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信じないことが唯一の救い「N号棟」

境界線の上なんて場所は存在しない

この世界はアナログだ。
0と1の羅列で出来ているようなデジタルの世界ではない。グラデーションというものが存在するように、微妙なニュアンスや不確かなモノもたくさん存在する。

わたしはいかなる霊的な存在を信じない、見えていないから。
人間違いや勘違い、トリックアートにアハ体験、人間の目なんて信用ならないモノですよ。それにほら幽霊や心霊現象を嬉々として語るタイプの人たちを思い返していただきたい。

早くまたSUNDAY NIGHT DREAMER出て欲しい

・・・ね?胡散臭い人ばかりでしょ?

とはいえ、何もオカルト的要素を完全否定するわけではない。そういうモノに縋ることで救われる人がいるということも理解できるし、何となく気分が悪いモノとかある。
(こういう時必ず「じゃあ墓場に一晩泊まれる?」「事故物件に住める?」とか言ってくる人いるけど、そんなの嫌に決まってるだろ!!気分悪いし、快適じゃない所なんて住みたくないわ。こちとら夜中に婆さんとすれ違うだけで、刃物振り回して追っかけて来そうでビビってるんだからな!)

ババァ怖ホラー「呪怨 白い老女

ただもし、自分の大切な人が本人の意志ではない形で生死を彷徨うことになってしまったら、私は完全無欠の0か1の人になるだろう。それは実体のない何かを信じることはまた別の問題。命と真剣に向き合う人にとって、「生と死の狭間」に対峙している人のそばにいる第三者にとって、その境界線にいる幻想的立場で浮遊する存在=霊(いないけどいる、いるけど見えてない的なモノ)は、自分自身の否定に繋がるように思えるから。

簡単にいうと、大切な人を死によって奪われかけてる人に「死んでも霊となってそばにいてくれるから大丈夫だよ」なんて言えないし、何の気休めにもならないよってこと。

これは白と黒だけじゃない話

大まかなストーリーは、
死恐怖症(タナトフォビア)による不眠症になやまされてる史織(萩原みのり)は、唯一の肉親である母親が植物人間に陥り、命の決断を迫られている女大生。
彼女は未だに、友達と付き合っている映像サークル所属の元カレを夜な夜なこっそり部屋に招き入れたりして、フワッとした関係を続けている。
そして、元カレの卒業制作題材としてホラー作品を作ることとなり、巷で有名な「幽霊団地」へのロケハンに同行する。(この団地は実話とされている)
そこで死後の世界に囚われた住人たちと対峙する。。。

ごぼうの党のアホがメイウェザーに花束投げつけたシーンを見ているみなさん
(ウソです)

といったストーリーだ。
まず大前提として、めちゃくちゃ面白かった。
大きな括りでのバケモノ屋敷ホラー・ミーツ・宗教スリラーは、わたしの大好物の一つであるし、そもそもの私が考えるafter deathに対する視点が、史織に近いものなので共感することができたし、その反転もかなり膝を打ったものだった。
久しぶりに大満足なJホラーを観て、さぞや・・・と思ったら、「史織の行動原理が破綻してる」という目を疑いたくなるようなレビューが多かった。
人の受け取り方は人それぞれだけれど、私の感じた受け取り方はそれらとは全く向いている方向が違っていた。
恐らく史織に対する共感性が強いことが理由だと思う。
なので、史織を徹底的に擁護するレビューをしていきます。

◆史織はタナトフォビア(死恐怖症)を患っていて薬を常用している。
◆史織の母は生死を彷徨っていて、史織はその判断を医師に迫られている。
◆もし母を失えば、彼女は本質的な孤独に立たされる。


この3点は、主人公・史織の行動原理の根幹にあると思う。
なぜなら彼女にとって、この団地で起きている怪奇現象及びリーダー・加奈子(筒井真理子)が口にする
霊は存在する
という論理を認めてしまえば、彼女が抱えている問題とそれに基づくアイデンティティが潰えてしまうからだ。

◆死後の世界があるのなら、自分が恐れているもの(大切な人の死別)の存在自体があやふやになる

◆植物状態の母に「生きていて欲しい」というモラトリアムな迷いを持てなくなる(死んでも魂は生きているという理論は、なら死んでも一緒じゃないか?という考えだから)

◆死後の世界なんてない、と確信することで母を生かしたままの理由の一つになる


彼女にとって、この団地にある禍々しいものを認めることは、それらを放棄することに類するからだ。
だから彼女は相手の挑発的な誘いに何度も突っ込むし、カメラを回させる。
生と死の狭間、白と黒の間を否定するように。

