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-円環の虹-

 山脈を内包しない平らな大地というものは、その内陸部に乾燥地帯を持つものだ。世界で三番目に面積の大きいシフトト大陸はその条件にピタリと当てはまっており、この地で水の恩恵を得て緑を抱するのは王都と虹の女神エイリスを祀るエイリス神殿の二ヶ所だけだった。

 大岩ばかりが転がる代わり映えのしない赤茶けた大地を進むこと数日、緩やかな上り坂をずっと進み、その頂点に辿り着くと、大陸の中央だけが大きく窪地になっており、その内部一面が広大な大森林になっていることを旅人は知る。エイリス神殿をその懐に抱く、その名も≪希望の森≫。この乾いた景色ばかりが続く場所で、最初にこの地を見つけた冒険者が、この光景にどれほどの感銘を受けたか、その名残はこの名に残されている。

 森へと至る道を進み、やがてその中に足を踏み入れると、空気がひやりと湿っているのに気付くだろう。ここにも雨が降るわけではなかったが、この森を包む大気が常に水気を帯びているのだ。それがこの乾燥地帯にこれほどの緑地が育まれる理由だった。青々とした枝葉に付着した水滴に光が当たりキラキラと虹をかける。この森の中ならどこででも見られる光景で、それこそがエイリスの加護の証なのだった。

 虹の歓迎を受けながら整備された道を行くと、木漏れ日に虹を透かせる景色の向こうに背の高い白亜の神殿が見えてくる。遠目に見れば塔のようにも見えるだろう。神殿の周囲には巡礼者や旅人のための施設が点在し、行き交う人の数も多く、もはやその様相は小規模な都市となっていた。

 さて、そんなエイリス神殿に、その日奇妙な二人連れの旅人が現れた。

 二十歳をいくらか過ぎたくらいの青年と、青年とは一回りほど年が離れていそうな少女である。青年は褐色の肌に黒い髪が特長で、目は翠緑。旅暮らしで長くなったらしいくせのない髪を首の後ろで縛っている。少女のほうは肌が白く、はっとするほど整った顔立ちをしていた。こちらは金色に近い茶色という淡い色合いの長く伸ばした髪を、後頭部の高い位置できちんと結い上げている。

 だが、彼らに奇妙なという形容が付くのは、二人の旅人の目立つ容姿が要因ではなかった。人目を引いているのは、青年の肩に留まった夜明けを見届ける空のような瑠璃色をしたハヤブサと、少女の傍らに大人しく寄り添う大きく黒い狼だ。行き交う人々はまず鳥と狼に驚き、それからその主人、正確には褐色の肌の青年の左の頬に浮かぶ模様を見て合点がいったという顔をする。身体のどこかに浮かぶ紋様は、《イ・ツェトの民》と呼ばれる、世界と絆を交わした者としての証であり、その紋様を持つ者のそばには、自然界の法則ではありえない色や形をした動植物——≪精霊≫と呼ばれる大いなる力のほんのひと欠片が具現化したもの——がいることを、この時代で知らぬ者はいないのである。



「やっとついたー!」

 アーチ状の白い門の前で、馬の尾のような髪形をした少女——フィズが両手と歓声を同時に上げた。少女の薄い胸元で、透き通る若草色の液体の入った小瓶の首飾りがきらりと光る。フィズはそれを大事そうに両手で包み、褐色の肌の青年を見上げて「ナギ兄!」と呼び馴れた呼称を口にした。

「もう出してあげてもいいよね!?」

 ナギは苦笑を浮かべて頷いた。フィズの手はナギの顔が縦に動きかけた瞬間に翻り、元の位置に戻る頃には軽快な音を立ててコルク製の小瓶の栓を引き抜いていた。

「セージ!」

 フィズが叫ぶようにその名を呼ぶと、小瓶の中から重力に逆らって水が飛び出した。明らかに小瓶の中に納まる量ではないそれがフィズの視線の先に浮かんでを渦を巻く。やがて水は空を泳ぐ魚の姿になった。からだの大きさはフィズの広げた手のひらほど。尾びれが長く、南の青い海を泳ぐ種類の魚によく似ている。

 そそぐ陽光を浴びてきらきらと光る様は美しく、じっと静止していれば色硝子でできた置物にも見えた。どこかの国の至宝だと説明されても感嘆の溜息と共に納得してしまう、そんな姿だ。

『ああ、やっとでれた! おいこら! 森に入った時点で出してくれてもよかっただろ!』

 透き通る若草色の魚が、その繊細な見た目からは想像も出来ないほど元気で張りのある声を出した。声代わり前の少年の声だ。セージと呼ばれた魚は、ぶうぶう文句をたれながら、狭い檻の中から広い野原に解き放たれた子犬のようにフィズの頭上をぐるぐる回る。

「ごめんねセージ」

『フィズはなんにも悪くねえ! お前に言ってんだ、ナギ!』

「悪かったよ、セージ」

『こころがこもってない!』

 ナギが謝罪の言葉を口にしても、セージの腹の虫は治まらないらしい。フィズの頭上をなおもぐるぐる回りながらきゃんきゃん吠えている。魚の姿形をしているのにその動きはほんとうに子犬のようで、まったく迫力に欠け、むしろ微笑ましいほどだ。

