍の25TLもして「これは高いね」と言えた時、久しぶりに2人の間に笑顔が戻りました。十分に水分を補給して、空港のゲートを通過して、椅子に腰を落ち着けると干からびた魚が水に戻ったように息を吹き返しました。ようやっとこの2時間の間に自分たちの身に起こったことについて話すことができました。
私は「あぁ、生きてここにいる、本当に良かった」と思いました。それだけこの旅行が最高だったからです。この最高の旅の終わりを、貧民街に踏み込んでしまっても進むという、最後の最後の軽率な判断で台無しにしたくなかった。
恐らくこういう経験もハインリッヒの法則に似ているのではないかと思います。300回こんな場所に踏み込んだとしたら、270回は何事もなく今日の私たちみたいにあっけなく終わり、29回は軽めのトラブルにあって怪我や金品の損失をともない、そして1回は最悪のトラブルに遭遇して殺されてしまったりする。
もしかしたら人生最後の日なんてそうやってなんの準備もなく、呆気なく訪れるものなのではないか、息を殺して歩きながら実はそんなことも考えていました。
だからこそ今日、270回のうちの1回が引けて、今日が最高の日のままで本当に良かった。
こうして最後の観光地イズミル編は幕を閉じます。
6章 考察とトルコからの旅立ち
6-1 感じたことを受け止めるために
「関わりたくない」
ともすれば差別主義者と言われてもしょうがないような強いメッセージは間違いなく自分の中から発せられ、そして残りました。この旅行の間に感じた、2日目のチップ少年との遭遇の時とも繋がるこの感覚は、私の心の中に大きなしこりを残し、帰ってきてもなかなかどう消化したらいいかわからずにいました。しかし、この文章を書いている時に、昔読んだ小説の一説をふと思い出して読み返してみました。
その小説は西加奈子さんの小説「サラバ」です。
父の転勤でエジプトに住んでいた主人公、歩が、学校にも行けない貧困層のエジプト人の子供に絡まれて卑屈で曖昧な笑みを浮かべる中で、歩の母、奈緒子は「触るな!」「汚い!あっち行け」「ついて来るな!」と追い払う、というシーンです。
その時に歩が感じたことは以下のようなものでした。
「サラバ」に登場した歩や奈緒子の中に、あの時の自分の姿を見るように思います。
確かに「Hey!」「Konichiwa!」「Anyeonghaseyo!」「「Japone!」と何度繰り返し声を掛けられようが無表情と無視を決め込んでいたのは「あなたたちと関わる気は一切ない」という私なりの「触るな」「あっち行け」という意思表示でしたし、一方で私が感じていた恥ずかしさの中に「外国に遊びに来ているほど金に余裕のある人間」ということは確実にあり、歩が現地の学校へ通えていない子供と自分を相対化した時に感じた恥ずかしさともどこか似ています。
ですが、こうして振り返ってみて、恥ずかしさの確信はもう一段深いところにもあったように思います。
確かに私は歩と同じように「人を見下してはいけない、『汚い』『触るな』などとそんなことを、人に対して決して思ってはいけない、それは人間として下劣だ」と信じていたようなところがありました。
しかし、現実に行動する自分は「あなたたちと関わる気は一切ない」という態度を全身に出して、人として対等とは決して言えないであろう「無視・無表情」を決め込んでおり、その信念と行動の自己矛盾はこのような場面に直面して明確になり、「自分の驕った心を丸裸にされたような気持ち」になったのでした。私はイズミル空港に着いてからKくんとこの場面を振り返って、「あの時は透明人間にでもなりたかった」という言葉を口にしたのを覚えています。
「彼らに見つかりたくなかった」という言葉通りも意味ももちろんありますが、やっぱりそうした自分の心の驕りを丸裸にされて「消えたいほど恥ずかしかった」というのが本音なのではないかなと振り返って思います。
治安の面はもちろんですが、やはり観光地とこうした生活圏が分けられている理由は明確にあるのです。もう決してやってはいけませんが「マイノリティとして囲まれる」というシチュエーションでなければここまでの気付きは得られなかったと思います。本当に貴重な体験でした。
6-2 自助・共助・公助について考えたことと自らの愚かさを省みて