「無」に対する圧倒的な恐怖について

ただ史織は大きな矛盾も抱えている、それが睡眠と元カレである啓太。

眠れない史織の奥で爆睡する元カレ

◆死ぬのが怖くて、夜眠れなくなる史織。
しかし、団地での一夜は彼女に安眠を与えることになる。なぜならあの団地内では「死=終わり」ではないからだ。その安心は、彼女の意志とは別に、彼女に安心を与えてしまう場所なのだ。

◆別れているのに史織は、別れた元カレと関係性を断ち切れない。

彼との関係性をもし失えば、彼女の中で「大切な人を失う」を受け入れることになってしまうから、ともにいる時間・いた時間を損なうと感じたからだ。
別れたのにズルズルと関係を続けてしまうのは、単なる現在カノに対する対抗ではなく、繋ぎ止めたいという行動の現れなのではないか?
史織が冒頭に時間単位で予定を詰め込む描写があるのも、そもそもの眠れないという設定自体も、「無=死」に至ってしまうイメージを抱えているからではないだろうか。
自分の部屋で啓太に時間を聞かれたときには答えなかったが、幽霊団地内で同じように時間を聞かれた時に答えたのは、時間=死のタイムリミットとして考えると説明がつく。

集団心理が行き着く先「死の恐怖、みんなで死ねば怖くない」

団地に住む人々の精神性はなんなんだろうと考えてみるとすごく興味深い。
あの人たちは死を受け入れているし、なんなら死を幸福なものとみなしている。しかし、団地に起きる不可解な怪奇現象に対して、なんなら来訪者よりも激しく慌て恐れ慄く。
これ、実はめちゃくちゃ怖い表現方法だと感じた。

日本は地震大国であるが故に、小さな地震は「またか、ちょっと揺れたね〜」程度のリアクションが状態化している。地震というものに慣れている文化を持っているのだけど、地震の経験値が全くない外国人が来日した時に、もし外国人よりも先に日本人がパニックを起こしたら・・・外国人の恐怖は倍増するに違いない。

それと同じように、たとえどんなに死という恐怖を受け入れたとしても、実際に起こる死が迫ってくる恐怖を受け入れることとは違うということのような。そしてこの作品の気味が悪い所は、迫りくる死の恐怖を団地に住むみんなで受け入れ、みんなで慈しんでいこうとしている。痛みも恐怖も喜びも死さえもすべてをシェアしようと。ここは「ミッドサマー」味があり、本作で一番気持ち悪かったところだ。

気味の悪い団地の住人達
google mapのシーンは超怖かった

死の恐怖と孤独を抱える史織にとって、この団地のあり方を受け入れることは、今まで自分が抱えてきた事の全否定に繋がるから、彼女はこの団地に根付く霊現象に必死に抵抗した。しかし皮肉なことに、それを受け入れざるを得なくなっていくこと自体が彼女の救いになったのではないだろうか。
この団地は、史織が望む望まないの意志とは別に、彼女を徐々に飲み込みながらも安息を与えているとも受け止められるのだ。

結局何が言いたいかっていうと・・・

この作品はどこか、自分が必死に抵抗していたものを受け入れ、敗北を宣言することが時に救いになる、かのような、どこか我々人間が意固地になって認めないものに対する皮肉にも近い何かの匂いした。

個人的にはタナトフォビア(死恐怖症)は、自分も夜な夜な感じてしまう時があり、眠れなくなることもあるので、私には強い共感力のある映画だった。
ちなみに眠れない時は映画を見るに限る。
ゾンビ」で死んでもウロウロする自分を想像したり、「マッドマックス-怒りのデスロード-」でヴァルハラに向かうことを想像したり、エメリッヒ作品の事務的な死を伴う淡白なディザスターを見ながら寝落ちするといい感じに眠れる。

・・・それでは白状します。
今まで、約3,000文字近くを使って擁護してきた史織というキャラクター。
なんでそんなに擁護するのかっていうと、自分と共感する点が多いとかの言い訳はやめます。それは、萩原みのりさんが演じているからです!!
ハハハハハ!!笑えばいいさ!!

萩原みのりさん 美しい・・・

◆眠れないのに頑張って目を瞑るめちゃくちゃかわいいご尊顔
◆元カレの今カノへの接し方
◆ガチガチの気の強さを感じる強い眼力
◆元カレに「0:00時以降ならうちに来てもいいよ」っていうエロ悪さ
画面を支配する「感じの悪い空気」を作り出し、画面に引き寄せる萩原みのりという女優の強烈な引力。
真っ暗な部屋で眠る史織に忍び寄る、無数の手のカットの美しさと禍々しさよ。
萩原みのりパワーのオンパレード、この時点でこの映画は勝ちだってこと!

これからの史織に幸あれ

N号棟』(英題:「Bldg.N」)
監督・脚本 後藤庸介
出演 萩原みのり
山谷花純
筒井真理子


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