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瞑想と私

前回、箸休めのように私がどのようにして瞑想を深めていったのか、書いてみようかなーなどと思ってしまったのですが、いざ自分のことってなんだかこっぱずかしいものですね。笑

なのですが、そこはね!
今まで、いらしてくださった「こじらせスピさん」のことを散々書いておりますので、自分のことも書いてみよう!
えへへへ。

瞑想・マインドフルネス・テーラワーダ仏教などというものを扱っていると、つい真面目な固いイメージを持たれやすいのですが、書いている文章からも滲み出てしまうオバさま臭。そして関西臭。

今日は箸休めということですので、気軽に書いてまいります。お付き合い頂けたら嬉しいです。

さて、私が初めて瞑想というものに触れたのは、子供の頃です。子供時代の頃なので、ちょっと記憶が曖昧だったりもするのですが、小学校2年生くらいだったと思います。

私の住んでいた地域には今普通にあるような「学童」などというものがなく、教会で休日や長期休暇(夏休み・冬休みなど)を夜まで過ごしておりました。特に親がクリスチャンだったかというと、家系としては日蓮宗。そして、信心深いかというと、特にそうではなく、便利に子供を預かってくれるので、私も嫌がることもないし、まぁ預かってもらおう!くらいの気軽な感覚だったのだと思います。教会の宗派はよくわからないくらいの、子供の記憶なのですが、「⚪︎⚪︎(地域名)福音教会」というところに行っておりました。

そこでは、瞑想のような時間があったのです。
それは、祈りの時間だったかもしれないし、瞑想の時間だったかもしれないというのが正直なところです。

ただ、この時間で深い瞑想の体験を何度も体験をしたというのが「私と瞑想の始まり」だったことは確かで、その後、ヨガをするようになって、「あーこれは子供の頃に教会でしていたのと同じものだ」と思い出したのです。

子供の頃の私は、俗にいう「不思議ちゃん」だったかと思います。目に見えない何かの声が聞こえたり、人の体の中を感じることが普通だったので、言っていることと考えていることが違うなど、他人の本音を垣間見てしまったり、「あれ?体のここがおかしそう」などと感じてしまう。自分でもどう扱ったらいいのか困ってしまうことも多々ありました。ちょっとした家系なようで、そんな私に母は「あまり人には言わないように」とアドバイスをくれたりもしました。

そんな気質を持っている子供でしたので、瞑想で不思議な体験もたくさんしたし、その時間には大きな意識とつながることも多く、大人に聞くより瞑想の時間に意識に聞く方が手っ取り早いし、わかりやすいよね、と思っていたり、大人ってミサの時間にはとっても良いこというのに、その後愚痴だったり悪口だったりで、なんとも辻褄が会わないんだもん!などと思っておりました。

さてさて、そんな不思議ちゃんも、ティーンネイジャーになると教会なんて行きません。笑
不思議なことからも距離を置きたい!みんなと一緒に俗に塗れてしまいたい!!と、やっとこ ”普通” への道を歩み始めたのです。

ちょいちょい顔を覗かせる自分の要素は面白おかしく、不思議なことも、神秘的なことも、まるッと忘れてどっぷりと世間を堪能し、結婚して、子供を産んで、ママさん社会で揉まれ(笑)、ヨガを始めて思い出した子供時代。そう言えばこうやって静かな時間を過ごしていたなーと懐かしく、感覚を取り戻すかのように瞑想を再開しました。

そんなこんなな数年を過ごした頃、ちょっとしたことが大きくなり、瞑想をしても繋がれない、繋がれないからさらに深刻になる….という悪循環を初めて体験したのです。その時、「えー!人間って大変じゃん!みんなこんなだったのかー!そりゃーしんどいよね。辛いよね!今まで理解できなくてごめんなさい!」という感じで、やっと人としての苦労を知ったのです。

そして、人としての苦労を知るとともに、自分が苦しい時となりました。
(実はその頃の記憶が1年強、まるッと抜けてしまっているくらいの私にとってはチャレンジングな時間でした)

苦しいからなんとかしたい、でもなんとかしたいと頑張るからもっと苦しくなる。今までの瞑想の経験も、ヨガの学びも、全然役に立たない!心理的なアプローチにも通ってみたけど、どうにもならない。

そんな時にタイのお寺に滞在をさせていただき、テーラワーダに初めて触れ、1日中瞑想をして過ごしたのです。そこで、自分がいわゆる「禅病」のような状態であると知り、体と心を緩めることの大切さを知りました。

その後、エサレンというボディワークに出会い、またタイのお寺の副住職さんの日本での活動のお手伝いをさせていただきながら、緩みながら気づきを伴うという実践を通して、自分を取り戻し、今の私となりました。

「瞑想が勝手に深まる」という一見恵まれた状態から、「全くわからない」というのを経験し、学び直したからこそ、伝えるということができるようになったのだと思います。

こんな風に書くと、私もすっぽりスピ系に見えてしまいますが、実はスピ系苦手です。笑
いや、正確には苦手でした。だって、教会に行ってた時の大人たちを彷彿しちゃうんですもん。言ってることと、考えていること、思っていること、行動がズレてて、心地悪いというのが正直な感覚だったのです。

「だった」と書いたのは、今ではそれは道半ばなのだと理解ができたから。「幸せになりたい。でもその本質が見えていない。」という道半ば。だからこそ、ズレていたり、こじらせてしまったりしているんだと気がつけたのは、私のところに辿り着いてくださったたくさんの「こじらせさん」のおかげなのだと思います。

ということで、まだまだ私自身も実践を繰り返しながら、「こじらせさん」が本質に気づき、迷子になってしまわないヒントを書いていければ、新しい「瞑想と私」の章になっていけるのではと思っております。

箸休めのつもりで書いた「瞑想と私」も結局長い!笑
端的に短くまとめる術も書きながら学んでいけたら嬉しいです。

今日も最後までお読みくださりありがとうござしました!
次回はまた「こじらせさん」のお話に戻って参ります。
ぜひお時間の許す時にお付き合いくださいませ。



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