謹賀新年 ~ユニークでありたい年、2024~

「まったく、女ってのは。」

こんなことを言うと、今や「①コンプラ、②天プラ、③ナンプラー!」とテンポのよいコンボで怒られる。
怒られるだけではない。そのリズムで、①粉つけて、②油で揚げられ、③魚醤油で食われる。

この3コンボで、余裕で死ねるdeath。
そんな世知辛い世の中だ。

だから現場では、「泥酔していない限り言うことはない」。
つまり「たまに言ってしまう」ということだ。
気を付けなければならない。

ただ実際言ってしまわなくとも、思ってしまうことは、正直よくある。

まあそれも、僕が男だから仕方ない。

そう。

『男だから、仕方がない』。

もっと言えば、
『男と女は違うのだから、しょーがない』。

身も蓋もないが、そうだと思うのだ。

と、ここまで言った時点で、いや、ここまで言い終わる前に、コンプラさんは食い気味に言うだろう。

「いやいや、あーた、お忘れのようですけど。今は男と女だけじゃなく、LGBTQの人たちもいますから!」と。

やめてほしい。

僕は、「きゅうり VS. なす」という問題について、自分がきゅうり側である、つまり、中立にはなれないということを引き受けつつ、語ろうとしているのだ。

そこに、「いやいや、最近流行りの野菜には、ケール、ズッキーニ、ルッコラ、ロマネスコ、そしてエシャレットとかもあるんですけど?」と放り込まれると、なんだかよくわからない、お洒落をはき違えた「シェフの気違いサラダ」が爆誕してしまう。

具体的事例:デート的なヤツのアポ的なアレ

話を戻そう。
「まったく、女ってのは。」というコンプラ的deathな思想についてであった。

これについて、一つの具体的な事例を取り上げて考えていきたい。

繰り返しになるが、僕が「男」である以上、この事例の描写の仕方も、その分析も、できるかぎり中立であろうとは思うが、完全にそうはいかない。

その点、まずはじめに断ったうえで↓↓

====
ゆーすけ 「・・・なんか仕事忙しそうだけど、いつごろがいい?」
A子 「来月の16日(水)の14時なら大丈夫だけど(^^♪」
====

とまあ、こんなやりとりの事例である。

顔も割と僕好みでユーモアもあって話せる「A子」。彼女とシーメーでも食いに、まあそのなんだ、そういう楽しい時間を過ごそう、という流れになったときのメールでのやり取りだ。

まず、僕が一応ごく普通のカレンダー通りの人間であることは彼女は知っているはずだ。

「知ってんだったら、まず平日の昼間とか普通は空いてねぇだろうことくらい想像しろよ。」

とは言わない。

けれども、あげてきた候補がたったの一つだけで、それがしかもピンポイントの時間指定とは。

やれやれ。

まずこういう場合には、複数、少なくとも3つくらいの候補(曜)日や時間(帯)を上げたり、幅を持たせた提示をして、相手に選ばせ、絞り込んでいく、というのが普通ではないだろうか。

夏休み中の中学生同士ならまだしも、仮にもお互いいっぱしの社会人の予定を合わせるのである。
一往復で一つの候補日時を、えっちらおっちらご苦労さんで処理していくつもりか?
普通に面倒だろう。キリがない。
7往復くらいのところで、きっとお互いそのやり取り自体に疲れてしまう。

この時点でまず「あ、もしかして、この子、俺に会いたくないのかな」とすら訝しんでしまう。つまり「めんどくせー」とこっちに思わせて断らせようとしているのか、と。

いや、それは違うか、と。
もしそうであったら、「今●●で忙しいんだよね~。また時間できたら連絡するね~(そして連絡は結局しない)」とか、角が立たないように一蹴する方法はいくらでもある。

だとしたら、なぜ?

そして、こういうケースは女性とのやり取りに多い。
男が相手だとほとんど起こらない。

それもまた、なぜ?

