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行き過ぎた「給食は残さない」指導(完食指導)が学校教育法違反である理由

1. 長年当たり前にされてきた「給食は残さない」教育

私が小学生の頃、疑問に感じていることがありました。それは、先生の「給食は残さない」指導です。「パンは2分の1まで残してよい」とか「一切残さない」とか、方針に差はありましたが、多くの先生が、「給食は残さない」教育に信念を持っていました。中には、「給食を残す」ことを「悪」と位置づけ、給食の食べ残しがあると休み時間に教室に残されるような謎めいた指導まで、当たり前のように横行していました。

私がこの話を思い出したのは、最近、インターネットの記事で、いまだに「給食は残さない」指導が一部の学校で継続され、児童生徒を苦しめたり、ひどいケースでは不登校の原因を生んでいる実情を知ったからです。このような問題について、弁護士として何かできることはないだろうかと、悩みました。

様々考察を重ねた結果、行き過ぎた「給食は残さない」指導は、学校教育法に抵触する違法行為に該当するのではないか、と思い至りました。

「給食は残さない」指導に苦しむすべての児童生徒の方々、そして、その保護者の方々に向けて、このnoteを発信します。

2. 検討事例

甲市立乙小学校の教師Xは、「給食は残してはいけない」を信念に掲げていました。担任を受け持つ2年1組で、Xは、児童たちに、「食べ物は大切にしないといけないし、好き嫌いはよくないから、給食は残さず食べないといけない」と指導を続けていました。食べ残しのある児童がいれば、食べ終わるまで遊びに行ってはいけないと告げて、昼休み(30分)が終わるまで居残りをさせていました。また、Xは、昼休みが終わるまでに食べ終わらない児童について、「○○さんは今日食べ残しをしてしまった。みんなは好き嫌いなくきちんと残さず食べよう」と、次の授業の前に告知するようにしていました。

(1)児童Aの場合

児童Aは、どうしてもピーマンが苦手で(食物アレルギーではありません)、ピーマンが入ったおかずを食べることができませんでした。そのようなおかずが出る日は、必ず昼休みの居残りを余儀なくされました。次第に、児童Aは、ピーマンが給食に出る日に学校を欠席するようになりました。

(2)児童Bの場合

児童Bは、平均よりも体格が小さく、少食でした。給食の量についていつも多すぎると感じていて、かなり無理をしないと完食ができませんでした。昼休みに居残りをさせられたり、それでも完食できずクラスでそのことを担任Xから発表されたりすることに過度なストレスを感じ、学校のことが次第に嫌いになっていきました。
他の児童からは、昼休みに居残りしているときに、からかわれるようになりました。

3. 検討事例における学校教育法上の問題点は?

(1)学校教育法11条

学校教育法
第11条 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

学校教育法11条には、教員による「懲戒」の規定があります。この規定によれば、教員は、「教育上必要があると認めるとき」に、児童らに「懲戒」を加えることができるとされています。これは、反対解釈から、「教育上必要があると認められない」のに、児童らに「懲戒」を加えることを禁止した規定であると理解することができます。

つまり、教員らが教育上必要があると認められないのに児童らに懲戒を加えれば、その懲戒は、学校教育法に抵触する違法行為となるのです。

(2)「懲戒」とは何か?

「懲戒」とは、児童らに教育をする責任から生じる必要により加える一定の制裁をいいます。

ここでいう制裁は、「体罰」を包含していることから、退学など法的効果を伴うもの以外(事実上の制裁)も含まれ、かつ、「体罰」よりも広い意味であると理解されています。

また、文部科学省の「体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について(通知)」では、「注意、叱責、居残り、別室指導、起立、宿題、清掃、学校当番の割当て、文書指導」が「懲戒」の例として挙げられています。

これらのことから、「懲戒」に該当する制裁には、児童らに一定の抑止効果を生じさせるような負担を課すことが広く含まれていると理解されます。

(3)懲戒についての教育上の必要性

次に、懲戒の要件である教育上の必要性については、どのように理解すべきでしょうか。

裁判例(東京高判昭和56年4月1日)によれば、懲戒は本人の人間的成長を助けるために教育上の必要からなされるもので、その必要性については、基本的な教育原理と教育指針を念頭に置き、諸事情(本人の属性や対象行為の内容、懲戒の趣旨、教育的効果、不利益の程度など)を総合的に考慮して、社会通念に則って判断すべきものであるとされています。

