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「退屈」から考えるホームスクールと発達障がい。「退屈」は避けられるのか?

 子どもに「退屈」「暇」と言われて、不安になったことはないだろうか?

私はある。

東畑開人さんの『居るのはつらいよ:ケアとセラピーについての覚書』(以下、「居るつら」)を読むまでは、自分にも子どもに対してもなるべく「暇」にならないよう、「退屈」を感じないように気を配っていたように思う。

家以外の場所にでかけて「なにか」をすることで、不安を打ち消していた。

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「不登校の我が子が、『遊び相手がいなくて退屈』と言う時間が増えて困っている。」

「学校に行っていない子たちは、毎日どんな風に過ごしているの?」

こんな保護者の声を聞いた時、「暇って悪いこと?」「退屈はダメなんだっけ?」と疑問に思った。

「居るつら」では確か、「ただ、いる、だけ」が「ケア」として成り立つと書かれていたような記憶があったからだ。

そんな折、まさにこの疑問に答えてくれそうな本に出合った。『暇と退屈の倫理学 増補新版』國分功一郎著

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厚みに圧倒されたが、前述の疑問に対して、自分なりの回答を本書から得てみようと思う。


暇と退屈の違いは?

暇と退屈。だいたい同じ意味で使っていたが、どうやら違うらしい。

暇(ひま、いとま)は、余った時間。 することがない状態。(Wikipediaより)
退屈(たいくつ)は、なすべきことがなくて時間をもてあましその状況に嫌気がさしている様、もしくは実行中の事柄について関心を失い飽きている様、及びその感情である。(Wikipediaより)

本書によると、

”暇は客観的な条件に関わっている。”(P105)
”退屈は主観的な状態のことだ。”(P105)

では、

”退屈していとき、その人は必ず暇のなかにいるのだろうか?それとも退屈しているからといって、必ずしも暇のなかにいるわけではないのだろうか?”(P105)

この問いを、歴史を元に分類するとこうなる(表1)。

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さらに、「退屈」の分類で分け直す(表2)。

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これらの表を見返しながら、「退屈とはなにか?」を学んでいく。


そもそも「退屈」とは何か?退屈の分類

ハイデッガーによると、「退屈」は3つに分けられる。

①何かによって退屈させられること(【退屈の第一形式】・受動形)。例えば、4時間後にくる電車を待っているときの退屈。

②何かに際して退屈すること(【退屈の第二形式】)。例えば、パーティーで感じる退屈。

③なんとなく退屈だ(【退屈の第3形式】)。もはや気晴らしも許されないほどの、最も深い退屈

これらの「退屈」を構成する要素は2つ。〈引き止め〉と〈空虚放置〉。


退屈の構成要素は〈引き止め〉と〈空虚放置〉

〈引き止め〉〈空虚放置〉とは?

①【退屈の第一形式】を例にすると、4時間電車を待つ時、私たちは時計を気にするはず。それは、時間がより早く過ぎ去るようにしたいから。時間がのろく、ぐずついているから。

私たちは退屈しながら、ぐずつく時間によって〈引き止め〉られているのである。(P220)

ぐずつく時間に〈引き止め〉られると、何もない、むなしい状態(〈空虚放置〉)に放って置かれることになる。人間はそのような状態に耐えられないので、

「退屈とともに台頭してくる〈空虚放置〉へと落ち込まないために」私たちは何かやるべき仕事をもとめる。(P222)

この”仕事”が「気晴らし」にあたる。例えば、電車が来るまで足元のタイルの数を数えたり、時計を何度も見返したりすること。

気晴らし」は、ぐずつく時間に〈引き止め〉られ、〈空虚放置〉に晒されたときの、本能的な回避行動と言えそうだ。


子どもが家で感じている「退屈」は、【退屈の第二形式】に分類される。

では、【退屈の第二形式】における〈引き止め〉〈空虚放置〉は、どう捉えられるのか?

外界が空虚であるのではなくて、自分が空虚になるのだ。周囲に調子を合わせる付和雷同の態度で投げやりになり、自分をその雰囲気に任せっぱなしにする。そういう意味で自分自身が空虚になるのである。ここには第一形式とはまったく異なる〈空虚放置〉が見出される。(P235)


好きなことをさせつつもじっと眺めている親からは、子どもは強い圧力を感じるだろう。たしかに自分は放任されている。しかし、自分はけっして放免されることがない。そういう感覚を強くしていくだろう。しかも控えめに引き下がっているが故に、その親にはなかなか面と向かって文句が言えないのだ。退屈の第二形式における時間への〈引き止め〉とは、このようにして子どもに無言の圧力を与える親のようなものである。(P237)
それは、「お前は私に根源的にくくりつけられているのだ」と無言で呼びかけてくるのである。(P237)