『……』

 だが、そう思わない存在がこの場に一人だけいたようだ。正確には一羽か。ばさり。ゆっくりとした動作で、瑠璃色のハヤブサがナギの肩の上で翼を広げる。

『うるさい』

 若い女の声がぴしゃりと告げ、その瞬間、風のかたまりがセージを打った。

 セージは『うぉう!』と叫んで動きを止めた。一瞬崩れた魚の輪郭がすぐに元の美しい造形に戻る。人間でいうならば軽く小突かれた程度といったところか。

『ばか言わないでよ。あんたちっともじっとしてないんだもの。あんな深い森の中でいつものようにされたら、たっまんないわ』

『いつものようにってなんだよセラ! おれさま水らしく冷静沈着な精霊だぞ!』

『馬鹿おっしゃい、なにが冷静沈着よ! きれいな水を見るたび興奮して! シフトトに着くのが一週間遅れたの、いったい誰のせいだと思ってるの!』

『≪水の精霊≫が水に惹かれてなにが悪い!』

「それ自体に問題はないんだけどなあ……」

 ナギは苦笑した。確かに、それだけなら特に問題にはならないのだ。

『そうだな。だが、清流に飛び込みそのまま流されて、一週間行方不明になるのは問題だぞ。その無鉄砲さがフィリージア譲りなのは知っているが』

 ナギがあえて呑み込んだ言葉を、黒い狼がそっくりそのまま口にした。若い娘が思わず振り返り頬を染めそうな、低く落ち着いた成人男性の声だった。その声に、フィリージアを泣かせるな。そう続けられて、急所を突かれたセージが言葉に詰まる。

「アグニ! あたし泣いてないからね!?」

「……いやあ、「水のないところに行ってたらどうしよう」ってめそめそしながら探してた気がするが」

「ナギ兄ッ!」

 フィズは十二歳。ナギにとってはまだまだ子供だが、本人にとってはもう子供ではないという自尊心が芽生える年齢らしい。泣くというのは『子供っぽくて恥ずかしい』行為であるらしく、フィズは必死に否定している。余談だがセージが見つかったのはいなくなってからちょうど七日後で、場所は天然の氷室の中だった。水から水へと渡り泳ぐうち氷の洞窟に迷い込み、そこですっかり凍り付いていたのである。≪炎の精霊≫であるアグニがいなかったら、きっともう少し厄介なことになっていたことだろう。

「っもう! セージもセージよ、あたしが未熟なの知ってるくせに!」

『ぅえぇえ?』

 フィズは文句の矛先を自分の相棒に向けた。まさかそう来るとは思っていなかったらしく、セージは情けない声を出した。

 セージは普段からフィズの小瓶の首飾りの中にいる。フィズの潜在能力は非常に高く、ゆえにセージは≪水の魚≫という非常に稀有な形に具現化したのだが、彼女の心の力はまだ未熟で、ゆえにセージをその形のままで完璧に保っていることができないのだ。透き通る若草色のセージは、瑠璃色のセラや黒狼アグニのように常に外気に触れていると液体の摂理に従いやがて蒸発して形を失ってしまう。絆の証である≪精霊印≫がフィズの左腕の内側に浮かぶ限り≪セージ≫という自我が消えることはないのだが、もう一度具現化するためには、心の力が育つのを待つか、≪イ・ツェトの聖地≫か≪絆の生まれた場所≫に赴く必要があるのだった。

 フィズはすっかり拗ねてしまって、頬を膨らませてそっぽを向いた。その周囲をセージがおろおろと泳ぎ回っている。

『フィズー、フィズー、怒るなよう。おれさまが悪かったよう。もうわがまま言わないから機嫌直してくれよう』

 彼女が本当に腹を立てているのは、大事なセージを自由にさせてやれない自分自身に対してだ。それは彼女が自分で折り合いをつけることであり、どんな慰めも意味をなさないことをナギはよく理解していたので、ただフィズの背中を軽く叩き、

「さ、宿の手配をしに行くぞ。明日はエイリス神殿に行く。ここはちょっと変わった造りをしてるんだ。楽しみにしてろよ、フィズ」

 なにごともなかったかのように振る舞って、宿泊施設の看板を目指して歩き出すのだった。



 この時代、生涯を通じて世界中を渡り歩き、その祈りによって万物に満ちる大いなる力の均衡を保つ役割を担う≪イ・ツェトの民≫は、神秘の力を借り受け奇跡を起こす神々の眷属と認識されている。

 地下水脈の流れが変わってしまい水不足に悩む村で、地下を流れる水の声を聞き新たに井戸を掘るべき場所を正確に言い当てただとか、流行病で子供たちの多くが倒れ悲哀と絶望に沈む町に、死の山と怖れられる霊山に分け入りそこに住まうヌシからの教えを得て調合した治療薬を届けただとか、そんな話は枚挙に暇がないからだ。