また私はこの体験についてKくんと空港で話した時に「税金をこれからもちゃんと払おうと思った」とも口にしています。そんな発言がどんな思考過程で出てきたのかについてももう少し踏み込んで考察してみます。
こうした経験を経て、冷たい意見かもしれませんが「公的扶助の存在」について「人と人が関わらなくて済む」みたいな役割が少なからずあるのではないかと思いました。
私は現地に行って接してみて、必要もない作業をしてチップを求めてくる少年や、訳のわからない言葉で捲し立ててくるような異国の方や、貧民街に住んでお金を持っている人に高ろうとする人々とは、やはり関わりたくないと感じました。
防災や福祉の文脈で使われる「自助・共助・公助」という言葉があります。
「自助」の能力が低い貧困層の人に対して、もし税金で賄われる貧困救済制度のような「公助」が貧弱であれば「共助」で救済するしかありません。「共助」が重視される状況においては、貧困層の方と接点を持たねばならず、直接接触・交流をした場合、その関係の非対称性から妬みや怨嗟の感情が生まれてもおかしくはありません。
このような例として、例えばフランス革命では、市民に参政権が認められたのをきっかけに、それまで雲の上の存在として決して関わることのなかった(さらには無意識に「優れた人」だと思っていた)王様が、急に同じ地平に立つ存在となり、その杜撰さが明るみに出るとともに、市民の怨嗟が貴族でなく王様に向かってしまうようになったことが要因になっていると言われています。「自分と関わりがあるなんて全く意識しない存在」でいられることで妬み嫉みの感情から守られている側面があるように思います。
尚、私はこの「自助」できるかどうかの能力なんて生育環境も含めて大方、運による要素が大きいだろうと考えています。だからこそ、「公助」のサポートが薄ければ、自分より安定していた暮らしをしている相手に積極的な「共助」を求めることも、「自助」に余裕のある人がそれに応じることも、妥当なことではないかと考えています。
しかし、だからと言って「お前金持ってるだろうから俺のこと助けてよ、お金ちょうだい」と言われ続ける人生なんて考えたくもありません。
だからこそ、「公的扶助」は「人と人が関わらなくて済む」機能も持っているのではないかと思いました。
また「公助」の機能が貧弱な社会では犯罪率が上がると思います。貧困に喘ぐ人がそのまま暮らしていて暮らし向きが良くなる可能性を、犯罪で得られるリターンと失うリスクが上回ってしまったら、彼らを止めるものは倫理観以外他にないからです。最近の日本でも闇バイトに手を染める若者という話題でこの「そのまま暮らしていて暮らし向きが良くなる可能性と犯罪で得られるリスクと失うリターンを天秤にかける」という考え方は登場します。
イズミルの裏路地で怖かったのはまさにその点で、彼らがこのまま暮らしていて彼らの暮らし向きが良くなる可能性と我々を取り囲んでリンチして金品を奪い、それが警察に通報されて捕まったり刑務所で罰を受けたり(もしくは全くバレずにやり過ごせたり)するリスク、私は彼らの経済状況や倫理観や犯罪に対する認識の仕方が全くわからないので、それらを天秤にかけて後者の行動を選ぶ可能性は低いがゼロではないと思っていたのです。
何よりこの経験には「犯罪率が上がる」とか「治安が悪くなる」といった一般化した言葉では表しきれない圧倒的な恐怖感がありました。
このような問題はセンシティブで、粗のある論点だとは思います。
しかし、私自身の実感として、これまでの人生で恵まれた環境を享受し、「共助」についてほとんど意識することなく、貧困に喘ぐ方とろくに向き合うこともせず、今回の経験を経てようやくこのようなことを考えている時点で、少なくとも私の生きてきた環境においては「公的扶助による人と人が関わらなくて済む」機能は成立していたのではないかと思います。加えて、社会の構成員として税金を払っていれば、富の再配分機能を通して実質的に「共助」に参加でき、貧困に喘ぐ方の顔も想像せず無関心でいられることができます。「関わりたくない」「無視をしなければいけない」「何をされるか想像が及ばず怖い」そういう葛藤に苛まれたあの時の自分を思い出すと、やっぱり「人と人が関わらなくて済む」機能の恩恵を強く受けて育ってきたんだと自身の甘さを痛感しました。
それは同時に「共助」の役割を社会の誰かに押し付けてきたということでもあるのでしょう。
