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神に仕えた者たちの贖罪ツアーと肉弾戦「ヴァチカンのエクソシスト」

この夏を代表する最高なイケてる痛快ホラー爆誕!

「行けたら行く」
「福袋」
「某脳科学者」
「K村・F・ミ◯ル」
そして
「聖職者」
この5つは信じない無神論者の私ですが (いや、他にもあるけど)
みんな大好き「エクソシストモノ」で、あのラッセル・クロウが大暴れしていてあまりにも痛快という噂を聞いて、仕事をなんとか切り上げて強引に観てきた。
(ずいぶん時間がかかってしまった)

エクソシスト系映画史上、最高の主人公爆誕

基本的に「目に見えない」ものには常に疑いの視点を持っているし、霊感を語りだす・スピってるやつの香ばしさを嗅ぐと、ついついニヤついてしまう性格なので、私と信仰の間には大きな川が流れている。
そこに物理的なモノの商売が合わさると、僕のセンサーは途端に胡散臭さを嗅ぎつけてしまう。
だってどの国いっても、たいてい神具がやたらと金ピカでゴテゴテとした装飾がされているのは、そこに「存在しない」もしないものに価値を植え付けるためのデコレーションだと思うじゃん。
ギャングスタラップのPVとかもだいたい、酒とプールと金ネックと金歯にエチエチな姉ちゃんのケツに埋め尽くされてるのと私は一緒だと思ってて、俺はすごいんだぜ!と思わせたい時に有効よな。
そういえば、金ピカのモビルスーツに乗ってた傲慢な奴もいたよな。いや、本当に金ピカも金ピカを見に纏う奴のエネルギーって最高だよね。

ベスパに乗って移動する最高の主人公

ところがですよ、本作の主人公であるエクソシストアモルト神父ときたら、見た目はガサツ・ガチムチ系で、ビーフシチューが好物のおせっせも乱暴そうなガテン系神父。
悪魔をイゴール・ボブチャンチンよろしく、ロシアン・フックでブッ飛ばしてしまいそうな肉弾ファイタータイプの神父さまなのだ。
デッカい図体のくせに移動手段はベスパだし、ビッグ・リボウスキウォルターみたいなサングラスしてるのも超かわいい。

ウォルター

こんなの嫌いになるわけないじゃないか。

悪魔相手に喧嘩祭りだ、わっしょいわっしょい

父親を亡くし、スペインに引っ越しした家族。
その息子に悪魔が憑き、アモルト神父が派遣される。今回の依頼が"本当の"悪魔ということを知り、悪魔が少年に憑いた原因を調査していくうちに、悪魔の本当の目的とカトリックの封印された歴史と対峙する...

ストーリーはわりと王道な展開なんだけど、本作の最大の魅力はサービス精神と、ホラー映画の本筋を守りながら、心地よいテンポでジャンルをカチカチと切り替えていくところだと思う。

序盤は、王道のエクソシスト系映画。
しっかりと悪魔憑きのキャラクターが、ボロボロの肉体と罵詈雑言による悪態を吐き暴れる、いわゆる元祖「エクソシスト」のフォーマットで世界観を固める。

中盤は、キャラクターたちが抱える過去の傷跡・悪魔の本当の目的を調査するサスペンスモードに入る。この手の作品って中盤はダレる展開も多いんだが、このシークエンスの引っ張りがとても本当に楽しい。
過去のシーンも飽きの来ない作りだし、動きが減りそうなタイミングで必ず人が死んだり派手なことが起こるので緊張感もある。

そして、終盤にかけてはバケモノ屋敷型ホラー・ミーツ血まみれバトル展開に発展していく。
このバトルシーンは必見で、聖母マリアが実体として出てきたと思ったらガッツリ襲ってきたり、アイアンメイデンから血塗れの全裸娼婦が飛び込んできたり、本当にジェットコースター的に楽しいバトルシーンだった。

聖母マリア様、どーーん!っと登場
にはめちゃくちゃ笑った

要するに、103分を飽きさせない工夫と作り手の勢いに満ちていて、最後まで集中力とワクワクが切れることなく続く超楽しい映画だった。

Drag Me to Hell

この作品の大きなポイントであるバケモノ屋敷は「修道院」なのだが、実はこの修道院の地下には拷問器具がたくさんあり、ユダヤ教徒やイスラム教徒の改宗者を対象に異端審問(残酷極まりない拷問・虐殺)が行われていた。
そしてなにより、この異端審問は史実としても記録が残っており、カトリックはこの事実を黒歴史として扱っている。(要は本当にあったこと)
この作品でも、この修道院には異端審問の過去が隠蔽されていたのだ。
作品内でアモルト神父は、悪魔を倒すために修道院を調べていたら、自分たちカトリックがやってきた残虐非道な歴史にたどり着いたのだ。
文字通り、地獄の蓋を開けたわけだ。

ちなみに話は逸れるけど、カトリックは児童性虐待の歴史を組織ぐるみで隠蔽していた過去もある。
それは、アカデミー賞作品賞になった「スポットライト 世紀のスクープ」でも観れるので、要チェック。ね、聖職者って胡散臭いでしょ?

