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螢の狂い

   梅雨の迫る初夏の其の夜、村の大多数の大人たちは、ド田舎の山と山の間にある小学校運動場で施される、螢祭りの設営、準備作業に時を追われていた。

   螢を養殖する館が校舎脇の荒地に柵を隔てて建てられていて、村の代表数人が持ち回りでこれを管理し、運動場の向かいの小川に毎年その幼虫をたくさん放流している。その幼虫が成虫になって川沿いをぐらぐら舞うようになるのはだいたい五月下旬くらいからで、六月初旬にはその幼稚な舞踊がピークを迎えるのだ。

   螢は忽ちに狂って消える。これは宿命であった。

   六月六日、今宵は螢祭りなのである。村中の餓鬼らが集まって馬鹿な遊戯に興じる日である。当然、大人たちも日頃の辛い勤労を忘れて酒を呑み交わし、互いを労い、どんちゃん騒ぎに身を置き、挙句我と我が身を忘れて泥のようになりながら夢うつつの熱に浮かさる日でもある。レディス&ジェントルマン、ボーイズ&ガールズ、お婆様&お爺様、君のパパもママも、皆にとっての大集会の日なのである。今宵は歌って踊れ。踊って眠れ。と誰かが囃すわけでもなく、狂騒が繰り広げられべけれ。

   そうして諸々の準備も終わり開始時間午後七時前になると、村の中心に愈々祭りの火が灯された。

   紅白幕が張られた櫓から蜘蛛の巣状にぶら下がる提灯が明るく眩しい。出店のテントの至る所から煙の筋が昇る。さあ地元民に加えて観光客もぞろぞろやって来た。この日の為に村人総出の宣伝活動があったのだ。じわじわ螢が光り出した薄闇の集落に、祭囃子が陽気になって密集している。

   人々が賑わい出し、夜も本格的になってきた頃、小学六年になったばかりのケイタ、ヒロ、ユウジは、偶々遭遇した一つ年下のユウキ、ツネヒコ、ケイコ、ミキらとともに、人気の無い体育館と校舎をつなぐ外廊下の暗がりで、それぞれが常日頃は至極真っ当に清掃に用いている箒や竹箒を渡り廊下にあるロッカーから引っ張り出してきて、スターウォーズみたいなことでふざけ合っていた。

   初夏の夜の生温い闇、往来する多くの人々に依って熱され絆されてゆくテンション、群青の月明かり、耳の裏に響く祭囃子の高らかな音頭、肥大した変なリズムや面白いビートが抽象的な塊に乗り合って、餓鬼らの貞操観念さえ奪い去ろうとしてくる。次第に熱を帯びてゆく暗闇の中で、男どもがふざけているのを少し離れたケイコとミキが見知った大人のような眼付きをして眺めていた。

   抽象的な塊とは、所謂ムードである。

   ケイコは爽やかな男前のヒロを見つめていた。ミキは優男のケイタを見つめていた。

   と、程なくして、眉毛の精悍なダイスケが何処からかやってきた。

   「おーい、おい」

   微かに息を弾ませていた。

   「はあ。おい、みんなちょっと聞いてくれや」

   「おうダイスケ」「おうダイスケどないした?」「誰や、ダイスケか、どないした?」

   「さっきこっち来るときな、二つ下のタニユキって子おるやん。その子とばったりおおたんやけどな、はあ。ワイを見るなりな、きゃーゆうて逃げて行ってもうてん」

   「はあ?なんで?」「なんか変なんしたん?」「なんやそれ」

   「いやなんもしてないわ、そうちゃうねん。そんでな、なんかワイも意味わからんからな、追いかけて行ってな、なんで逃げるねんって聞いてん」

   「ほう」「そんなら?」

  「じゃあな、ユキ泣きながらな、ワイの後ろに、めっちゃ真っ赤な色した幽霊が見えるっちゅうねん」

  「ええほんま?」「ええ?ウソん」「ええ?なんて?なんて?」「いやウソやろ」「ほんま?」「はは」「何それこっわいな」

  「そんでそんで?それでどないしたん?」ケイタがニヤけながら目を丸くして執拗に迫った。

   「いやほんでウソやろ?ウソやろ?ってワイも何回も聞いたんやけどな、ユキずっと泣いてうつむいててな、ほんでもう怖いから行くってゆうて聞かへんからな、とりあえずこっち来たんや」