耳が痛い。胸も痛む。けれど、

退屈の第二形式こそは、私たちが普段もっともよく経験する退屈ではないかと思えてくるのである。(P240)

Twitterも、メールも、「高尚」と思われるような古典文学を読むのも、名画を鑑賞するのも、クラシックを聴くのも、気晴らしではないか?と著者は問う。

私たちの生活がすべて気晴らしであるわけではないだろう。しかし、私たちの生活は気晴らしに満ちている。(P241)
受験勉強も気晴らしかもしれない。(P241)
暇つぶしと退屈の絡み合った何かー生きることとはほとんど、それに際すること、それに臨み続けることではないだろうか?(P241)

「不登校の我が子が、『遊び相手がいなくて退屈』と言う時間が増えて困っている。」

この困り感は、【退屈の第二形式】が原因といえそうだ。


なぜ退屈してしまうのか?

では、なぜ家にいる子どもは退屈してしまうのか?
そのキーポイントは、【退屈の第三形式】にある。

【退屈の第一形式】と【退屈の第二形式】は、より深い退屈な状態【退屈の第三形式】から立ち上がると著者は書く。


退屈三形式の絡まり方

【退屈の第一形式】では、ぐずつく時間に〈引き止め〉られ、「なんとなく退屈だ」の声が鳴り響く〈空虚放置〉から逃れるために気晴らしをしていた。

そもそも、時間がぐずつくのはなぜか?時間がもったいないから。電車を待つ時間に、他の仕事をしたいから。

日々の仕事の奴隷になっているからこそ、私たちは第一形式の退屈を感じるのである。(P250)

【退屈の第二形式】のパーティーは、

人間はこの声から逃れようと日常的に気晴らしを行っている。そしてその気晴らしのなかで退屈がぼんやりと現れ、両者が絡み合う。これが退屈の第二形式だ。(P312)
「なんとなく退屈だ」の声から逃れるにあたり、日々の仕事の奴隷になることを選択すれば、第一形式の退屈が現れる。退屈と混じり合うような気晴らしを選択すれば、第二形式の退屈が現れる。(P313)

では、【退屈の第三形式】は?

「なんとなく退屈だ」においては、周囲の状況も、私たち自身も、すべてがどうでもよくなっている。「なんとなく退屈だ」の声を聞いた瞬間、人は全面的な空虚のなかに置かれる。(P247)
外からは何も与えてもらえない。あらゆる可能性が拒絶されている。するとどうなるか?現存在は自分に目を向ける。いや、目を向けることを強制される。(P248)
簡単に言えば、自分に目を向けることで、自分がもっている可能性に気がつくということである。可能性の先端部にくくりつけられ、引き止められ、そこに目を向けることを余儀なくされること。これが第三形式における〈引き止め〉である。(P248)

ここでいう「自分が持っている可能性」を、ハイデッガーは「自由」と答える。

著者もここまでは同意だが、別の結論を導き出す。

”人間は環世界を相当な自由度を持って移動できるから退屈するのである。”(P252)

「環世界」とは?


環世界とは?

”人間の頭の中で、抽象的に作り上げられた、客観的な「世界」なるものではなく、それぞれの生物が、一個の主体として経験している、具体的な世界のことだ。”

本書では、ひなたぼっこするトカゲは太陽を太陽と認識しているのか?ダニはどうやって哺乳類の血にたどり着くのか?を例に挙げて解説される。

簡単に言うと、虫や動物をはじめ、人間一人一人はそれぞれ固有の時間を生きている。それを環世界と言う。

”森で森林浴をしようとする散歩者、狩りをする猟師、森林の状態を検査する森林検査官、植物を採集する植物学者。彼らは一つの同じ森を同じように経験するだろうか?”(P271)

盲導犬は訓練され、盲人に適切なようにふるまえるようになる。これは、環世界移動能力のなせる技。

そして人間は、環世界移動能力が相当発達している。

鉱物学の勉強をすれば、単なる石ころ一つ一つが目につくようになる。(P295)

電車を4時間待っている間、①気晴らしに地面に絵を描く、②タバコを吸う。この動作だけでも、2つの環世界に移動してしまうのだ。

一つの環世界に浸っていられないのが、人間ということらしい。

ハイデッガーは、環世界に生きることを〈とりさらわれている〉と表現する。動物は、本能的に生きることー餌をとり繁殖し、多様な遺伝子を繋げて種を保存するーに〈とりさらわれている〉

衝動によって〈とりさらわれ〉て、一つの環世界にひたっていることが得意なのが動物であるのなら、この状態を〈動物になること〉と称することができよう。人間は〈動物になること〉がある。(P346)

退屈している=一つの環世界に浸っていられず、すぐに移動してしまう=〈とりさらわれ〉ていない=人間。

退屈していない=一つの環世界に〈とりさらわれ〉ている=動物になる。

なんだか不思議な気持ちになる。

日々の仕事に縛りつけられず、退屈と気晴らしが絡み合う生を生きるには、どうしたらいいのか?


