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トンガの津波被害を受けて思い出したことー東日本大震災で支援する側とされる側ーそしてベルリン国際映画祭で見たものー

先日【活動報告】メールを支援者の方から頂いた。当初の目標には達成したとのことでとても安心したが、トンガの方達の生活はこれからも続く。早く元どおりの生活に戻りますように。そう願うばかりだ。ちなみにトンガの支援のためのクラウドファンディングのページはこちら。今日この記事を書いている段階でまだ50日あるので、もっと支援が増えればいいなと願っている。

私は今回のトンガの津波について、色々と思い出した事があった。1つは東日本大震災の時だ。仙台は私にとって知人がいる為身近な場所であり、地理的な状況がよくわかっていた。大震災が起きる前、それまでも地震は震度6程度でも度々おきる地域だったので、私は仙台にいる知人たちに笛等を持ち歩くよう、注意を呼びかけたりしていた。でも誰も地震=津波が来るというふうに考える人は少なかっただろうと思う。これまでも津波が来たとしても30cmだったり,(津波は30cmでも大変危険である)ニュースでも予想以下のことが多かったから。なのであのような大きな津波が来るとは考えた人は少なかっただろう。本当に世界中で地震=津波という認識が広まって欲しいと願っている。

私は東日本大震災が発生した時には別の場所におり、私が目にした物や状況はここではまだ記せない。しかし数日後気を取り直し、被災者支援の為の物資を集め仕分け作業をしていた。倉庫にごっそり集まった物の中で、気持ちとしては感謝を感じながらも、あまりにもこれは酷いのでは、これは持ち主が単純に要らないものだったのではというぐらい汚れた服、靴、バック、ホテルからもらったアメニティ等もどんどん集まっていた。いつもらってきたのかと思うぐらいアメニティも古かった。それらは種類ごとにわけてダンボールで現地に発送されていった。種類に分けると言っても洋服1つとってもサイズも違うし季節感も違うような服だらけで作業分けも大変だったし、Tシャツのロゴにはあまりにも状況的に相応しくないメッセージが入っている洋服もあった。受け取った側もきっと大変だったろうと思う。

このような経験から、自分が被災した場合(地震が起きた場合の対応)と支援する側になった場合、個人で出来ることもケースバイケースではあるが、マニュアル化された方がいいのではないかと思った。近年ボランティアのルールやマナーは認知、認識されている方が多いのではないかと思うが、個人でできる支援も状況別にリスト化されていれば、あのような手間も参加する側も受け取る側も負担が減るだろう。集まった物資は善意の贈り物なので、どうしても大切に扱いたい。だからその為にどのような工夫が必要なのか。被災物資としてどのようなものが必要になるかは聞いたことがあるのだが、どういう状態でそれを手渡すか、どのような方法が助かるのか、それらを扱う自治体からももっと発信して頂きたいと思っている。

私は決して忘れない。海の近くで家々が往々にして周囲に民家が立ち並び、人々が暮らす豊穣な場所だった土地が、数ヶ月後砂漠のように何もかもがない、瓦礫すらもない、ただ土の色1色だけが残った命の残響すら全く感じない景色を見た事を。テレビで映し出された体育館に並べられた半透明の袋に入った命の尊厳を。

私はベルリン映画祭で原発事故を扱った映画が上映された時の状況を見てきた。その中で映画の冒頭でこんな言葉があった。当時現地では様々な人が立ち入っていたという。政府は、震災が発生した去年3月11日の夜から翌12日の夜にかけて、原発から3キロ圏内の住民に避難指示を出したのに続いて、10キロ、そして20キロと、立て続けに避難指示を出した。避難指示が出るたびに避難活動は中止された。映画の中で監督は言った。「僕達は政府の鼻をあかしてやりたいという気持ちがなかったわけではなかった。」その後立ち入り禁止地域として30km離れるようにという国からの指示が出た。カメラではもうはっきりとは見えない距離になっていった。

残念だが何故か日本ではこの映画は酷評されている為に名前は明かさない。私はこの映画について現在も最後まで判断を下していない。それでも私はドイツや海外の人々があまり立ち去らず多くの方が、最後まで映画を見ていてくれた真剣な表情を思い出す。私はその姿を見ながら涙を流していた。

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