   「ええ!こっわ。こっわ」

   「それほんまかよ、はは。なんかそんなんあんま信じられへんけどなあ」

   ダイスケと向かい合いそう云いながら、ケイタは珍しく脅えたようなダイスケの様子に気がついた。

   「まあとりあえず何か買いに行こうや。腹減ったし。そんでからもっかいユキ捜してやな、会って話くわしく聞いてみようや」とヒロがダイスケの肩を叩きながら頼もしく云った。

   「そうやなそうしよ、もっかいちゃんと聞いてみよ。こんだけ人数おったら向こうもそがいに怖くないやろ」

   ユウジがそう云って先頭を歩き出したから、皆がそれに追従するかたちになった。そんな話を聞かされたら、こんな暗い場所じゃなくて大人たちのいる明るい場所に一刻も早く行って安心したい、と云うのが皆の本心だった。

   数件の出店のテントが並ぶプール前の駐車場まで行くと、知らぬ間にメンバーは四人に減っていた。ユウジを中心にして、同年のダイスケ、ケイタ、ヒロの四人である。

   ユウジが背後を振り返ると、少し離れた暗がりでケイコとミキらしき影が二つゆっくりとこっちに向かって来ていた。何やら二人はひそひそ話しをして笑っている。

   「なんやあいつら、キモいな」ユウジはそう思って、実際に口からもそう云った。

   出店や提灯の灯りと、賑わう多くの人の騒ぎ声で、皆の恐怖心が紛れた。けれどもダイスケの顔面は歪に引きつったままであった。

   ザリガニ釣りを持ちかける知り合いのおっさんをあしらいつつ、その異臭を放つテントを通り過ぎて、荒野の畑ばかりが目立つ道路まで出た。右側の金網越しに運動場があって、櫓を真ん中にして皆が浴衣を着て輪をつくって踊っている。いくつものテントがあってその中の一つで半裸のおっさんが騒いでいる。どのおっさんも額にタオルを巻いている。

   ユウジが道路の先にユキを見つけた。浴衣を着て、螢の翔び交う川にかかる橋の上を歩いている。

   「おーい、みんな、あそこにユキおったぞ。行こ行こ」

   四人は小走りになり、駆け足になった。

   ユキは友達のアミと一緒にいた。アミも浴衣を着ていた。ユキの浴衣には赤い金魚が白地にプリントされていて、アミの浴衣には青い金魚が同様の技法で転写されてあった。ユウジが大声で呼んだ。

  「おいユキちゃん、ユキちゃん」

   ユキは振り返り、その可憐な表情を闇に現した。紅をさして目元をキラキラさせ、まるで大人びた子供、子供みたいな大人の様子であった。

   ユキは眉を困らせて、少し脅えた顔をした。すかさずケイタが、

   「いや怖がらんといて。大丈夫やから。あのな、さっきダイスケにゆうたことってな、あれほんまなん?」「てか、今も見えるん?」と緊張してしまい、思っていたよりも穏やかな感じが無くなって恐喝まがいになってしまった。

   数百メートル先の川下にある古くて細い橋と今餓鬼らが立っている橋、そして川の両脇に続く畦道とを長方形に繋げて、これを螢道と銘打っている。その長い長方形を時計回りに順路とし、提灯が凡そ十メートル置きに設置されている。