 フィズが物心ついた頃には、世間は≪イ・ツェトの民≫に優しかった。行く先々で歓迎され、無償で宿を貸してもらったり、食事や衣服の世話をしてもらったりした。《イ・ツェトの民》はその好意をありがたく受け入れ、その礼としてその地に宿る大いなる力に豊かな加護を祈り、そして去る。それがフィズが知っている≪イ・ツェトの旅路≫だ。けれど、優しくなかった時代もあるのだという。想像もできない、にわかには信じがたいことなのだが、時々旅の途中で出会う人から言われることがあるのだ、「良い時代になったもんだね」と。

 フィズはその時代のことを知らなかった。生まれる前のことだということもあるのだが、一番大きな理由は、父も母も、今一緒に旅をしている父の弟であるナギも、その時代のことを詳しく話さないからだ。

 たぶん、聞けば教えてくれるんだ。フィズはシーツの中で背中を丸めた。

 ちゃんと理解しているのだ。ナギも、今は離れている両親も、フィズを子供扱いしてはいても、この身体の中にある魂のことはちゃんと一人前のいのちとして扱ってくれている、ということは。だから、フィズが心の底から≪イ・ツェトの受難の時代≫を知りたいと願えば、きちんと目を見て話してくれるだろう。いつも笑っている父がほんの少し表情に憂いをちらつかせる原因を、誤魔化しなしで打ち明けてくれるだろう。

 フィズは夜の静寂の中で、むうと唇を尖らせた。となれば、大人たちが語らないのは、フィズがそれを望んでいないからだということになる。知りたいと思う自分と怖いと思う自分がいて、怖いと思う自分のほうが強いのだ。

 ああ、なんて自分は子供なんだろう!

 意味もなく暴れたい気分になって、でもそんなことをしたら自分がどうしようもない子供であると認めることになる気がして、フィズはぐっと全身に力を込めた。

 そうこうしているうちに、元から訪れる気配のなかった睡魔はすっかり他の誰かのところに行ってしまったらしい。

 目が冴えてしまって、何度も寝返りをうって、やがてフィズは眠ることを諦めた。こういう時は気分を変えるしかない。

『……フィズ、どこへ行くの?』

 音をたてないように細心の注意を払ったのに、ベッドを抜け出て床に足をつけた瞬間、セラが密やかな声でフィズを呼び止めた。セラは風の精霊だから、ほんのわずかな空気の動きすら見逃さない。

「ちょっと、外の空気を吸いに。だめ?」

 寝ているナギを起こさぬように声を潜めて答える。ナギのほうを見ると、シーツに包まった長身は微動だにしない。カーテンの隙間から青白い光が差している。随分と月の明るい夜のようだ。

『ひとりで?』

「セージは連れてくよ。あたしとセージだけじゃ、やっぱり心配?」

 フィズは左腕を上げてセージ入りの小瓶がセラに見えるようにした。小瓶の首飾りは夜の間は腕にゆるく巻き付けている。このやり方は、首飾りを肌身離さず持っていたくて、けれどさすがに寝ている間は首にかけることは出来なくて、セージと離れるくらいなら寝ないと駄々をこねた今よりももっと幼いフィズに、母が考えてくれたものだ。

『……行かせてやれ』

 ナギのベットのそばで伏せていたアグニが、静かに顔を上げ、フィズの肩を持った。

 アグニの位置は影になっている。漆黒のアグニはその影に完全に同化して、赤い瞳だけが闇の中に浮かんで見えた。内側に比喩でなく炎が灯る双眸。だから、実はアグニの目の赤は一瞬たりとも同じ色が続くことはない。まるで星が光っているようだ。夜空を流れて落ちてきた、赤い赤い双子星。

『そういうときもあるんだろう。なに、心配いらないさ。不埒な者が現れたら、すぐに私が駆けつけよう』

「うん、たよりにしてるね」

『……まあ、アグニなら安心、かしら。でも、あまり遠くに行かないようにね』

「うん、ありがとう、セラ」

 フィズは控えめににこりと笑って、足音を忍ばせながら部屋を出ていった。

 その背中を見送ったセラは、ちいさく嘆息したあと目を閉じ羽毛の中に嘴を埋めた。『心拍数が上がってるわよ、狸寝入りさん』。

 風の鳥の言葉に、褐色の肩がぎくりと揺れる。



 フィズは大きく深呼吸をした。夜露に濡れる新鮮な空気が胸いっぱいに満ちていく。吐き出す空気と一緒に、ぐちゃぐちゃな気持ちも出ていってくれればいいのに、そう簡単にはいかないようだ。

 空を見上げると白い月が浮かんでいた。満月かと思ったが、よく見ればほんの少し欠けていた。でも、美しい月だ。月明かりは、思った通りとても明るい。

 この森を包む大気は不思議だと思う。多分に水分を含んでいるのに、それを不快に感じることは一度もない。周囲が乾燥地帯であるせいなのかもしれないが、たぶん、それだけではないのだろう。きっと、これもエイリスの加護のひとつなのだ。

