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大型類人猿を食べることについて

今回は、大型類人猿を食べることについて考えてみたいと思います。

食料としての大型類人猿

私はゴリラもチンパンジーも食べたことはありません。食べたことがある人によると、少なくともゴリラはそこそこ美味しいそうです。ゴリラは草食動物ですし、それ以外の大型類人猿も体サイズが大きいのでまとまった量の肉がとれますし、食べ物としての栄養価や味はそれほど悪いものではないのだろうと思います。
実際、大型類人猿の生息地に住む人々の中には、伝統的に大型類人猿を食料として利用してきた人々がいます。コンゴ民主共和国のワンバは日本人によるボノボの長期調査地として知られていますが、加納隆至さんがワンバを調査地に定めた理由の一つが、ワンバの人々は自分たちとボノボが同じ祖先をもつという神話を持っており、ボノボを食べてこなかったことでした。それは、裏を返せば他の地域ではボノボは食料として狩猟対象になっていたということです。私がコンゴのンドキで調査をしたときにお世話になったピグミーの人たちもゴリラやチンパンジーを狩猟対象としていました。
しかし、現在では、大型類人猿を狩猟したり、その肉をマーケットで取引することは、すべての生息地で禁止されています(私の知る限り、禁止されていない地域はなかったはずですが、きちんと確認していません)。そして、肉の国際的取引はワシントン条約によって規制されています。つまり、現在人間が大型類人猿を食べることは許されていません。

大型類人猿の食料利用が禁じられる理由は、いうまでもなく狩猟と肉の商取引がかれらの直接の脅威となっているからです。

野生動物を守ることと食べること

ところで、一般論として、野生動物を食べることは必ずしも悪とはいえません。少なくとも現在までのところは、人間の食物のほぼすべては生物由来です。人間が生きるためには他の生物を食べねばならないのです。
だからこそ「供給サービス」とくに食べ物としての利用可能性が、生態系サービスのファンダメンタルな要素と位置づけられているのです。
だから、野生動物を守ることと、それを食べることとは対立する概念ではありません。たとえば「食べるために守る」という観点があります。日本人にとって魚介類は主要な食物資源ですが、多くの魚介類は保護管理の対象となっています。周辺国とマグロの漁獲量の割り当てを話し合ったり、アワビなどには休漁期が定められているのをニュースで見聞することもあるでしょう。こうした管理は、食物として将来にわたって安定的に食べ続けるために行われています。
逆に「食べることで守る」こともあります。日本でも、地方を中心に「ジビエ」などと言ってシカやイノシシなどを積極的に食肉として利用する動きが広がっています。ニホンオオカミやツキノワグマなど、シカやイノシシの天敵であった肉食動物が絶滅したり個体数を大幅に減らしたこと、人間による狩猟の衰退などによって、一部の地域ではシカやイノシシの個体数が増えすぎて、農業被害をもたらしたり、山林の木々に回復困難なほどに食害を与えるようになりました。こうしたことが続くと、たとえば「地域のシカは全部取ってしまえ」という声が高まったり、食害によって山全体が枯れてしまうおそれがあります。そうなると、シカやイノシシたち自身も生きてゆけなくなります。だからといって、害獣駆除には税金もかかります。そこで、単に駆除するのではなく、積極的に食料資源として活用することで、個体群としてのシカやイノシシを安定的に維持しつつ、地域経済や地域生態系も管理してゆこうというものです。

なぜ大型類人猿の食物利用はNGなのか

前回の記事で、私は大型類人猿が提供する生態系サービスの中に、かれらの食物としての価値(供給サービス)をあえて含めませんでした。そのうえで、大型類人猿の提供する生態系サービスは評価が難しく、保全の理由としての説得力が今ひとつ弱いと述べました。

しかし、冒頭で述べたように、食物としての大型類人猿の価値はそこそこ高いです。そして、評価もしやすいです(だって肉には値段がつくから)。だったら、マグロの漁業管理のように、食べることを前提とした資源管理の論理を用いて、人々を納得させることができるのではないでしょうか?

しかし、それは無理です。それは、大型類人猿を肉として活用することが端的にサステイナブルではないからです。
大型類人猿はとても増殖力の低い動物です。種によって違いがありますが、メスが出産可能になるまで10年くらいかかります。そして、1回のお産で一頭しか子が生まれません。しかも、1回お産をすると、3〜6年くらいは次のお産ができません。
その一方で、人間による開発によって大型類人猿の生息適地は減少の一途をたどっています。これも、以前に述べたことです。
こうした状況を踏まえると、大型類人猿を「食べながら守る」のは現実的ではありません。かりに大型類人猿の狩猟を認めるとしても、適切な資源管理をしようと思ったら、許容される「捕獲枠」は極めて小さなものとせざるを得ません。それでは潜在的需要を満たすことはとうていできません。すると必然的に密猟のリスクが高まり、その対策に多大なお金と労力がかかります。それならいっそ、大型類人猿を狩猟禁止にして、食料資源としては他の生物資源を活用するほうが合理的です。

増えたら食べていいのか

ここまでの説明で、現状、大型類人猿を食べるのは認められないことを納得していただけたでしょうか。
しかし、ここまでの説明のロジックでは、将来的に大型類人猿の保護がうまくゆき、生息環境は保全され個体数が増えてきたら、食べてもよいということになりそうです。漁業資源なんかがまさにそうですよね。資源量が減ったら漁を制限するが、資源量が回復したら思う存分漁をしてよい。いまウナギを食べるのを我慢すれば、これからも節度を守ってウナギを食べ続けることができる。
生態系サービスの概念に基づく保全ロジックでは、マグロと大型類人猿は同等です。わざわざ大型類人猿を食べましょうキャンペーンをする必要はないにしても、伝統的に大型類人猿を食べてきた人々に対しては、「いまは狩猟を我慢してくれ。そうすれば、将来はあなたたちには狩猟枠を与えることができるから」といえば、納得してもらえるのではないでしょうか。
論理的には、私はそれはありだと思っています。しかし、論理でない部分で、そうしたくない気持ちがあります。本音では「大型類人猿を食べてはいけないのだ」と言いたい。そしてそういう本音をもっているのは私だけではないはずです。
この問題は次回以降さらに掘り下げてゆきたいと思います。今回は、ある生物を「保護する」ことの背景にある論理や思想は一つではなく、またひとつひとつがそれほど単純でもない、ということを理解していただければと思います。

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