いささか疑問である。
不思議でならない。

「ひねくれ視点」と「ユニーク視点」

この「やりとりが無駄に長引く問題」。
この問題について問い続け、かれこれ今年で4265年になる。

あ、忘れていた。年が明けたのだった。
謹賀新年。
まあそれはどうでもいい。

いや、どうでもよくない、らしい。
年が明けることはおめでたいこと、らしいのだ。

どうやら人間たちは、テメーらが勝手に作った暦がただ一周しただけで喜べる、とてもおめでたい存在らしい。

いや、そういうことにも本当はだいたいみんな気づいている。
この「おめでたさ」「喜び」がいかに皮相なものか。

リアルにおめでたいことといえば、せいぜいこの時期連休がもらえたということくらい。
しかし残念、その連休前とは何らかわらない日常が、間もなくまた始まってしまう。

と、年明けに話が脱線したが。
脱線したここで、思う。

2024年、こういうのは辞めよう、と。

物事に関してそれを揶揄するような見方=「ひねくれ視点」。
今まで結構得意であったし、今も割と得意なつもりだが。
これは極力辞めていこう、と。

その代わりに、日常の色々な気づきに関してユーモアを交えた自分なりの見方=「ユニーク視点」を提示していこう、と。そうしたい。
自分で「ユニーク」と書いていておこがましく、恥ずかしいが。
今までこれも結構得意であったし、今も割と得意なつもりだ。

両者の違いは、世の中や物事や人間を捉える「意図」の違いだ。
前者がネガティヴに捉えようと意図しているのに対して、後者はポジティヴに捉えようと意図している。その違いである。

ここで「意図」というのがとても重要だ。

「意図」は見る「主体」の側の要素であり、営みだ。
つまり「客体」(世の中、そこでの出来事や人々)の側がどうあろうと、それを「ひねくれ視点」でネガティヴに捉えるか、「ユニーク視点」でポジティヴに捉えるかは、「主体」の「意図」次第だということだ。

だからポジティヴに考えよっ!
ポジティヴシンキングだよっ!

なんだか安い自己啓発本みたいなことを言っているし、それは自覚している。

と、すでにここで「安い」というボキャブラリーを使ってしまっている時点で、俺の「ひねくれ視点」が(「意図」せず!)露呈してしまっている。

まあ、このくらいだったら自分が少なくともほくそ笑めるくらいには楽しいし、読んでいる側もそうかもしれないからいいだろう。
このnoteの読者は変態しかいないしな。
まあ、このくらいならばまだ「ユニーク視点」の範疇内と言えるだろうか。

でも上記のように、世の中や人々の新年の喜びに対し「水をさす」ような「ひねくれ視点」はよくない。
俺はそれを楽しんでいる節があり、だからこそその視点をとってしまうのだが、それこそ「安い」楽しみだ。

おまけにその安い楽しみと引き換えに、何よりも自分が得られるもっと大きな楽しみを逃してしまっているかもしれないことが問題だ。
自分もその気になって、つまり「意図」して、一緒にみんなと楽しめれば、その分得だろうからだ。

正月・新年…
「…に食う酒はうまい」
「…に食う鍋はうまい」
「…の初歌いは楽しい」
「…の初日の出はきれいだ」

これを楽しめばいい。みんなと一緒に。
そして、そのうえで↓↓

いやいや、馬鹿言ってんじゃないよ。
酒も、鍋も、正月じゃなくても絶対にうまい。
音楽はいつやっても、絶対に楽しい。
そうだろ?

「ユニーク視点」とは、たとえばこういう見方である。

だから、今年も、旨いものを旨いものとして楽しみ、音楽を楽しくやろうよ。年間通じて。ずっと。

こういうポジティヴなことを意図している視点。

そしてだから正月なんて、新年のこの時期なんて、別に大して特別なことじゃないんだ。

こういうのがまさに「ユニーク視点」なのである。
まあ、こんなこと言っている奴はごまんといるだろうから、文字通り「ユニーク」かどうかはさておき。

冒頭の事例の彼女にも、「ひねくれ視点」ではなく、この「ユニーク視点」で臨めばよかったのだ。

男と女は違うのだからしょうがない。
繰り返しになるが、こう言ってしまえば、身も蓋もない。

しかしその問題について深堀りするのは、せいぜい、自分ひとりの時、あるいは折を見てこういう「note=駄文の排泄場」でやるんで十分だ。

リアルな状況で目の前の生身の人間に対峙したときは、やっぱり「ユニーク視点」で臨みたいし、臨むべきだ。

彼女側が「現にそうで在る」ことはしかたない。
そこに俺側の疑問や不思議があることはいったん置いておく。

そして彼女側がどうあろうと、俺側が「ユニーク視点」さえ失わなければ、そんな「やりとりが無駄に長引く問題」も、それはそれで楽しくなるかもしれない。

「何、一度で済みそうなやりとりを、そんなに長引かせるってことは、もしかして、もしかしちゃうかもしれないけど、君、俺のこと好きなんじゃね~?」

うん。普通に、キモいね。

メール、既読、スルー。
その後一切連絡ナシ。

だな。

「ユニーク視点」について、得意だと思っていたがまだまだ俺も鍛練が必要なようだ。

今年もしくよろ。

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