   そのうちの一際明るい提灯の下で、ユキの浴衣姿と白い素肌が何よりも特に冴えていた。

   ユキは、か細い声で話した。

   「うん、今も見える。髪が長いから、多分、女の人」

   「おいほんまかよ」

   「ウソやったら怒るぞユキ」ダイスケが堪らずイライラし出した。

   ヒロが「なんでそんなんわかるんや?てかじゃあどうしたらいいんや、ごめんやけどちゃんと説明したってくれよ」と云う。

   ユキの話を整理整頓簡略化するとこうだ。ユキは"見える"けれども、それをどうすることもできない。それが何なのかも判らない。でも、偶に"見える"ときはいつもそれが青か赤で、その色の違いだけは判る。そして青なら別になんとも感じないが、赤だと凄く怖い。怖いしゾッとする。よく判らないけれども、凄くゾッとする、らしいのだ。ダイスケとばったり会ったとき、ダイスケの背後に、偶に見えてしまうそれらのものよりも更に赤が濃ゆい、真っ赤なそれがあったから、思わず、きゃー、と叫んでしまったそう。

   そうこう話しているうちにも、人の往来は次第に頻繁になり、螢道を歩く物見客も増えてきた。祭囃子のテンションも最高潮に達している。

   それからユキらと別れて、四人は校舎の内庭にある小難しい活字の彫られた大きな石碑の前のベンチに座り、内庭に植えられた花壇や祭りの光景をなんとなく陰気に眺めながら、串焼きや目玉焼き、焼きそばなどを食っていた。手洗い場の横にある小さな三角形の池には幽玄な月が一つ落っこちていた。

   ダイスケは本当は意気消沈としながらも、その場の空気を壊さぬよう、馬鹿にされぬよう、細心の注意を払いながら、自分のテンションを維持し、空元気を誇示して何やらぶつくさ喋っていた。

   餓鬼とは見栄を張るものなのだ。聡明な寡黙などは持ち得ぬ。

   ケイタとヒロも、内心不安ではあるのだけれども、まだまだ今宵のこの雰囲気を存分に楽しみたいから、赤い幽霊のことばかり気になりながらも、一先ず空きっ腹を満たして、この後四人で何をしようかと思案し、喧喧諤諤していた。

   皆でユキに話を聞いた後、ダイスケは、とにかく明日の朝になったら両親にこのことを相談してみて、お祓いに連れて行ってくれと頼んでみると云った。三人もそれがいいと云い、とにかくそうしよう、それしかない、とひとまず落ち着いたのだ。

   ところでユウジはまったく皆とは違うことに頭の中枢を支配されていた。それは、ユキである。ユキのあの表情、あの姿である。

   こんな気持ちは経験が無かった。

   これがユウジの初恋であったのだ。あのおびえた切ない表情、あの可憐な姿がいつまでも忘れられず脳裏に焼きついている。あのか細い声がいつまでも耳の中に残っている。あゝあの子、なんて可愛い子なのだろう。例えばそんなような気持ちで胸がいっぱいなのだ。心臓が風船と化して異様に膨らんでしまって、息苦しい。どうも何か変なのだ。ドキドキする。ワクワクする。そしてなぜかたまらなく悲しい。けれどそんな気持ちを餓鬼のユウジはまともな言葉で表現は出来ぬから、こうやって私が的確に簡潔に貧相に代弁している。

   出店で売られていた味の濃いだけの食いものを遮二無二食べ、食べ終える頃には次第に馬鹿なテンションが戻ってきていた。ユウジがボケればケイタとヒロがツッコミ、ケイタがボケればヒロとユウジがツッコミを入れる。いつも通りの悪童四人である。

   例えばケイタが蓮の葉に残した焼きそばのキャベツの芯を包んでヒロに差し出したりした。「はいどうぞおあがり」

   「おう、ありがとう。そうそうそう、これが食いたかったんや、ありがとう、ほんまありがとうやで」

   数秒してからヒロはそれを池に放り投げた。「いやいらんわい」

   ぽちゃんと月が揺れた。

   皆が音もなく笑った。ダイスケも釣られてそれを側から静かに笑った。

   体育館裏の広場に、特別に設けた臨時駐車場があった。腹も満たされたからそこまで行って、隠れて四人で煙草を吸おう、と云うことになった。

   ヒロがポケットから取り出しのは親からくすねた裸のマイルドセブン四本であった。ライターはさっき花火をするからと云ってケイタが出店で焼鳥を焼いている親に借りてきていた。

