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不登校の子どもに対して寛容な社会へ


東近江市長の発言

不登校の子どもが通うフリースクールの支援を求める文科省の方針に対し、東近江市長が批判的な意見を述べたことが問題になりました。

東近江市長の主張は、「フリースクールへの積極的支援は、学校教育制度、ひいては国家の根幹を脅かす」「親は無理にでも子どもを学校に行かせるべきで、それが憲法の教育を受けさせる義務を果たすことになる」という趣旨であると理解しました。

この主張の根本的な問題は、「不登校について子ども本人や親の課題とばかりとらえ、社会全体の課題としてとらえていないこと」であると感じたのです。

不登校は学校教育制度の根本的な課題である

「不登校問題」という言葉を見たとき、「これはだれの『問題』なのだろう?」といつも疑問を覚えます。時には、「不登校問題」という言葉が独り歩きして、「不登校の子ども=問題児」のような印象を抱く方も少なからずいらっしゃると思います。

しかし、ここでいう「問題」とは、子どもの問題でも親の問題でもなく、「不登校を生んでしまう学校教育制度そのものの問題」であると思うのです。

現行の学校教育制度は、子どもに対してクラスという集団環境への参加を強制し、(教育改革の流れによる変化はあるものの、基本的には)一律の教育を受けさせるところに根幹があります。

しかし、集団環境になじめない子ども、一律の教育になじめない子どもにとって、このような学校教育制度は多大な苦痛を与えてしまい、「学校に行けない」という結果を生んでしまいます。

もちろん、少し「しんどい思い」をしてでも何とか学校に通うことで、集団環境に少しずつ慣れ、溶け込んでいけるようになるケースもあります。ただ、決してすべての子どもがそうではありません。

このような子どもが学校教育を受けられるようになるためには、「集団」「一律」という根本的な方針を変革する必要があります。ただ、そのためには、「ゆとり教育」改革の際とは比にならないような検討を重ね、多大な時間を投じることを余儀なくされます。

長期的には、「学校に行けない」という子どもを減らすために、学校教育制度そのものを変革する必要があります。ただ、それを今すぐに実現することは現実的でなく、過渡的な受け皿としてフリースクールを積極的に支援することは、重要な意味があると思うのです。

そして、「なぜフリースクールに通える子どもが学校には通えないのか」という課題を検証し、フリースクールに倣って学校教育制度を変えていくことが、今後の社会のあり方として必要ではないかと思います。

不登校の子どもに寛容な社会へ

東近江市長の主張は、「不登校を容認することが社会の根幹を揺るがす」ことを前提にするものです。

しかし、本当にそうでしょうか。現代社会は、フリーランスやリモートワークのような様々な働き方が生まれ、「1人1人の生き方」自体が多様化しています。さらに、今後は、デジタルプラットフォームの発達で、社会やコミュニケーションのあり方そのものが大きく変化していくことが予想されます。

むしろ、現行の学校教育制度のほうが、そのような社会の変化に追いついていないように思うのです。学校教育は、将来の社会を担う子どもを育成する機関である以上、「集団」「一律」という根本的な方針を変革し、子どもの多様な生き方を容認しなければならないように思います。

不登校になってしまった子どもを責めても問題は何も解消しません。むしろ、そのような子どもの気持ちを社会が寛容な姿勢で受け入れて、不登校を減らす学校教育制度のあり方を考えていくことが、必要ではないかと思うのです。

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