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右脳が死んでいた

絵を見るのが好きになった。

正直そんなに詳しくない。高校生くらいまでは絵画を見る楽しさなんて全くわからなかった。

21歳で心の健康を失ったとき、気づいた事がある。

不調の真っ只中のときは、負の感情しかなくて何も考えることができなかった。少し余裕が出てきて、幸せになりたいと思った。そのとき気づいたのは、ここ1年、というか恐らく3年くらいかけて徐々に、私は右脳を窒息させてきたんだということ。

簡単に言うと左脳は論理的思考、右脳は直感的思考を司っているらしい。右でも左でもどちらでもいいけれど、とにかく私はコロナ禍の大学生活と就活、社会人生活1年目の中で、論理的思考を駆使するという生存戦略をとったらしい。

結果、21歳の私の右脳は、瀕死の状態だった。最後にビジネス書以外の本を読んだのはいつだろう。最後に美術館にいったのはいつだろう。自然に触れたのはいつだろう。映画を見たのは。漫画を読んだのは。宇宙について考えたのは。最後に何かを美しいと感じたのはいつだろう。

たしかに左脳を駆使したおかげで物事は計画通りに進んだ。前に進んでいる実感があった。ほとんどのことは早く片付いた。効率も良かった。

でも効率を上げて、事を早く終わらせて、それで私は何をしたかったんだろう。遠回りしてここに着いた私は、もしかして今の私よりずっと幸せだったんじゃないか。

目指してきたはずの目標がなんだか違うと感じたとき、それまでに節約した時間の価値が失われた気がした。それだったら、時間なんて節約しなくとも、もっとその瞬間を楽しく生きておけば良かった。必要な情報だけを求めて読みたくもない本を速読するより、もっと大切にすべきものがあったはずなのに。新書やら専門書やらを読み漁って手に入れた知識よりも、村上春樹の小説の中の言葉に、世界に、ワクワク、ジリジリ、フワフワする没入感のほうが私を豊かにしてくれる。わかりきったことではないか。

やっと気づいた。それからは右脳を蘇生することに時間を費やした。受験が終わったらと思いながら読めていなかった「騎士団長殺し」を読み、絵画展に行き、自然に触れ、音楽を聞き、TED Talksを見ながら宇宙やら物理やら幸福やら時間やら色んな世界について考えた。毎日映画も観た。

私は死にかけていた。右脳が死にかけるというのは、そういうことだ。今はときどき、自分に問いかけることにしている。

お前は生きているか。本当に生きているか。求めている何かが、向かっている何処かが自分の望むものじゃなかったとき、それでも今ここで過ごした世界に価値があったと思えるか。

オランダ・ハーグ、マウリッツハイス美術館。真珠の耳飾の少女と見つめ合ったとき、思った。

私はあなたに会いに来たけれど、あなたに会えなかったとしてもこの旅はとんでもなく素晴らしいものだったんだから。
だから、私はもう大丈夫だ。

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