「……昼間はごめんね、セージ。八つ当たりしちゃった」

 呟くと、自ら小瓶に入り、今まで出てこなかった水の精霊が、ようやく顔を出した。

『もう、怒ってない?』

「最初っから怒ってないよ。あたしが悪いの。あたしが、まだ子供だから」

『フィズはなんにも悪くないよ』

「あーあ、はやく大人になりたいなあ」

「お母様のような女性に?」

「ひゃっ!?」

 予想だにしなかった第三者の声に、フィズは驚きのあまり大きく肩を跳ねさせた。きょろきょろと首を巡らせて声の主を探す。くすくすと笑う声。『フィズ、あっこだ!』とセージが言った。『屋根の上!』

「や、屋根?」

「こんばんは、フィリージア。良い月夜ですね」

 今しがた出て来た建物の屋根の上をふり仰いだフィズに、リラの音色のような美しい声が降ってきた。フィズはあんぐりと口を開けた。真円に近い白い月の光の中、呼吸を忘れるほどに美しい女性がひとり、屋根の上に腰掛けている。

「あなた誰? ママを知ってるの? それに、あたしの名前も」

 しばし放心していたフィズだったが、ややあって我に返ると、屋根の上の美女に向けて矢継ぎ早に質問を投げかけた。月光よりもなお輝く白金の長い髪。ほっそりとした肢体に纏っているのは身体に巻き付けた布をピンで留めるという時代錯誤な白いドレスだ。

 フィズは、質問に答えずただ穏やかに微笑むばかりの美女の姿をじっと見つめた。解答が得られないことへの不満は不思議と少しも湧いてはこず、むしろ、まるで夢の中から出て来たようなその美しい姿を見ていられるなら、この沈黙こそがその許しであるなら、このままずっとこの静寂が続いてもいいのに、とすら思っている。

 なんでだろう、と頭の隅で考えて、どうしてだろうと心の奥で問いかけて、唐突に、(ああ、そうか。)と理解した。

 フィズは屋根の上の美女が浮かべる慈悲の表情を知っていた。万物を慈しむその慈愛の表情を知っていた。セージと離れたくないと泣いた夜に、首飾りの革紐を腕にゆるく巻き付けてくれた母が浮かべていた表情だ。フィズのすべてを受け入れ、見返りなく愛し、フィズの未来をただ真摯に信じ続ける、この世でたったひとりの。

「……そっか、あたし、焦んなくていいんだ」

 ぽつりと、無意識に言葉が零れた。

『そうだよフィズ! おれさま知ってるよ、フィズはぜったい大丈夫だって!』

「セージ……」

 フィズは視線を屋根の上の美女からセージに移した。空を泳ぐ透き通る若草色の美しい魚。ちょっとだけ口が悪くて、ナギ兄にいつも突っかかって、でも本当はあたしと同じようにナギ兄のことが大好きな——あたしの相棒。

「……うん。うん、そうだね!」

 フィズは真夏に咲く大ぶりの花みたいな笑顔になった。上空で風に流されてきた雲のかたまりがほんの一瞬月を隠す。あたりが暗くなって、そしてまた青白い光が夜に満ちた。

『あれ、あのねーちゃん、いなくなった』

 フィズの周りを嬉しそうに泳ぎ回っていたセージが、ふと、屋根の上を見上げてそう言った。つられてフィズも屋根の上に視線を向け、さっきまでいたはずの綺麗な女の人が手品かなにかのように消え失せているのを確認する。

「ほんとだ。いないね。……あの人、誰だったのかなあ?」



 夜中に部屋を抜け出して、そこで一体何があったのだろうか。夜が明けてみれば、昨日はあれほどクサクサしていたフィズは、すっかりと吹っ切れて生来の快活さと無邪気さを取り戻していた。セージとも仲直りしたようだ。周囲に水の魚を泳がせて、目にする景色のひとつひとつに目を輝かせている。

(セラ、アグニ、何があったか知ってるか?)

 ナギは自らの≪精霊≫たちに、声には出さず、絆の証である≪精霊印≫を通して語りかけた。

 アグニはそばにいるが、セラはナギが今朝方起きだした時分にはすでに大空を舞っていた。セラの青さは空の色に溶けてしまうので、今どこにいるのか肉眼で確認することは出来ない。だが、≪イ・ツェトの民≫の身体に浮かぶしるしは、いわば≪精霊≫たちの核である。それがある限り両者の間で物理的な距離は意味を成さない。セラのしるしが浮かぶ左の頬と、アグニのしるしが浮かぶ右の足首が柔らかく熱を帯びる。そして、音ではない声が返ってくる。

 魂の奥深いところにある回路が繋がったのだ。

【フィズのこと?】

【いいや、セージが浮かれていたのは感じたが】

【そうね、すごい喜びようだったわね。ここはもともと水の氣が強い場所だけど、それが一瞬すごく濃くなった。まるで水中にいるみたいだったわ】

 それはナギも感じていたことだった。川などないのに川のせせらぎが聞こえたのも気のせいではないだろう。セージはフィズが生まれた家のそばを流れている小さな川の水から生まれた≪精霊≫であり、その本質は流れる水だからだ。ナギは少し考え込んだ。そんな彼が喜んだのは、おそらく分身であるフィズに良い変化が訪れたからだ。塞き止められ淀んだ水がふたたび流れて透き通ったのだ。それは分かるのだが、では、その結果をもたらした要因とは?

