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平成を振り返る

今日4月29日は地元宮崎のテレビ局で「MRT報道特別番組激動の30年 宮崎 平成回顧」にゲストとして出演させていただきまして。思い出深い平成の最後となっています。

番組では、平成を10年単位で区切りながら適宜コメントさせていただくスタイルだったのですが、しっかりと事前に振り返り準備していたにも関わらず、伝えたかった事、コメントしたかった事の3割くらいか言葉にできなかったので、まとめてみました。

テレビ局側から事前に、平成を一言でフリップに書いてコメントしてほしいというリクエストがあり(時間の関係もありフリップに書くのはなくなったんですが)、振り返り考えていた私にとっての平成とは

喪失から協創へ

昭和55年(1980年)で早生まれな私の昭和64年/平成元年(1989年)は9歳の小学校4年生。

記憶のみを頼りにしてしまいますが、時代的には1987年のリゾート法第1号の適用を受けた宮崎「シーガイヤリゾート」を運営する当時第三セクターが運営するフェニックスリゾートが2001年に会社更生法の適用を受ける。宮崎のこの時代の印象的なワンシーンとなる。

90年の当時の大蔵省による総量規制をきっかけに日本経済はバブル崩壊を迎える。

私の記憶にあるのは、父の経営していた会社の経営が苦しくなっていく。父の会社は私が中学3年生の夏に倒産することに。このバブル崩壊の波はジワジワと日本国中に広がっていく。

ある意味、経済成長が続き、豊かになり続けるというイメージは特に持ったことはない。ロストジェネレーションと言われる世代の入り口だと後に考える点でもある。

平成7年(1995年)は中学3年生で、阪神淡路大震災があった。こんな事が世の中で起こり得るのかとショックを受け、なにが自分にできるかと考えた時でもあり、世の中に不条理があるのだという私にとっては事件だった。

高校の頃には、当時大手証券会社であった山一證券の自主廃業があり、金融ビッグバンと言われる金融制度改革があった時期だ。高校2年か3年の頃、朝日新聞の「声」に投稿して採用された内容が「山一證券と金融制度改革」だった。

その後、なんとか大学に入学した頃には、

就職活動=氷河期

というモノらしいと言われ、説明を受けなくても、みんな受け入れていた。

私の学年が就職活動の時期になると、氷河期だったのが

超氷河期

というパワーアップした言葉になっていた。

もちろん、希望通り就職する学生もいただろうけど、大半の学生にとっては数10社、下手すれば100社受けるのが当たり前だった。テレビなどでは「フリーター」という言葉が溢れ、正規雇用ではない働き方の存在が自らの選択ではなく、道としてあることを認識していた。

後に、私達はロストジェネレーションと言われ、「失われた10年」だったのが、「失われた20年」となり、「失われた30年」と言われている。

その失われた時代というものに当てはめれば、30代の私としては、人生大半が失われているわけだ。

昭和で積み上げてきて幸福感の土台の一つとなっていた「終身雇用」「護送船団方式」といった、大きなものに入る事が安全であるということが否定され、ある意味今までの先生たちから提供された指針が通用しない時代となった。

価値観の喪失とも言える時代だったのではないだろうか。

しかし、それを受け入れているだけではない。

インターネットの普及からスマートフォン、SNSによる個人の発信と繋がりが人間関係の一つのあり方として受け入れられ始めた時期。技術が仕事の仕方だけではなく、人々のコミュニケーションのあり方を変えてきた。

平成22年(2010年)の宮崎での口蹄疫の流行による、牛・豚など大凡29万頭を超える殺処分による宮崎経済のさらなる苦境。これは、経済だけでなく、私にとっては自らのふるさとが宮崎なのだということを強く認識させるきっかけとなった。

当時SNSのメインでもあったmixiでユルク繋がっていた宮崎県出身者と共に東京ドームで募金箱を持ったり、六本木ヒルズでチャリティーコンサートをするなど、ネットをベースに議論や調整をして実行していった。

この頃から、宮崎へいつか帰らなくてはと、思うようになる。

平成23年(2011年)の東日本大震災。鎌倉で働いてた私は、生活の基盤、幸せの基盤、自らの社会における役割を見つめ直すきっかけとなった。私だけでなく、日本中の人が考えただろう。この頃、SNSの価値が大きく進化したきっかけとも言える。

これをきっかけとして、多くの人が自分にとって大事な価値とは何かを考え、そしてそれは一人だけでなくみんなにとって大事な価値であることを気づいた時とも言える。

平成26年(2014年)に政府による「地方創生」は、日本という形が今までの価値観やアプローチでは維持できないことを明確に認めた結果とも言える。

強い者が強い者達だけで作り、勝ち取るものではなく、多様な関係者と繋がり共に価値を共有・共感し、価値の維持、創造をしていくという流れが生まれている。

シェアリングエコノミーであったり、宮崎で言えば日南市や宮崎市の働き方や取り組みは地域の新しいバージョンアップとも言える形が見えてきた。これが「協創」だと考えています。

と、振り返ってみましたが、生放送で数十秒で話すには限界がありましたが、いろいろと振り返る事ができました。

協創のバージョンアップを私は私の持ち場で、専門分野を武器に、多くの方と手を取り合い挑戦していきたいと思います。

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