習慣化し、考えるのをやめるのが人間

環世界を、簡単に移動できてしまうのが退屈の本質なのは分かった。

どうして人間は、他の動物と比較して簡単に環世界を移動できてしまうのか?人間は「習慣」を獲得できてしまうからのようだ。

はじめて保育園や幼稚園、あるいは学校といった集団生活のなかに投げ込まれた子どもは強烈な拒否反応を示す。それは、それまでに彼ないし彼女が作り上げてきた環世界が崩壊し、新しい環世界へと移行しなければならないからである。これは極めて困難な課題である。だからしばしば失敗も起こる。(P336)
人間は、考えないですむような習慣を創造し、環世界を獲得する。人間が生きていくなかでものを考えなくなっていくのは必然である。(P339)

退屈さもそれなりにはあるが、楽しさもそれなりにある。そんな人間らしい生が崩れるとき、つまり退屈から開放されるのは、人が思考し始めるときと著者は書く。

人はその対象によって〈とりさらわれ〉、その対象について思考することしかできなくなる。(P346)


思考と、消費と浪費

では、思考するにはどうしたらいいのか?意外にも、「消費」と「浪費」が関わってくる。

浪費は物を過剰に受け取ることだが、物の受け取りには限界があるから、それはどこかでストップする。そこに現れる状態が満足である。それに対して、消費は物ではなくて観念を対象としているから、いつまでも終わらない。終わらないし満足も得られないから、満足を求めてさらに消費が継続され、次第に過激化する。満足したいのに、満足をもとめて消費すればするほど、満足が遠のく。そこに退屈が現れる。これこそが現代の消費社会によって引き起こされる退屈の姿(中略)。(P355)

この状態を脱する方法は、

物を受け取れるようになるしかない。(P356)
〈物を受け取ること〉とは、そのものを楽しむことである。(P356)
ラッセルはこんなことを言っている。「教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた」。ラッセルがこう述べることの前提にあるのは、楽しむためには準備が不可欠だということ、楽しめるようになるには訓練が必要だということである(P356)


退屈とホームスクールの倫理学

【退屈の第二形式】で、ハイデッガーがパーティーを楽しめなかったのは、物を楽しむことができなかったからに他ならないと、著者は言う。

現代社会の退屈に飲み込まれずに生きるには、教育によって楽しむ能力を訓練(=思考)する。消費ではなく適切な浪費をし、物を受け取れるようにする。「贅沢を取り戻す」。〈人間であること〉を楽しむ。

人は楽しみ、楽しむことを学びながら、ものを考えることができるようになっていくのだ。(P365)
楽しむことの訓練は日常生活のなかで果たしうる。(P367)
自分にとって何がとりさらわれの対象であるのかはすぐには分からない。そして思考したくないのが人間である以上、そうした対象を本人が斥けていることも十分に考えられる。(P367)
しかし、世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。(P367)
〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物であること〉を待ち構えることができるようになる。(P367)

これが、本書が導き出した結論の一部。ぜひ、本書を通読してみてほしい。もっと深く「分かる」ことができるはずだ。

子どもが(自分も)退屈するのは至極当然のこと。退屈する哲学的なメカニズムを頭に置きながら、過去の自分にこう言いたい。

「何かを生み出す生産者になろうと焦らず、『物を受け取れる』浪費者になろう。運命的な退屈を楽しみ、思考する機会を待とう。

退屈を楽しむには訓練が必要。楽しむ訓練を教育というなら、それは学校だけではなく、家でもどこでも果たし得る。

思考する『機会』は、日常に溢れている。でも、思考できる『対象』はすぐには分からない。諦めないで、子どもと一緒の目線で日常を楽しもう。」



おまけ 「退屈と発達障がいの倫理学」

本書の新刊付録に「傷と運命」という項目がある。この項から、発達障がいと関連しそうなキーワードが見えてきたので、まとめてみようと思う。

ここでは、新しい概念「サリエンシー」を元に退屈を解剖していく。

サリエンシー(saliency)とは、

精神生活にとっての新しく強い刺激、すなわち、興奮状態をもたらす、未だ慣れていない刺激のこと(P415)
生きるとは、絶えず習慣を更新しながら、サリエンシーに慣れ続ける過程であろう。(P416)