 ひとつ仮説を立ててみる。ここは世界でも指折りの聖域だ。物質としての形を成しながら、形のない大いなる力そのものに近い波長に満ちている。フィズはとても感受性の強い娘なので、その波長の中にいるうちに生まれた淀みが自然に浄化されたというのは十分に考えられる話だが。

【そんなに気になるならこっそりあとをつければよかったじゃない】

 呆れたようなセラの声に、ナギは我に返って、意識を付き合いの長い鳥の姿をした風の精霊に集中させた。セラとの繋がりがさらに強く濃くなり、鳥だけが上がることを赦される空の高みを吹く風が、ナギの頬を撫でていく。

(俺は兄ちゃんみたく過保護じゃないぞ)

【なにもアレの真似をしろといってるわけじゃないわ】

 ナギはセラにアレ呼ばわりされた兄の端正な顔を思い浮かべた。愛娘のことを大事にしすぎて、結果家出の原因を作った男だ。

【まあ、真似してもあの子あなたのことは邪険にしないでしょうけど】

 セラの言葉に、そりゃあしないだろうなあとナギは思った。≪イ・ツェトの民≫はだいたい十四歳までは親やそれに準ずる役割の大人と共に旅をするのが習わしだ。例外はあるし、自分はその例外だったのだが、フィズはまあ順当に十四歳までは自分がそばにいるか、親元に戻ることになるだろう。そして当の本人が「パパのところには戻らない」と意地を張っているので、ならば選択肢はひとつしかないわけだ。

「ナギにいー!」

 思念の会話をフィズの声が遮った。セージと少し先を行っていたフィズが、金に近い茶色の髪を揺らしながら駆け戻ってくる。目的地であるエイリス神殿はもう目と鼻の先だ。

「どうした、フィズ?」

「あの紋章ってなんで丸いの? エイリスって虹の女神でしょ?」

 フィズの卒直な疑問を聞いて、ナギは笑った。エイリスの存在を知った時、自分も同じように思ったことを思い出したからだ。フィズが指差す先には、確かに七色に染められた円形の紋章を戴くオブジェが陽光を反射して輝いている。

 答えようとした瞬間、空からセラが一直線に舞い降りてきて、アグニの頭の上に着地した。猛禽の鋭い爪に頭頂部を鷲掴みにされて、アグニの黒い尾が不満げにゆっくり左右に揺れる。

『それはね、虹というものが、本当は丸いからなのよ、フィズ。ほとんどの人が見ているのは虹のほんの一部なの』

「へええ!」

 ナギの代わりにセラが答えると、フィズはずっと昔にまん丸になった石を河原で見つけたときのように、その大きな瞳を輝かせた。

「ここがこんなふうになってるのも、だからなんだ!」

 エイリス神殿は虹の女神エイリスを祀る本殿と、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の七つの小神殿を合わせた八つの神殿から成る聖域である。七つの小神殿はそれぞれ≪強さの赤≫≪富の橙≫≪美しさの黄≫≪豊穣の緑≫≪癒しの青≫≪真理の藍≫≪芸術の紫≫を象徴しており、それこそ世に言う≪エイリスの七つの祝福≫だ。そして、エイリス神殿を語る場合必ず話題に上るのが、その七つの小神殿の造りが特徴的であることだった。

 本殿であるエイリス神殿が中央にあり、その周囲を虹の七色を表す小神殿が囲っている。配置がそうなっているのではなく、七つの小神殿が円周の建物であり、それが物理的に本殿を護るように囲っているのである。
「虹って橋みたいな形してるのが普通だと思ってたなあ」

『おれさま虹が丸いって知ってたぜ~』

「ええー?」

 得意げなセージの言葉に、フィズは分かり易く不満げな声を上げた。

「セージずっこいよー。なんで教えてくれなかったのー?」

『おれさまたちにとっては虹は丸いものだからだぜ~』

「ええ~?」

 フィズはさらに不満げになり、ついには拗ねて唇を尖らせた。意味をうまく呑み込めていないようだ。

「フィズは当たり前だって思ってることを、いちいちセージに言うか?」

 ナギはセージの足りなすぎる言葉を理解しあぐねているフィズに、簡単に説明をしてみせた。せっかく仲直りしたのに、また喧嘩をされても困る、と思っての行動だ。アグニの頭の上にいるセラがなにか言いたげに身動ぎした。それでもフィズにはいまいち伝わり切らないらしく、姪っ子は「ふうん……?」と曖昧な返事を返すばかりだ。

 ややあって、「ま、いっか!」とフィズの天気が曇から晴へと切り替わった。

「いつか、ちゃんとわかる日が来るんだよね?」

『そのとーり!』

 三日先まで晴れが約束された空のようなフィズの笑顔の周りを魚が泳ぐ。フィズとセージのやり取りを眺めながら、ナギはちょっと目を瞠った。昨日までのフィズなら絶対に言いそうにないことだったからだ。本当に、夜の内にいったい何があったというのだろうか。いや、年相応の未熟さを前にして、それを苦に感じることもなくひとつひとつの出来事を楽しもうというフィズの姿勢は、その変化は、その生涯もまた森羅万象の一部とする≪イ・ツェトの民≫として心から歓迎すべきものなのだが。