今回の映画は作品として面白くて評判が良いのだが、一部でこのシーンが問題視されている。
というのは、カトリック側の見解として
「異端尋問は悪魔の仕業」
「悪魔に取り憑かれた者による行為だから仕方ない」

というニュアンスのセリフが発せられたから。ただ、私はすごく納得した。

悪魔憑きとカトリックについて

なぜ納得したのか?これは私の考えなのだが・・・
ヴァチカンが敵対するのは、常に悪魔という存在。
だから、自分たちの行いや過ち、人間が行うありとあらゆるクソッタレな行動をも、悪魔という敵対する存在にその責任をなすり付けてきた
自分たちの都合の良いタイミングで悪魔を引き出す小賢しさも。
世の中のあらゆることに通ずるんだけど、そういう類の傲慢さっていうのは、常に正義を主張したい自己愛の強い連中が持っているよね。
カトリックの傲慢さは「我々こそが唯一の教会」と謳うぐらいなので、納得していただけるだろう。
本作での「異端審問は悪魔の仕業」という発言は、まさに傲慢さに満ちたカトリックらしさの所以とも言えると思ったからだ。
悪魔のせいなら無罪!」とはよく言ったもんだ。

開いた口が塞がらない

アモルト神父がヴァチカンの許可をいちいち得ずに悪魔祓いを行っていて、その行動にお怒りの枢機卿が、アモルト神父に有難いお説教を行うのだが、
「いや、わしがやった案件のほとんどが精神疾患の患者だったし、悪魔祓いのテイで疾患者のマインドを利用した医療行為に近いモノだから関係ねぇんですわ」「俺に文句があるなら、俺を派遣した教皇に言えや」
と言い返すシーンがある。
これは、この後の展開で今回の敵であるアスモデウスに対峙した時に「今回のやつはマジもんやんけ・・・」と思わせるためのフックに過ぎないのだが、ここにも重要なニュアンスが内包されている。

本作でアモルト神父が悪魔憑きの98%は精神疾患で、本当の悪魔憑きは2%くらいしかないと言っていた。
そして現代科学では、悪魔憑きというものは科学的・医学的にも説明可能な現象の精神疾患と捉えられている。
つまり、悪魔憑きだと思われていたものは精神疾患の一種だったと、化学の進化が証明できてしまったということだ。(あるいは、当時も精神疾患をどう捉えるかの考え方になっていた部分もあったのかもしれない)

エクソシスト側からすれば、そのような形で悪魔祓いが民間療法的なごく身近な疾患のひとつになっていくことは、カトリックの"神と対話でき、悪魔と対峙できる"という設定・特異性を損なうことになってしまう
だからヴァチカンは、悪魔祓いを積極的にやって欲しくないのだ。
また別の側面でも考えられるのは、悪魔祓いが民間療法のように流布するということはつまり、なんでもかんでも悪魔憑きということになりかねない危険をはらんでいて、そうなれば社会の現象として悪魔憑きの総数が増えてしまう。
(肩こりも悪魔憑きのせいとか言い出す奴もいるもいるかもしれん)
ただの精神疾患がほとんどなのに、悪魔祓いに駆り出される ➡ 価値も下がる&リソース(神父)が足りなくなる ➡ 悪魔憑きが増える・・・という、
どこかの国の後期高齢者社会のような負の連鎖が発生して、その責任がヴァチカン側に発生するとすれば、それは避けたいこと一入だろう。
まったくもって現金な話である。

難しい話して疲れたので、生意気でえちちなアメリカ娘を演じた
ローレル・マースデンで安らぎましょう

まだまだ続く悪魔祓いの道

今回のストーリーである、カトリックによる異端審問の結果によって起きた修道院での悪魔憑き事件。
エピローグのシーンで衝撃的な言葉が出てくる。
「こういうところがあと199カ所もあるらしいから、浄化してやらないと」
そう、これは「ヴァチカンのエクソシスト 2…3…4…100…」とシリーズが続いていくという宣言なのだ!やったー!
もうすでに、続編の制作は決定しているとのこと。これは楽しみです。
わたしからの願い事はただ一つ。
199シリーズもあるなら、5回ぐらいは悪魔に勝たせてください

「ヴァチカンのエクソシスト」(原題「The Pope's Exorcist」)
監督脚本 ジュリアス・エイヴァリー
脚本 マイケル・ペトローニ
出演 ラッセル・クロウ
ダニエル・ゾヴァット
アレックス・エッソー
       フランコ・ネロ
ローレル・マースデン
ピーター・デソウザ=フェイオニー





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