私も齢を重ねていきます。いつかは必ず身体が上手く動かなくなって働けなくなって、生きるためには「共助」や「公助」を今よりもっと必要とするようになります。
今だってどれだけの恩恵を受けているのでしょうか。家族の助けや、会社や、所属するクラブの仲間たちといったコミュニティの存在にどれだけ支えられているのでしょうか。これだって広く捉えれば「共助」の一つではないのでしょうか。
それにも関わらずこのような"人として恥ずかしい思想・精神"を持っていることに居た堪れないような気持ちにもなりました。このような自分の現状を認めた上で、これから「共助」や「公助」とどのように向き合っていくか、改めて考えていこうと思いました。
長い考察になりましたが、空港での「税金をこれからもちゃんと払おうと思った」という発言は、今は「これからは共助に向き合っていく」などと言う勇気はとても持てないけど、これまで見えない恩恵を受け続けてきた公助には、その意義に納得してせめて貢献しようという気持ちが最も拙い言葉で出てきたのだと改めて思います。
また、こうして書き起こしてみて、(本当に当たり前のことですが)コミュニケーションを取り、相手の感情や行動原理をきちんと知ることについて、何が重要なのか本質的な部分を再確認できたように思います。
イズミルの裏路地で相手の文化に不用意に立ち入ったことは本当に反省すべきことです。それは海外の治安の悪い場所でリスクを軽視した行動を取ってしまったという以上に、文化に入り込むということの難しさやそのためにコミュニケーションを取ることの重要性を全く軽視した行動だったからです。
彼らはただそこで生きていただけで一切罪はありません。それにも関わらずこうして一方的に恐怖心を増幅させるように想像力を働かせてしまったのは、やはりコミュニケーションを取れておらず相手の行動原理がわからなかったからこそです。
この旅を通してトルコ人のほとんどは私たちに優しかったです。
それゆえの甘えがあったように思います。異文化に相対する時は相手も自分も受け止められるスピードでゆっくりと、少しずつ他者を理解しながら、意見が合わないこともあるからその違いを対話で埋めていく、そして相手の嫌がることはしない、相手の見られたくない部分を見ようとしない、そんな同じ国の人同士だってやるべき当たり前のことが、あの時の私はできていなかったのです。
こうした自分の内面を抉られるような経験を飲み下しながら、飛行機はイズミルからイスタンブールへ飛び、イスタンブール空港ではトルコ最後の時間を過ごします。
6-3 一歩を踏み出せた旅
運よく有料シャワーを浴びられて、お土産を選んで、お酒を飲んだり軽食を食べられるカフェのような場所に腰を下ろします。
2人ともエフェスビールを選んで、この4日間の旅を無事に終えられたことを労い、この記事に書いたような気付きについてもたくさん話しました。むしろここに書いたような気付きは、私一人でモヤっとした考えを述べた時にKくんが聴いてくれたり答えてくれたりしたからこそ辿り着いたものばかりです。締め括りは2人で死んだような顔をして無茶苦茶でしたがそれも一興、それでも今生きてここにいますし、生きてさえいればこんな記憶ですらいい思い出です。ツアー旅行では絶対に起こらないようなピンチばかりで、それがまたこれだけの気付きと達成感に繋がっています。旅の思い出を噛み締めるようなこの時間は本当に素晴らしいものでした。
4日間とも完璧な快晴で強い日差しと30℃の気温の中で、徒歩移動距離はなんと143.5㎞。あまりにもタフ過ぎる旅でしたが、ご飯は後回しにして、観たかったものは徹底的に欲張って観に行きました。こんな旅、Kくんとでないと出来なかったでしょう。
そして何より、この旅を通して「一歩踏み出せたこと」には感謝しかありません。
この旅の準備と経験を通してしか得られなかった気付きがこうしてwordファイル50ページ分の文章となってここに存在します。これは一生ものの宝です。
私たちはこれからもいろいろなことを経験し、変化し、成長していきます。
その中でも「このトルコの旅が一つの分岐点だった」、何年か先にそう語る自分たちの姿を確信しながらAyranで乾杯をし、イスタンブール最後の夜は幕を閉じました。(終)
【エピローグ】
私は羽田に向かう飛行機の中でただひたすらに苦悶の表情を浮かべていました。
皆さんは「乳糖不耐症」をご存知でしょうか?
