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日常:旅行

 日帰り。と言う言葉を甘く見た。

 温泉――先週、友人の中島君と久しぶりに飲んだ。二件目にはいつのお決まりのバーへ行った。そこでマスターと三人、なぜか温泉の話になり、ちょいと盛り上がった。
 それで行こうという話になったのだ。

 そこまでは良かった。

 いざ前日になって中島君が、娘が熱を出したとかなんとかでキャンセルしたいと言い出した。仕方ない。いくら俺に子供がいないからといって、そんなモノは放っておけなどとは言えない。鬼ではないのだ。

 正直、そこまで親しくはないマスターと二人になった。じゃあ、もうやめておこう。思いは同じだと勝手に当たりをつけた。しかしマスターは行く気まんまんで、断りづらく、二人で決行となってしまった。

 まあ、今日は平日だし、それに合わせて俺は有給をとっていたので、休みを取った意味をなくすだけなので、これで良かったと言えば良い。

 休日に、職場に向かうのと同じ時刻に起き、職場より遠くの目的地に向かっている。

 たわいない会話が途切れない車内。以前から気にはなっていた。客商売なのに、人の話を聞くより喋る方が得意なのだ、マスターは。

 正直、少々苦手なタイプではある。

 店を閉めてから二時間しか眠っていない、という状態でハンドルを握るマスターは朝からよく喋った。むしろ眠っていないから喋るのかもしれない。二時間はさすがに盛っているだろう。

 アルバイトのまさみちゃんを誘ってもらえば良かった、と思ったものの、マスターとの会話の中で、二人がお付き合いしていると知って、口にしなくて良かったと思えた。

 目的の温泉が遠いということぐらい知っていた。それでも、三時間近くもかかるとは知らなかった。

 県内でそれだけ時間をかけないとたどり着けない温泉があることには、驚きしかない。
 温泉に行くんじゃなくって、日帰り旅行だこれは。さほど親しくない男二人の日帰り旅行なのだ。

 俺は日帰りという言葉の罠にはまった、愚かな獣なのだ。

 日帰りと日帰り旅行だと、ずいぶん印象が違って聞こえるのは俺だけだろうか?

 もう一時間近く、川沿いのを走り、深い山々を眺め続けている。
 よくそんなに口が動くな。と思うほどマスターからの攻撃が止まらない。
 それでも苦痛が全てではない。それなりには楽しい。一歩引いてマスターを観察すると、なお楽しい。
 彼は普通に生きていて、あまり出会わないタイプではある。

 途中、道の駅による。

 マスターは中をのぞきに、俺は少し離れたところにある便所にと、別々の方向に向かう。

 平日なせいか立ちよっている車は少ない。
 白い雲が小さくちぎれて流れている。昨夜雨でも降ったのか、ところどころ地面が濡れていた。
 山奥に来たせいか、少し肌寒い。

 駐車場の端に建てられた便所に入ろうとしたとき、何か柵の向こうで動くモノが見えた。

 足を止めて見ると、ウサギだった。

 片手におさまりそうな子ウサギが一匹、姿を隠しきれるほど伸びていない原っぱをぴょんぴょん、右に左に飛び回っている。

 写真でも、と思いスマホをポッケから取り出し向けたとき、どこからか飛んできたカラスがくちばしで突きだした。

 自然界、野生界の厳しさ。それを参考にして考えれば、放っておくべきなのだろう。

 しかし、迷う。

 カラスの攻撃は激しさを増している。
 どうせ殺すのだからと遊んでいるようにすら見える。

 俺は舌打ちひとつ、スマホはそのまポッケにしまい、柵を越え、手頃な小石を拾って一歩二歩近づいてカラスに投げつけてやった。
 当たりはしなかったものの、カラスは高く舞い上がり逃げていった。
 子ウサギも林の方に逃げて行った。

 俺は便所に戻った。

 用を足しながら、心中にはモヤモヤしたものが形を持ち出した。子ウサギにとってはよかっても、カラスにとっては大迷惑。ただ野生の厳しさを黙って眺めていられないのが良心というものだろう。

 良心――なんと使い勝手の言い訳だ。しかしそれでこそ人間だ。

 しかし、言い訳をする必要などあるのだろうか? 
 用の終わったモノをしまい、手を洗ってズボンの尻で拭きながら便所を後にする。

 まあ、喋るネタにはなった。マスターにこの話をしてやろう。たぶん、『ウサギは一匹じゃなくって一羽って数えるだよ』だとか言われるのだろう。

 車に戻りながら、ふとさっき子ウサギが襲われている方を見て、足が止まった。

 子ウサギをくわえたカラスが遠くに飛んでいくのが見えた。


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