うつ病の回復と彩りの狩猟採集

先日ついに学位審査の発表会を終えて、いよいよ一段落ついた。あとはいくつか書類の提出があるがそれは本当に事務的な書類なので大学院もほぼ終了=修了である。教官が発表会の当日までスライドの修正点を指示してくるので本番の1時間前までヒイヒイ言いながら直していたが、最終的に細かいところは無視して大事なところだけ直してケリをつけた。発表会は教授3名を呼んで発表するのだが、今回依頼した先生は皆それぞれの専門領域内ではトップクラスに有名な人たちだったので、まあ緊張した。三者三様の質問が出てなかなか大変だったが、やはりその道のプロだけあって発表の勘所を掴むのが的確で、詰めの甘いところのにおいを嗅ぐのが極めて敏感であった。とはいえ質疑も想定範囲で進み、無事に終わった。これはさすがに直前まで直しの指示を出し続けてくれた教官のおかげである。

私は昔から、こう何かを達成したときに喜ぶことが苦手で、大学に受かったときも、卒業も、国家試験も、どうも実感が湧かず、なんとなくやっていたらそうなっていただけ、という感覚であった。自分の努力が出来事の因果を決定したという感覚がなかった。そのたびに妻にも友達にも「ちゃんと喜ばなきゃダメだ」と言われたので、そう思うように努力をしたけれど、なんというか形だけ喜んだ感じで、結局その後うつ病になってむしろ色々と失敗し続けたわけである。

そう考えると、喜び方というよりも、つまりはやっぱり日々の努力のほうが問題なのではないか? 努力をしていないわけではなかったけれど、その努力が自分のものとして感じられていなかった。自分の行為が自分のものだと感じられていなかった。そういうことだったのではないか?

「やらされている感」とも少し違って、努力した過程を返上しているというか献上しているというか。何に? 社会か、権力か。私に努力を課した何者かに私の努力を献げることで私は自分の価値を認めてきたような、そんな感じ。結果を出したとき、喜ぶのは私ではなくて社会なのであり、私はその報酬として社会的な評価を得て存在できる。私はそういう人間である。こう書くとかわいそうに思うだろうか。でも案外本人は幸せなのである。ただその私と社会の蜜月がいつか崩れてしまうことが問題なのであって。

社会の要求は私と社会の共犯によってどんどん加速する。だからいつか要求に応えられなくなる。応え損ったとき、私は存在を失う。それがうつ病として現れる。

思えば、うつ病からの回復は、今のこの行為が私に発し私に資するものであり、私は私のものだと思う過程だったように思う。皆さんにとっては当たり前だろうか。こういうことが素晴らしいことだろうか。これは普通のことだろうか。実は、うつ病的な人間にとってこのような、私に主体の座のあることを信じる世界は、天が崩落したほうがマシだと思うくらい退屈な、色褪せた世界である。うつ病はそういう世界に無慈悲に突き落とされることだ。受動的な自己愛が備給されなくなった世界には草一つ生えない。うつ病からの回復とはその無味乾燥なモノクロームの世界に彩りと、風味と、快感を、新たに見つけ出すことなのだと思う。五感を使って、スクリーンの向こう側のモノを感受する。一枚めくると全く別の原理で彩られた世界が現れる。毎日ちょっとずつ、世界をめくっていく。歩いて、触って、嗅いで、味わうことで世界をめくる。生きるとはそのことだと気づく。目には常に荒涼とした世界が広がっているけれど、その世界を日々少しずつめくって一日分の彩りを採集する。彩りの狩猟採集民になる。それが、日々の努力を自分のものにするということだ。

今回学位審査の発表を終えたときも、やはりすごい喜びとか、安堵とか、そういうものをすぐには感じられなかった。人の根本はそう簡単に変わらないものである。一緒に発表を終えた人は「これで私も博士になったのよ〜」とか言いながら帰っていって、私はその逞しさに素直に感動した。私はそんなに自己完結できない。しかしそんな私も、うつ病が再発しないで一仕事を完結できたことについてなら素直に喜べた。自己が自己に発し自己に資する世界にはもう博士号そのものに彩りを与えてくれていた誰かは存在しないのだが、うつ病という大きな影はつきまとっていて、影に飲まれない限りにおいて世界の明るさを示し続けてくれる。うつ病人間はうつ病という影を通じて世界に彩りを発見する。味わう、嗅ぐこと、触れること、響いてくること、それらを摂取して自分を作っていくことができると知る。彩りを収集するために足を使い、手を使う。歩こう、私は元気なのだから。そう思うことは私にもできたということだ。

おかげでじわじわと大学院修了への実感が湧いてきている。じわじわと。ちょっとずつやればなんとか大仕事を終わらせられるのである。すごいではないか。私の世界にも少し花が咲いているような心地がする。そういえばもうすぐ沈丁花の季節が巡ってくる。咲いたら子供と一緒にまた鼻を近づけてクンクン嗅ぐのだ。花を嗅いで、洗濯をし、茶碗を洗って料理をする。ついでにそれを文章にしたりして。そうやってうつ病から回復し続けて、自分の人生を歩む。そういうことをこれからもやっていく。

忙しくて日記から離れていたせいか、なかなか筆が乗らない。もっと書いてリハビリする必要がある。

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