「牛乳を飲むとお腹がゴロゴロする」というアレです。乳糖(ラクトース)という糖分を分解する能力が低い人がよくやられます。
先ほどイスタンブール空港のカフェで飲んだ最後のAyran。
あれが私の乳糖耐性の閾値を超える最後の一打となってしまいました。
元々若干「乳糖不耐症」気味だった私は、普段から牛乳は朝食でシリアルにかける程度に抑えていたのですが、あまりにも当たり前の習慣になり過ぎていて、そしていくつもの危機や困難を超えて、体調も崩さずにこの旅が終えられたことへの感慨のあまり、忘れていたのです。
「Ayranを飲み過ぎてお腹がゴロゴロする」だなんてリスクが存在することを、、、
離陸直前から羽田に着くまでトイレに行くこと約15回。お腹に意識を全力で集中させて時間をやり過ごしながら、ほとんど寛ぐことのできない人生最悪のフライトを経て、トルコの旅は本当の終わりを迎えました。(終)
おわりに
これほどに長い文章を最後まで読んでいただいた皆様、本当に本当にありがとうございました。自分の内面に起こった変化をできるだけ克明に誤魔化さず記しておきたく、一部不快に思われる表現もあったと思いますが、ご容赦いただけると幸いです。
また歴史についての解釈は私自身が史実を学んだ上で「歴史の人物が、自分と同じ人間として、どのように感じたか」という視点を重視していました。アヤソフィアの訪問でも書いたように「実際に生きる人の心はもっといろいろな出来事と経験を元に細かく細かく揺れ動くもの」だと考えているからです。
歴史書に記載されるような誰から見ても合理的に説明しやすい理由はあるかもしれませんが、人間は合理性だけで物事を判断できるわけではありません。時に非合理的でも心が動く選択をすることがたくさんあるはずです。だからこそ”私がその場所でその立場に立ったらどう感じるのか”ということも含めて、この旅を通して歴史理解だけでなく人間理解も深めたいと考えていました。
こうした人間観の変化も含めてやっぱりコテンラジオというコンテンツがここ数年で最も自分の視野を広げてくれた大きな存在でした。今回の考察は「オスマン帝国編」以外にもたくさんの回で話していた内容を自分なりに理解し、解釈し、熟成させ、その集大成となっています。ランニングをしながらでも通勤しながらでも家事をしながらでも運転をしながらでも聴けるので、本当にぜひとも聴いてみて欲しいです。
またイズミルの貧民街の場面についての自分の心情描写や考察がこれほど長くなってしまったのは、それだけ私にとってショッキングな場面であり、飲み下すのに時間がかかる内容だったからです。旅行から1ヶ月経過した今でもこの記事に書いたことが正しいという確信はありません。
貧困・公的扶助という観点から「自助・共助・公助」というキーワードが出てきましたが、最終的には自分の身の回りの存在にも想いを馳せているように「自助・共助・公助」の考え方は自分の中でもっといろいろなもののメタファーになっているようにも感じています。
まずは忘れないことで抱えていこうと思います。
この文章を書き始めたタイミングは、若干創作意欲が低い状態で、それでも「このタイミングでしか書けないのだから」と頑張って書き始めました。途中から筆が乗ってきて楽しくなってきたものの、これだけの分量をこれだけの考察も重ねながら言葉を紡いでいくのは楽しいと同時に苦しく、最後には自分と向き合い、自分の言葉を紡ぎ出す厳しい修行という感じでした。
ここまで書き切ることができて本当に良かったです。
お読みいただきありがとうございました。
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