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朝の挨拶201105 読むRadio


Good morning, everyone. おはようございます。

11月5日木曜日。
本日は、雑誌広告の日。

雑誌広告の日(11月5日 記念日)
1970年(昭和45年)に日本雑誌広告協会が制定。
「読書週間」「教育文化週間」のある時期ということで、この日を記念日とした。悪質広告を排除して消費者を守り、雑誌広告の信頼を高めることを目的としている。

少女漫画を読んでると、広告に使われる4分の1の柱がなくなっていました。雑誌も変化してますね。


朝ルーティンの時間

天気は晴れ。6時の気温は20℃。湿度44。
外気温7℃。夜は冷え込みますが、日のある時間はまだ2ケタ気温です。

昨日から大統領選でもちきり。

オシリス・レックスがベンヌに到着する動画です。

フカヒレ取引が世界規模で行われており、絶滅の恐れがある種もいます。
世界各地で、漁業管理の強化が必要だという。


11月6日は本田美奈子.の旅立たれた日。

急性骨髄性白血病により38歳の若さでこの世を去った本田美奈子.。1980年代はアイドル歌手やロックバンド、1990年代以降は主にミュージカル女優として活動。2000年代に入るとクラシックとのクロスオーバーに挑戦し、声楽家としても活躍した。
姓名判断により、2004年11月から名前の後に「.」をつけ改名した。


本田美奈子.

本田 美奈子.は、東京都板橋区生まれのアーティスト。
母親の影響で、彼女も歌うのが好き。小学校の卒業文集にも「女優か歌手になれたらイイ」と書いていた。中学3年の時に『スター誕生!』のオーディションを受けた。決戦大会に進んだが、プロダクションは1社も獲得しようとせず落選となった。
1983年、原宿でスカウトされ芸能界に入った。ボンド企画の社長・高杉敬二とは父娘のような関係で、会社倒産後も二人三脚で歩み続けることとなる。中原めいこのヒット曲「君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。」をデモで聞き、才能がある歌いっぷりから、この子はソロで売り出そうと決めたそうだ。
1984年、第8回長崎歌謡祭に本名で出場し、グランプリを受賞。レコードデビューのきっかけとなった。
1985年、アイドル歌手としてデビュー。1988年には女性だけのメンバーによるロックバンド“MINAKO with WILD CATS”を結成。
1990年、ミュージカル『ミス・サイゴン』のオーディションを受け、約1万5000人の中からヒロインのキム役に選ばれた。1992年の日本初演とロングラン。歌唱力、演技力が高く評価された。1992年度第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞。その後も『レ・ミゼラブル』などミュージカル作品に出演している。
2000年前後にはチャリティーコンサートなどでオペラやクラシックを歌い、クラシックに強く惹かれるようになった。
2003年、初のクラシックアルバム『AVE MARIA』をリリース。ソプラノ的な歌唱法でクラシックの曲に日本語詞をつけて歌う「クラシカル・クロスオーバー」というスタイルで新境地を切り開いた。
2004年、武道館での『Act Against AIDS』に出演、38度を超える発熱をおして歌った。この頃からすでに病気の兆候があらわれていた。
2005年、急性骨髄性白血病と診断を受けて緊急入院。急性骨髄性白血病の中でも極めてまれな予後不良の治療抵抗性の白血病であったという。入退院を繰り返す間に、白血病患者支援のためのNPO法人『Live for Life』が設立された。11月6日午前4時38分、病院で家族に見守られながら38歳の若さでこの世を去った。


「殺意のバカンス」

デビュー前の公開キャンペーン

作詞:売野雅勇、作曲:筒美京平、編曲:中村哲

1985年に発表された1stシングル。
「東芝ジューサーミキサー」ラジオCMソング。
『ザ・ベストテン』「スポットライト」のコーナーに初出演した。

アイドル歌手としてデビューした本田美奈子.。キャッチフレーズは「好きと言いなさい」「美奈子、あなたと初めて」
元々はキャッチフレーズでもある2ndシングル「好きと言いなさい」が初となる予定だったが、彼女が”アイドル色よりも大人の色気が強い曲を最初のシングルにしたい”という希望を持っていたため変更された。
元々、アイドル歌手ではなく演歌歌手を目指しており、ロックバンド解散後には演歌歌手への転向も考えられていたことがマスコミに伝えられている。


「Temptation(誘惑)」

作詞:松本隆、作曲:筒美京平、編曲:大谷和夫

1985年に発表された4thシングル。
「東芝ファンヒーター」「東芝ホットカーペット」CMソング。
フジテレビ系ドラマ『微熱MY LOVE』主題歌。

新人歌手としては松本伊代・岩井小百合に続いて日本武道館コンサートを成功させた。同年、「第27回日本レコード大賞」「第16回日本歌謡大賞」「第14回FNS歌謡祭」などで新人賞を受賞した。
スマッシュヒットになったものの、各種ランキングの10位以内に届かなかったことが悔しかったという。


「1986年のマリリン」

作詞:秋元康、作曲:筒美京平、編曲:新川博

1986年に発表された5thシングル。

「もっと強く自分の個性を打ち出せる楽曲を」と希望する旨をスタッフと協議し、当時作詞家としても勢いに乗っていた秋元康に作詞の依頼をした。
本田美奈子の気質や歌手としての資質などからイメージを膨らませていったところ、マリリン・モンローが浮かんできたそうだ。また、当時マリリン・モンローの再来と称され、強くてセクシーで格好良い女性の代名詞といわれたマドンナも楽曲のトータルイメージとしてインスパイアされている。

「ヘソ出しルック」のセクシーな衣装、激しく腰を振る挑発的なダンスなど、当時のアイドル歌手としては異例の演出も話題となり大ヒットとなった。それまでのアイドルとは異なったことをしたいという本人の希望から生まれたという。
アイドルと呼ばれることに抵抗があり、アーティストと呼ばれたいと発言したこともあった。
洋楽をあまり知らなかった当時、社長のすすめでマリリン・モンローやマドンナなど海外のスターを演出の参考にしていた。衣装や振付が影響を受けている。

オリコン週間チャートでは3位になった。
『ザ・ベストテン』で念願だった初のランキング入りを果たす。最高位は2位。


本日はここまで

いかがでしたか。
アイドルとしてデビューした1980年代の曲を紹介しましたが、華奢な体つきながらも伸びやかな声。歌のうまいアイドルとして当時も話題になっていたといいます。ミュージカル出演はのちの「クロスオーバー」進出にも布石を投じています。大きく息を吸い込んでいるのがわかる曲もあります。
最終的には3オクターブに達した音域。たいてい「チェンジ」と呼ばれる地声と裏声が切り換わるところがありますが、本田美奈子の場合どこにあるかわからないと森公美子が指摘しています。滑らかに響き渡る歌声、その歌唱力・表現力は多くの人を魅了してやみません。
「40歳になったらジャズに挑戦してみたい」
あくなき歌への挑戦、情熱。
努力を惜しまず、歌に人生を捧げた本田美奈子.。
是非聴いてみてください。

本日はここまで。読んで下さった皆様、ありがとうございます。感謝!
今日も元気にお過ごしください。
笑顔は幸せの素。”Your smile makes everyone happy!!”それでは良い一日を。Have a fine day.

201105 YUHUA O.

あなたのおかげで、勇気と希望が湧いてきますッ!