あらゆることを習慣化することで、私たちは環世界を飛び回る。

環世界を移動する(退屈する)とは、サリエンシーに慣れ続けるということ。

サリエンシーに慣れるとは、「反復構造」を発見し、「予測モデル」を形成すること、と著者は言う。

予測モデルが立てられる現象のなかで、最も再現性の高い現象として経験され続けている何かが、自己の身体として立ち現れる。(P418)
まず自己があって、それが環境やモノや他者というサリエンシーを経験するのではない。自己そのものがサリエンシーへの慣れの過程の中で現れる。
〈他〉への慣れが行われる過程において〈自〉が出来上がることを意味する。サリエンシーという〈他〉に対する慣れの過程が〈自〉を生み出す。
サリエンシーに慣れる過程の蓄積こそが個人の性格を作り出す。(P429)

小児科医の熊谷晋一郎先生の「疼痛研究」の論考を参照しながら、議論は深まる。

痛みは記憶される

サリエンシーにはそれぞれ強度があり、十分に慣れなれなかったものは、痛む記憶として心身に沈殿する。

痛む記憶がサリエンシーとして内側から人を苦しめることになる。これが退屈の正体ではないだろうか。(P428)
常にサリエントな状況に置かれ、落ち着いた時間をほとんど過ごさずに生きていくことを余儀なくされた人は、自らが直面した諸々のサリエンシーに慣れることが困難であっただろうから、何もすることがなくなるとすぐに苦しくなってしまう。(P429)
逆に、サリエンシーに慣れるだけの時間と余裕を持って生きていくことができた人は、何もすることがない時間を、休暇として比較的長く、快適に過ごすことができるだろう。(P429)

これは発達障がい、特にASD(自閉スペクトラム症)の人が社会で感じる困難さや、彼ら特有の「こだわり」とつながる。

いわゆる定型発達の人とは違う“文化”を生きる彼らは、慣れられないサリエンシーにさらされ続ける。
それはとても苦しい。サリエンシーに慣れ続けることが個人を作るのなら、彼らは自分を理解できないのではないか。

少しでも慣れたものに囲まれることで自己を確立するため、彼らには「こだわり」が必要になるのだろう。

そして、彼らが「退屈」を感じやすく、余暇活動支援が必要なのも納得がいく。

ASDであるか否かに関わらず同じ人間なので、「退屈」に対する根本的な考え方や対応は同じなはず。

ただ、「退屈」を感じやすいのは確かなようだ。

退屈とは、「悲しい」とか「嬉しい」などと同様の一定の感情ではなくて、何らかの不快から逃げたいのに逃げられない、そのような心的状況を指していると考えられることになる。(P429)

不快から逃げたいのに逃げられない心的状況に置かれやすいのが、発達障がいの人たちの生きづらさなのかもしれない。


「不登校の我が子が、『遊び相手がいなくて退屈』と言う時間が増えて困っている。」に対しての自分なりの答え

「退屈」はいい悪いではなく、痛みから逃げられない心の状態というのが分かった

まず、そのお子さんが退屈三形式のどこにいるのかを観察することから始めたい。

もし、退屈と混じり合う気晴らしができている、【退屈の第二形式】を生きている場合の回答は、「人間は、誰もが暇と退屈と気晴らしの混じりあう世界を生きているから安心していい。その上で、『物を受け取れる』浪費者になろう。運命的な退屈を楽しみ、思考する機会を待とう。

退屈を楽しむには訓練が必要。楽しむ訓練を教育というなら、それは学校でなくても、家でもどこでも果たし得る。

思考する『機会』は、日常に溢れている。でも、思考できる『対象』はすぐには分からない。諦めないで、子どもと一緒の目線で日常を楽しもう。

が私なりの答えだ。

もし【退屈の第一形式】【退屈の第三形式】だったら。つまり、依存傾向が強いと感じられた場合は。

巻末の注を引用し終わりたい。

薬物依存やアルコール依存に苦しむ人の多くが、幼いときに虐待を受けているという事実がある。そのような家庭環境にいる場合、子どもは常に緊急事態を生きている。子どもは想像を絶するサリエンシーに晒されながら、やがて、落ち着いた時間そのものに耐えられなくたってしまう。痛む記憶場ばかりが頭を占めていて、それがすぐに現れ出るからである。次の著作を参考されたい。(P437)
上岡陽江+大嶋栄子『その後の不自由ー「嵐」のあとを生きる人たち』医学書院、2010年。著者の上岡はある研究会で筆者に、『暇と退屈の倫理学』で描かれた、ハイデッガーの「退屈の第二形式」を生きられるようになることが、依存症からの回復なのだと語った。(P437)
依存症の患者は、本書の言う「退屈の第一形式と第三形式のサーキット」を生きている。だから少しずつ、「何となく暇で、何となく寂しいけど、こんなもんかな...」と思えるようになることこそ、そこからの回復である、と。「退屈の第二形式」と依存症からの回復との関係については、更なり研究が期待される。(P437)

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