「ここの人たちはすごいねえ、あたしが知らないこと、ずっと昔から知ってたんだねえ」

 虹が架かる空に両手を伸べてフィズが言う。大きな瞳は純粋な好奇心で輝いている。かつて同じ目をしていた青年は、姪っ子のそんな姿にくちびるを綻ばせた。思い出した。かつて自分も同じ焦燥を抱き、そして知ったことを。自分を中心とする世界は微睡みの中にいるのと同義語で、優しく揺り起こされるのを待っている。それには相応しい時期というものがあり、それまではそれがどこで眠っているかということすら自分には分からないのだ。

『乾燥地帯のただ中に忽然と現れる大森林にかつての人々は神の威光を見たのだろうな。森の中に分け入った人々は至る所に輝く虹が架かるのを目にし、やがてそれは≪希望への懸け橋≫と解釈され、≪希望を司る虹の神≫という信仰が生まれた。それがこの場所の起源だ。面白いのは、懸け橋である以上、その時代にはここでも虹は丸いとは認識されていないということだろう』

 アグニの言葉に、フィズは「えっ!?」と驚嘆の声を上げた。

「そうなの!?」

 さらに解説を続けようとしたアグニは、しかし口を閉ざして眉間に深くしわを刻んだ。頭の上にはいまだ瑠璃色の鳥が乗っている。

『それはそうと、セラ、いい加減私の頭から降りてくれないか。重い

『ま! レディに向かって失礼ね!』

 重いと言われてセラは憤慨した。突然少々強めの風が周囲に吹き荒れて、道行く人々が驚いて足を止める。

『重くないわよ。重くないと言いなさいアグニ。ナギもなんとか言ってやって。そもそも風に重さがあると思うの?!』

 セラが文節を区切るたびに風が吹いてフィズの馬の尻尾を跳ね上げる。それに合わせて吹き飛ばされかけるセージがついに音を上げて小瓶の首飾りの中に逃げ込んだ。フィズの両手が小瓶を大事に大事に握り込む。風がひとまず収まると、アグニが静かな声でこう告げた。

『火種のそばに風の塊があって、それがなにを招くと思う? さらに付け加えるなら、今の君が纏う風にはこれほどの大森林を維持する水氣に満ちている。それも忘れないで貰おうか』

 セラは沈黙を返し、フィズは小さく声を上げ、ナギは黙って腕を伸ばした。セラは沈黙を守ったまま翼を広げ、アグニの頭の上からナギに腕に移り、何食わぬ顔で定位置である肩の上に移動する。

『消えちゃうのは困るわね』

「そんな他人事みたいに」

『次はちゃんと場所を考えてやるわ』

「安定悪そうだけどそこ気に入ったのかセラ……」

『そうしてくれ。出来れば火の氣が強いところがいい』

 フィズのツッコミもナギの呆れもセラにとってはどこ吹く風だ。というか、彼女自身が風なのでその態度はある意味正解なのかもしれない。アグニもそれで良いらしい。風と火なのでもともと相性は良いのだが。

「ええと、なに話してたんだっけ……ああ、そうだ、虹の話。それじゃあ、いつから虹は丸いものだってみんなが知ったの?」

 フィズは気を取り直し、脱線した話を元に戻した。何事もなかったかのようにアグニがいつもの調子で答える。

『それは、その認識を大きく変える出来事がここであったからだな。人の世に不変のものなどなにもないという証左だろう。その出来事がきっかけで虹は丸いという事実がこの地に広まり、その集合意識は≪虹の神≫を≪虹の女神エイリス≫に変えた』

「え!?  最初はエイリスじゃなかったの?」

 思わず再びの驚きの声を上げたフィズを見てセラが口を開いた。

『そうよ。だって信仰から生まれる≪神霊≫は本来明確な形を持たないものだもの』

「えっ」

『グレンから聞いてない?』

 フィズは腕を組んで首を捻った。フィズの父でありナギの兄であるあの男は誰より≪イ・ツェトの民≫らしくあれと自らに課している。そんな男が≪精霊≫と≪神霊≫の違いを娘に伝えていないとは思えない。たぶん、聞いてなかったんだな、とナギは予想した。すると、案の定な回答があっけらかんと姪から返ってくる。

「うーん、言ってた気がする。でも、ぜんぜん聞いてなかった!」

 素直でよろしい。天真爛漫を絵に描いたような少女。フィズはからからと笑っている。

『あたしたち≪精霊≫を生むのはあなたたちの心。ナギがあたしを見つけてくれたからあたしはあたしになれたの。セージだってそうね。フィズが見つけたからセージはセージになった』