この裁判例を踏まえると、「給食は残さない」指導に教育上の必要性があるかどうかは、次のような視点を考慮し、社会通念に則って検討すべきものといえます。

  • 基本的な教育原理や教育指針に沿った指導であるか

  • 「給食を残す」行為を抑止することが教育的効果につながる(本人の人間的成長を助ける)か

  • その指導によって本人に生じる不利益は過大なものでないか

(4)「体罰」に当たるかどうかというアプローチの問題

「給食は残さない」指導の問題点を論じる際に、このような指導が「体罰」に該当するかどうかを焦点にする見解があります。

ただ、このような指導で一般に横行する、居残りや口頭注意などは、肉体的苦痛を伴うものとまでは評価しがたく、「体罰」に該当するというには無理があるように思います。

むしろ、このような指導の問題点については、「教育上必要があると認められない」「懲戒」に該当するというアプローチで考えるほうが適切であるように思います。

4.  教師Xの指導は「懲戒」に該当するか

それでは、教師Xによる次のような指導は、「懲戒」に該当するでしょうか。

  • 給食を食べ終わるまで昼休みに居残りをさせた

  • 完食ができなかった児童についてクラスで発表した

以下の理由から、いずれについても、「懲戒」に該当するものと考えます。

(1) 給食を食べ終わるまで昼休みに居残りをさせた

文部科学省の通知では、「居残り」が懲戒の例として挙げられています。

昼休みは、児童らに休息や運動の機会を与え、児童らの健全な発達に資するために必要な時間です。そのような時間を削らせる指導は、児童らに精神的負担を課し、給食を残すことについて抑止効果をもたらしますので、「懲戒」に該当するものといえます。

(2) 完食ができなかった児童についてクラスで発表した

完食ができなかった児童についてクラスで発表する行為は、文部科学省の通知において懲戒の例としては挙げられていません。

しかし、このような行為は、「給食を残すことは悪いこと」であるという印象を与え、給食を残すことについて抑止効果をもたらすうえに、給食を残した児童に対する心理的負担にもつながりますので、「懲戒」に該当するものといえます。

5. 好き嫌いで完食できないことに「懲戒」の必要性はあるか?(児童Aのケース)

児童Aは、「ピーマンが嫌い」という理由で、給食を完食することができません。児童Aに対し、「懲戒」による抑止効果をもって完食を促すことに、教育上の必要性は認められるでしょうか。

(1) 基本的な教育原理や教育指針に沿った指導であるか

まず、特定の食べ物を「嫌っている」児童に対して、「懲戒」の抑止効果をもって「食べざるを得ない状況」を作出することが、基本的な教育原理や教育方針に沿ったものといえるでしょうか。

教育基本法には、「心身ともに健康な国民の育成」が教育の目的としてうたわれ(1条)、「生命を尊び、自然を大切に」すること(2条4号)が教育の目標の1つとして掲げられています。しばしば「給食は残さない」指導の根拠として挙げられる、「好き嫌いなく何でも食べないと大きくなれない」とか、「食べることは大切な命をいただくこと」といった指導は、このような教育原理と整合するものです。

では、児童が「嫌いな食べ物を食べざるを得ない状況」を作出することは、その児童の心身の健康な育成や、生命を尊ぶ精神の育成につながるのでしょうか。

(a) 児童の心身の健康な育成に資する効果はあるか

たしかに、著しい偏食のある児童について、栄養失調の発生を予防するために偏食の解消を促すことは、心身の健康な育成に資する効果が期待されます。しかし、児童Aのケースのように、「食べられないピーマンを食べさせること」で、栄養失調の発生を予防する効果がいったいどの程度あるのでしょうか。

ピーマンは、ビタミンやカリウム、βカロテンなどの栄養を含む野菜であり、定期的に食すことでの健康効果は期待されます。しかし、たまに給食の食材になるピーマンを口にしなかったことで、その児童が栄養失調に至るリスクは、いったいどの程度あるのでしょうか。

ピーマンはあくまでも一例ですが、「給食は残さない」指導に児童の心身の健康な育成に資する効果があるとは、私には到底信じがたいです。

(b) 生命を尊ぶ精神の育成につながるか

たしかに、フードロスの削減など、食べ物の無駄をなくすことが大切であることは、私も納得できます。限りある命を大切にすることは、教育において児童らに伝えていくべきことであると思います。このような考え方は、食育基本法の理念や、「食育」を推進する最近の学習指導要領の方針にも整合するものです。

