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その2 僕らが見上げた夜空はいつだってひとつじゃない

アヤは化粧気のないキレイな女性だった。口角の上がった口元からは快活さが伺える。
「待たせちゃってごめんなさい、寒いですよね。これ、カイロ。温めてきたので使って下さい。」彼女は寒そうに肩をすぼめながらそれを手渡し、俯きながらも僕の目を見て笑った。
「博多市内は歩いて回れるんです。この今泉のエリアから少し歩けば中洲の屋台が並ぶところも観に行けますよ。」—博多は本当に良い街だから、せっかく来た人には楽しんでもらいたいんです。そう呟いたアヤの背中を僕は追いかけた。

かくして僕らの夜の散歩は始まった。その日は有名アーティストのライブや、国立大学の入試などの様々なイベントが重なって行われていた様で、普段よりも賑わいを見せているらしい。通り過ぎる人の会話からも、その人たちが観光で此処へ訪れていることが伺えた。
そんな景色を横目に、アヤは福岡にまつわるあれこれを教えてくれたが、僕は彼女の言葉を耳にしながらぼんやりと別のことを考えていた。東京とさして変わらない深夜過ぎの喧騒を眺めながら、彼女はどうして見も知らない男をこんな夜中に案内してくれているんだろう、と正解の分からない疑問を景色に投げかけていた。
初めて訪れる街で、初めて出会った女性と歩くのはこれもまた初めての経験で、僕は自分の置かれたその状況に陶酔していたんだと思う。揺らめく光の中に、僕はアヤの横顔を見ていた。見上げた夜の姿は、今ここにたった一つしかない景色に思えたし、このままこの夜が明けなければ良いと思った。

僕らは1時間と少しばかり練り歩いたのち、深夜まで空いてるというイタリアンバルに入って杯を交わした。「遅くなっちゃって福岡らしいお店には入れなくなっちゃったね、ごめんねっ」とアヤが悪びれる様子もなく謝った。僕はこの短時間で急速に近づいている2人の距離を愛おしく、それよりも速く近づいて来ているであろう朝を恨めしく想った。ある一夜の想い出にすることを儚く感じた。

それからしばらくして僕たちは朝日から逃れるようにして別れた。

羽田に着陸する機内から眼下に広がる見慣れた景色を目にする頃、昨夜微睡みの中で交わした再会の約束は果たされることはなく、天真爛漫な彼女の顔や姿もだんだんシルエットに変わってしまうのだろうと考えていた。
東京へ帰って見た空はまた、ここにしかない空であった。決して福岡で見上げたあの夜空とは同じではなかった。

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