「その時のこと、あんまり覚えてないんだけど、川に向かってセージって呼んだのは覚えてるなあ」

『おれさまは覚えてるよ! フィズがセージって呼んでくれて、そんでおれさまこうなった!』

「そういうのが出来るのが≪イ・ツェトの民≫なんだよね?」

『そうね、生まれも人種も関係ない、≪イ・ツェトの心臓≫と呼ばれる感覚器官を有する流浪の民、≪イ・ツェト・エ・ルガ≫。けれど、心を形に出来るのはあなたたちだけが出来ることではないの。本当は特別なことでも何でもないから。想いが投影されれば形は生まれる。やり方を知っているあなたたちがやればあたしたち≪精霊≫が生まれるし、そうでないなら≪神霊≫が生まれるの。多数の人々がひとつのものに向ける信仰が、大いなる力に≪神≫としての形を与え、具現化させる』

「人が神様を生むの?」

『少し違うわ。≪神≫と呼ばれるに相応しい存在に形が与えられるだけ。それらは最初からそこにあるのよ』

「ううん……」

 フィズはしばし考え込んで、それから「あっ」と声を上げた。

「わかった! セージはあたしがこういうふうに想ったからこういう形になったけど、≪神霊≫はいろんな人の想いが混ざってるからひとつの形に固まらないんだ!」

【……不思議なものだな】

 セラとフィズの会話を黙って聞いていると、心の回路を介してアグニが語りかけてきた。遠い場所を懐かしむ声。記憶の底に呼び起された郷愁を誘う風景が、ぼんやり滲んで消えていく。

【聡明な子だ。こういうところは、アステリアによく似ている。血の繋がりはないのだろう?】

(うん)

 ナギの亡き実母アステリアは、フィズにとっては祖母に当たる存在だ。しかし、ナギとフィズの父であるグレンとの間に血の繋がりはなく、当然フィズの中にもアステリアの血は流れていない。容姿は両親の美点を見事なバランスで受け継いでいると思う。それでも、フィズの為人が誰に似ているかといったら、確かに亡き母なのだ。

(水晶経由かもな)

【なるほど。あの白蛇か】

「え、じゃあ、形のない≪虹の神霊≫が≪虹の女神エイリス≫になったって、どういうこと?」

『ふふ、それは、エイリス神殿に行ってからのお楽しみね。運が良ければ本人に逢えるわ』

「ほんにん?」

 ナギとフィズと彼らの≪精霊≫たちは、エイリス神殿に仕える者たちや信奉者たちに快く出迎えられながら、≪宮≫と呼ばれる七つの小神殿を抜けて中心にある本殿へと向かった。思ったより時間がかかったのは、少女の周りを泳ぐ水の魚に祈りを捧げたいという者がちらほらと声をかけて来たからだ。

 虹の女神を主神とするこの地では、現象としての虹を生む光と水は特に神聖なものとして扱われる。祈られるセージもその相棒であるフィズも、なんだかこそばゆそうにしていたのが微笑ましかった。

 そして一行は本殿の中に入った。天井の高い円柱状の建物だ。けして華美に飾られているわけではない、むしろ質素とさえいえる内装。ナギは静かに深呼吸した。やはり、ここの空気はこの神聖な場所の中でも飛び抜けて強い神氣に満ちている。森羅万象の中心に近い場所。物理的な距離も時間も関係ない。目を閉じれば世界の始まりの光景さえ見えてしまいそうだ。

 何気なく隣りを見ると、フィズが目を見開き、口をあんぐり開けて固まっていた。視線はまっすぐひとつの場所に注がれている。

 その先には一枚の絵がある。本殿の入り口に立っている一行の位置からでも、その絵の細部に注目できるほどカンバスが大きい。ナギがこの絵を見るのはこれで二度目だったが、フィズは初めてだ。

 描かれているのは一人の女性だった。淡く七色に輝く長い髪。聖母の如き慈悲深い微笑。白いドレスの裾から覗く、苔むした大岩の上に今まさに降り立とうとしている素の爪先。

 伏せがちの視線は水を受けるような仕草をした両手のひらに注がれており、そこに虹が浮かんでいる。真円を描く丸い虹だ。白い手を伝う水滴が乾いた大地に滴って、そこから命の芽吹きが広がっていく。

「……≪円環の虹≫って呼ばれてる絵だよ。ずっと昔、この地を訪れた一人の画家が、七日七晩部屋に籠って描き上げた絵なんだそうだ。この女性が誰なのかってことはいまだに分かってない。モデルがいるのかもしれないし、画家の幻想なのかもしれない。でも、この絵は描かれ、ここに残された。そしてひとつの奇跡を起こした」

『この絵が最初に飾られた日、夜を裂く最初の光が東の空に伸びたとき、人々の前に丸い虹が現れたのよね。たぶん、あたしたちが見ているのと同じ世界がそこに現れたんでしょう。それを見て、人々はこの絵に描かれた虹こそが真実の姿なのだと悟った』

「そう、そしてこうも思ったんだ。「なんと、虹の神とはこうも美しい女神であらせられたのか」って」

 人々の集合意識を核として生まれる≪神霊≫に本来明確な形はない。だが、その焦点となる部分に共通の強いイメージが現れればどうなるか。それを通して具現化されるものにどういう影響を及ぼすか。

 ——文字通り≪神≫を生んだ、人間という種の可能性だ。

『……あーやっぱそうだ。なーフィズ、このねーちゃん、昨日のねーちゃんだよなー?』

「だ、だよね? やっぱそうだよね? 髪の色違うけど、昨日屋根の上にいた人だよね?」

『えっ?』

「えっ?」

『ほう』

 寝耳に水とはこのことか。セージとフィズの会話に、ナギとセラは目を丸くし、アグニは興味深げな声を出した。『どういうこと?』とセラが問う。

「昨日の夜ね、あたしセージと一緒に外に出たでしょ? そのとき屋根の上にいたの。月見してるみたいだったけど……え、あの人エイリスだったの?