ただ、ピーマンの味が嫌いで食べられない児童Aがピーマンを食べざるを得ない状況に追い込まれることで、「ピーマンも大切な命の1つだから、尊ばないといけない」という精神が養われるといえるのでしょうか。私には、全くの論理飛躍に思えてなりません。

「嫌々食べることによって、なぜ、その食べ物を『命』の1つとして尊ぶ精神が養われるのか」について、心理学的観点など合理的な理由をもって説明していただければ納得できるのかもしれませんが、少なくとも私は、これまでそのような説明に巡り会ったことは一度もありません。

(2) 「給食を残す」行為を抑止することが教育的効果につながる(本人の人間的成長を助ける)か

では、「給食を残させない」ことに、何からの人間的成長につながる効果はあるのでしょうか。

考えられる理由として、例えば、「苦手なものを克服する精神力につながる」ことが挙げられるかもしれません。

小学校で鉄棒の逆上がりを習得させる理由として、「苦手なものを克服する精神力につながる」ことが挙げられます。それと同様に、苦手な食べ物を克服することが、そのような精神力につながるという発想は、ありうるかもしれません。

ただ、仮にそのような理由であれば、 「給食を残さない」ことにこだわる必要は全くありません。鉄棒でも、音楽でも、勉強でも、いくらでも代替手段はあります。

教員から児童らに対する「懲戒」は、児童らに一定の不利益を及ぼすことを余儀なくさせるものである以上、その効果を実現するために最小限の不利益にとどまる手段を選択することが適切です。そうすると、他にも代替手段がある効果の実現のために、 「給食を残さない」という(代替手段と比較して)あえて児童らへの不利益の大きい指導を行うことに、合理性を見出すことはできません。

その他、児童の心身の健康な育成や生命を尊ぶ精神の育成につながらないことは前述のとおりであり、私の理解では、何からの人間的成長につながる効果は思いつきませんでした。

なお、「無理に食べさせられた」という経験を子どもに与え、嫌いなものをますます嫌いにさせ、将来の人生に支障をもたらす「負の効果」は、大いに期待できるように思います。

(3) その指導によって本人に生じる不利益は過大なものでないか

前述したように、昼休みの居残りは、児童らの休息や運動の機会を阻害し、児童らの健全な発達に影響を及ぼしうるものです。これによる不利益は、軽微なものとはいえません。
※休憩時間の確保が労働基準法で義務づけられていることからも、休憩時間の確保が人間にとって重要なものであることは裏づけられます。

また、完食ができなかった児童についてクラスで発表する行為も、給食を残した児童に対して「自分は悪いことをした」という心理的負担を与え、さらには、他の児童からの差別を助長し、健全な心身の成長を阻害する懸念のあるものです。

これらの指導によって児童に生じうる不利益は、看過しえないものです。

(4) まとめ

以上のとおり、私が理解する限り、児童Aに対する「懲戒」は必要性に乏しいうえ、過大な不利益を与えるものであり、学校教育法11条に抵触している違法なものといわざるを得ません。

6. 小食で完食できないことに「懲戒」の必要性はあるか?(児童Bのケース)

児童Bは、小食であるために、給食を完食することができません。児童Bに対し、「懲戒」による抑止効果をもって完食を促すことに、教育上の必要性は認められるでしょうか。

(1) 基本的な教育原理や教育指針に沿った指導であるか

まず、小食の児童に対して完食を促すことが、なぜ「生命を尊ぶ精神の育成につながる」かについては、私の理解が全く及びませんので、そもそも論じることができません。

では、児童の心身の健康な育成に資する効果については、どうでしょうか。たしかに、(例えば戦後間もない頃のように)給食が栄養補給において重要な位置づけにあった時代であれば、給食を完食することが心身の健康な育成に効果を発揮したかもしれません。しかし、現代の日本社会は、決してそのような状況にはありません。

また、子どもの成長には大きな個人差があり、「たくさん食べられる子」もいれば、「少ししか食べられない子」もいるのは当たり前のことです。「少ししか食べられない子」にとって、「たくさん食べられる子」と同じ量の給食は、過剰なものです。