   四人で再び体育館裏の方に向かって夜道を歩き出した。

   まだまだ祭りは終わりそうな気配が無い。今頃川沿いでは村の連中や観光客が翔び交う螢に大勢で息を呑んでいることだろう。提灯の灯りが点々とし、狭い順路を幻想的に照らしている。その何処かに、可憐なユキの浴衣姿があるのだ。

   臨時に整備された真っ暗な駐車場に着くと、祭囃子は微かに聴こえる程度になった。鈴虫や轡虫が其処彼処で鳴いている。しなやかな風が吹き、山や草木が一方に揺れている。夜空は月の周りに楕円の雲が二つや三つあるだけで、気持ち良くすべてが澄んでいた。

   ヒロが煙草を皆に配り、ケイタがライターを四人の真ん中に差し出して着火した。各々がその火に顔を近づけた。

   ケイタが煙を深く吸い込んで吐き出した。その煙はまるで闇に溶けてゆくようだった。

   ヒロが咳き込んだ。ダイスケがそれを見てせせら笑った。

   ダイスケは駐車場に駐めてある白いセダンの助手席の窓をふと見つめた。

   焼け爛れた女の、首だけの顔がそこにあった。

   「わあああ」

   ダイスケは吸っていた煙草を投げ捨てて、そこから一目散に駆け出した。

   ユウジ、ケイタ、ヒロは何が起きたのか判らず、けれどさっきの赤い幽霊のことがあるから、ビビって多少たじろいだが、すぐに思い直してダイスケを追いかけた。

   「おい、なんやねんな!」

   「ダイスケ待てや!待てっておい!」

   「ダイスケ!ダイスケって!」

   三人はダイスケをあっと云う間に見失ってしまった。

   暫く捜しても、ダイスケの姿は見当たらなかった。さっき遊んでいた人気の無い外廊下にもいなかった。ただ箒や竹箒や塵取りが至るところに散乱していた。校舎の内庭のベンチにも、ザリガニ釣りのテント周辺にもいなかった。

   偶々出会したツネヒコやミキなどに聞いてみても、ダイスケをあれからは全然見ていないと云う。

   何処に行ってしまったのだろう。ダイスケ。眉毛の濃い、ダイスケ。意地の悪い、ダイスケ。金持ちの、ダイスケ。

   ヒロとケイタは運動場の村人で賑わうテントの中を捜した。おっさんやおばはんに紛れて、ダイスケがいないかどうか、もしかしたらダイスケの親がどっかにいるかもしれないから、そこにダイスケが逃げ込んでいるかもしれない。ヒロもケイタも知り合いのおっさんやおばはんに声をかけられたり理不尽に叱られたりしながら、それぞれがダイスケを捜した。そしてこの瞬間をひそかに面白がっていた。

   一方、ユウジは螢道にいた。

   ダイスケを捜しながら、もう一人を捜していた。

   夜は深まり、冷え冷えした風が流れていた。

   遠くの提灯の下に、視たような二つの浴衣があった。赤い金魚、青い金魚だ。

   心が不快だった。不快でもぞ痒い。

   螢が狂ったように跳んでいた。

   ダイスケはどうなっただろうか。僕はこれからどうなるのだろうか。皆、これからどうなるのだろうか。漠然とした不安と希望がここにある。けれどもこれは一瞬の出来事である。

   提灯の光が点々と続いている。

   儚く、金魚が赤く燃えている。螢が狂って、つぎつぎと川底に沈んでゆく。

   私はもうこれ以上、何も思い出せることが無かった。

   私はただ、金魚を視ていた。そして夜のしじまに没していた。

   



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