『見間違い、というわけではなさそうね』

「夢を見てたのかなあ? いきなり現れていきなり消えたって感じなんだけど」

 ナギは言葉を失った。絵を介する信仰により明確な人の形を得たエイリスと邂逅したという話は聞かぬ話ではない。だが、そのどれもが昼間の話だったはずだ。夜間にエイリスに逢ったという話は聞いたことがない。

『なるほど。この地に満ちるはエイリスの神氣、エイリスの体内にいるようなものだからな。顕現の気配を感じ取れぬのも道理か』

 アグニが感慨深げに呟いた。

「ようこそ、祈りの民よ。不躾で申し訳ありませんが、そのお話、詳しく聞かせていただいても?」

 この聖域で最上位の地位を示す白い法衣を纏った神官が一人、興奮隠しきれぬ様子で歩み寄って来て、一同に恭しく一礼すると、そう持ちかけてきた。彼らにとっても、夜間にエイリスが顕れたという事実は興味を惹く出来事であるのだろう。

「フィズ、どうする?」

 話をするのはフィズなので、その意思を尊重すべく姪に問う。フィズは「話せることあんまりないけど、それでもいいなら」と答えた。

「もちろん、それで構いません。ああ、女神エイリスよ、この導きに感謝いたします」

 フィズはひとつ頷くと、昨晩あったのだという出来事を話し始めた。眠れないので外に出て、セージと話していたら、突然知らない女性に声をかけられたのだという話を。

「あたしの名前知ってたし、ママのことも知ってるみたいだった。すっごい綺麗な人だったよ。特に話とかはしてないんだ。ただ笑ってあたしのこと見てただけ」

 フィズの短い話を聞き終えて、白い法衣の神官はほう…と感嘆の息を吐いた。目が潤んでいるのも気のせいではないだろう。

「間違いありません。それはエイリス様に相違ない。≪虹の女神≫たるエイリス様は≪旅人の守護者≫でもあらせられるのです。旅人であるお嬢さんの迷いに応えてくださったのでしょう。素晴らしい、なんと素晴らしい、あなたは最高の祝福をお受けになったのだ」

「そうなの?」

「虹は夜にも現れます。けれどそれを目に出来る者は本当に少ないのです。エイリス様に仕える我々でさえ、夜空に浮かぶ虹を見た者は大神官様以外にはおられません。まして、月明かりの下で顕現なされたエイリス様にお逢いした者など過去に遡っても片手の指に余りましょう。ああ、そのような方と生きているうちにお逢いできるとは! 感謝いたします我らが主エイリスよ!」

 神官は≪円環の虹≫と名付けられた絵に向かって深く頭を垂れた。その感激ぶりにフィズは呆気に取られている。

 祈りを捧げ終えた神官は、フィズに向き直って少々取り乱したことを謝罪した。フィズは首を振る。

「お嬢さん、おそらくあなたはこの先も多くの奇跡を目の当たりにするのでしょう。わたしはそれが少し羨ましい」

 その言葉に、フィズは一瞬驚いたような顔をした。それから、なにか考え込むようなそぶりを見せる。やがてフィズは顔を上げ、ひとつひとつ言葉を探しながら、自分の心に従って言葉を紡ぎだした。

「……あのね、うまく言えないんだけど。あたしは確かにエイリスに逢ったのかもしれないけど、それって、あなたたちがずっと受け継いできた祈りがあったからだと思うの」

「と、いうと?」

「エイリスね、とっても幸せそうに見えたよ。幸せだから、その、≪旅人の守護者≫ってことも出来るんだと思う。それってね、エイリスがちゃんと知ってるからだと思うんだ。あなたたちエイリス神殿にいる人が、心の底から自分を大事にしてくれてるってこと」

 神官はわずかに目を見開いた。フィズはただ自分が感じた通りのことを語っている。それがこの世の真理であると自覚もないまま。

「——どうか、その豊かな心を育み続けてください、祈りの民の祝福の子よ」

 ナギが見守る先で、神官は神に捧げる最上級の祈りをフィズに向けた。天窓から射しこむ光が頭上に注ぐ。その光の中を水の魚が泳いでいる。自由に、気ままに、気持ちよさそうに。

「あ、虹」

 誰かがセージを指差してそう言った。やがて海へと注ぐ流れから生まれた魚の長く美しい尾に、きらきらと、架かる虹が円環を描く。


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