このような考えに対しては、「給食は栄養学的に必要な量を計算しているから過剰ではない」という反論が見られます。しかし、そもそも栄養学的に示される必要カロリーは、年齢別の子どもの平均値であって、すべての子どもに一律に妥当するものではありません。このような反論は、理由づけとして全く的を射ていないと思います。

(2) 「給食を残す」行為を抑止することが教育的効果につながる(本人の人間的成長を助ける)か

児童Aのケースと同様に、小食の児童に給食を残させることが、人間的成長を助ける効果を期待させる理由については、思い至りませんでした。

(3) その指導によって本人に生じる不利益は過大なものでないか

昼休みの居残りが、児童らの健全な発達に影響を及ぼし、これによる不利益が軽微でないことは、前述のとおりです。

(嫌いな食べ物がある日だけ完食ができない子とは異なり)小食が原因で完食ができない子については、すべての給食日において同様の指導をうける懸念が生じるため、その不利益の程度は看過しえないほどに大きなものといえます。

(4) まとめ

以上のとおり、私が理解する限り、児童Bに対する「懲戒」は必要性に乏しいうえ、過大な不利益を与えるものであり、学校教育法11条に抵触している違法なものといわざるを得ません。

7. 「給食は残さない」指導の違法性を裁判所で争うハードル

検討事例で見たように、行き過ぎた「給食は残さない」指導は、学校教育法に抵触する違法行為にほかなりません。では、その被害を受けた児童が、裁判所で違法性を争うことはできるのでしょうか。残念ながら、そのハードルはかなり高いといわざるを得ません。そこには、次の2つの要因があります。

(1) 学校教育法は行政法規である

学校教育法は、行政法規です。そのため、学校教育法に抵触する指導によって教員から不利益を受けた児童らが、直ちに損害賠償請求をすることはできません。

損害賠償請求の前提としては、自分の権利が(違法に)侵害され、それによって損害を受けたことを明らかにすることが求められます。しかし、「居残りをさせられた」「給食を残したことをクラスで発表された」といったレベルでは、権利侵害や損害の発生を説明することが容易ではありません。

また、「居残り」「クラスでの発表」といった措置は、退学処分のように法的効果を伴うものでないため、行政訴訟事件として争うこともできません。

その結果、たとえ「給食は残さない」指導が、学校教育法に抵触するものであったとしても、司法の救済を受けることはかなりハードルが高いのです。

(2) 裁判所は教員の裁量を尊重している

しかも、裁判所は、「教育の善し悪しについては基本的に専門家である教育者に任せるべき」との立場から、教員の裁量を尊重する傾向にあります。そのため、「だれの目から見ても違法」といえるような水準でない限り、教員の裁量に基づく指導を「違法行為だ!」と裁判所がはっきり指摘することはなかなかありません。

このような事情も、司法による救済を阻む要因となっています。

8. 裁判所が介入しないからといって許されるわけではない

行き過ぎた「給食は残さない」教育に対して裁判所がこれまでほとんど介入してこなかった(介入できなかった)事実をもって、このような教育は「法律上問題のない行為」なのかと誤解してはいけません。

学校教育法の問題は、学校のコンプライアンスや、教育委員会の指導、さらには、文部科学省の注意喚起など、教育の専門家らによって解消されなければならないのです。

ただ、残念ながら、「給食は残さない」教育の法的問題が、教育現場、教育委員会、文部科学省において真剣に議論される状況には、現状至っていないのではないかと思います。

9. 保護者が声を上げて変えていくほかない

このnoteで様々説明したように、行き過ぎた「給食は残さない」指導(完食指導)が学校教育法に抵触する違法行為であることは、十分に合理的に説明することができます。ただ、残念ながら、この問題について根本的な解消手段は乏しいのが現状です。それでは、この問題をなくしていくために、私たちはどうすればよいのでしょうか。

その答えはただ1つ、行き過ぎた「給食は残さない」指導をいまだに継続している学校の保護者1人1人が、「違法行為だ!」と声を上げて、改善を求めていくほかないと思います。

そのためには、行き過ぎた「給食は残さない」指導の何が法的に問題なのか、多くの方にご理解いただくことが不可欠です。このnoteが、1人でも多くの方に届けばと願います。

※ noteで執筆する内容は、私の個人的な見解に基づくもので、所属する事務所としての見解ではございません。

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