少なくとも

『短編小説』第5回 少なくとも俺はそのとき /全17回

「普通さ、辞めねーよな。あんなにでかい会社。しかもそれで、風俗で働くなんてよ」
まあ彼の言うことはよく分かる。どちらが上とか下とかそういう問題じゃないけど、確かに俺の選択は一般的でないのだろうということくらいの察しは付いた。
「そんでしかも、こっちからいくら連絡したって出てくれないし。……何があったんだよ、お前」
はぁー……。一体俺には何があったのか、そんなの俺にだって分からない。それがもし分かったら、もう少し軌道修正だって出来たのかもしれない。ただどう生きていようがたかが人生。どんな人生を歩もうが決まりきった正解なんてないはずだ。大手の広告代理店に勤めることが正解だなんて限らない。深夜に働くことが不正解なはずもない。俺はただ、その場の雰囲気、……というか自分の気持ちに人より少しだけ素直になっただけだと思う。ただその流れに逆らわなかっただけで、そうしたらこうなっていたというだけのことだ。生身の女に興奮しなくなってしまったのだって、……まあ言うなれば流れに乗ってなるべくしてなったということに他ならない。俺に理由なんて分からない。
「ところでお前はどうなんだよ?」
俺はようやく彼に質問する。いつまでも俺が聞かれっぱなしでは、割に合わないだろ。
「俺は別に。変わらないよ。今まで通り。少し出世して、少し給料が上がった。その分仕事が忙しくなって、帰る時間が遅くなった。俺よりも成績優秀な若いやつが何人かいて、そいつらは俺より稼いでるし、社内でも評価されてる。そんな感じ。至って普通。落ちぶれてもいないし、調子乗る程上手くいってもいない」
彼はそう端的に近況を述べた。今まで三十年と生きてきているはずなのに、その短い文章で彼の人となりのほとんどが分かってしまったような気になる。人生って時間で見ると長いけど、実際に言語化してしまえばそれくらい単調で単純で簡素なものなのかもしれない。
「彼女はいるのか?」
「ん?まあ……」
その曖昧な態度が少し気になったが、あまり深く掘り下げようとはしなかった。
「お前はいないのか?いい人」
「まあ、いないよな別に」
「でも確か、まだ会社にいた時付き合ってる人いたよな?」
「……ああ、昔な」
「別れたのか?」
「もうずっと前に」
真幸の顔が頭の中に蘇る。ああそういえば、彼女と別れたのは、俺がちょうど会社を辞める少し前だった。突然別れを切り出され、その理由も分からないままに彼女は俺を置いて家を出て行ってしまった。

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