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もっちゃん

   猫屋敷と呼ばれたかの家は蔦に覆われ、あらゆる種種雑多な雑草の背丈によってその全貌をすっぽりと覆われてしまっていた。手入れのされなくなった生垣や防風林として植わった伊吹、柾などが如意自在に伸び散らかり、森閑とした様子である。かつて光の疎な縁側には朽ちた枯れ井戸のような心許ない庭池があったと記憶しているが、今やその片鱗すら見当たらない。あゝたしか昔日の仄暗く濁ったこの水面には真鯉が二、三ゆらめいて、一所に静止していたのだが。今やもうその面影は何ひとつない。屋根瓦の雨にさらされ色の褪せた死灰の向こうに遠い山の尾根が交錯し、そのまた奥にある山山の景色は青く霞んで今にも空の彼方に吸い取られて消えかかってしまっている。私はどうしようもなく懐旧的な、哀惜の念に襲われてしまった。

   しかしその微かに良心的な心持ちも、二十秒も数えぬうちにまた別の思念に打ち消された。やがて夏の終わりを告げる風がざっと吹いて、不意にそれも息を止めた。

   ややあって、私はまた、かの家屋をおぼろげに打ち眺めた。

   かの住人はどこに消えたのだろうか。猫ばかりが辺りに繁殖し、その繁栄を極めたようだ。土砂を免れた陽当たりのよい坂道の中途に二、三が寝そべり、梅畑の石壁によって拵えられた陽影に一匹が胡座をかき、二匹は道の中央で無為に戯れている。初秋の煮え切って生ぬるい陽射しの降り注ぐ昼下がりに、滅多に人の往来しない山の坂道では、人の暮らしとは一線を画した別の国の栄達と営みがあったようだ。この坂の上には寺がある。寺には陶芸を嗜む住職がいる。辺りには彼岸花が咲き乱れ、虻が私を狙って飛んでいる。翻り、背面から迫り上がる山山を仰いだ。深い眠りに満ちた山山の色は、緑と云うよりも、黒黒した濃紺の配色であった。遠くの山も、近くの山も、緑ではなくて青である。

   かつてこの坂道の真下にあるかの埋もれた家屋には、一人の男性が住んでいた。もっちゃん、と呼ばれていた身寄りの無い独身男性であった。彼は知恵遅れだと私は誰かに聞いた。彼は私が小学生の頃におよそ五十ほどの年齢であったが、弱々しくちぢこまった初老の通りの風体ではなく、肌は陽に灼かれて黒光りし、白髪まじりの坊主頭はつんつんに逆立ち、タンクトップと半パンを簡単に着て、少年少女のように活き活きとしていた。

   そしていつ何時でも彼は二本の脚を用いてそこら中を歩いていた。ときには遠い町まで食糧を買いに出かけ、往復四時間以上かけて険しい山道を歩いて帰って来た。私が二親の車で悠然と、山から二十㎞以上離れた町に向かっているところ、道端を両手に荷物を提げてもたもた歩くもっちゃんとすれ違うことが屢々あった。「なあ、もっちゃんどこまで行ってきたんやろなあ」「さあよ。もっちゃんは何処までも歩くからなあ」とこれは母である。私は鈍感な餓鬼ながらに、「彼は頭が弱いから、自分のしんどさも感じないのだろうな」と一人合点し、ミラー越しに小さな点になってゆくもっちゃんの憐れな背中を打ち眺めて、妙な尊敬の念と、妙な優越感の入り混じった傲慢な感情を持った。そのような思考は餓鬼の頭蓋で言葉になる直前にすぐに尽き果ててしまう。しかしそれは印象的であった。鮮烈な印象であった。

   彼は、爪弾きの状況にあった。つまり村の連中から直接的な危害を加えられたり、疎まれはしなくとも、確実に煙たがられていた。知恵遅れで身寄りもなく、未だに独身。働きもせず、毎月の稼ぎもなく、生活保護と僅かに先祖から付与された財産で日々をやりくりしている。家の土壁は干からび、土間には土埃や砂利が溜まり、天井にはカビが生え、窓硝子はどこも彼処も曇っていた。調度品は先祖代々のものが僅かに現役で稼働しているが、所狭しと役に立たないその他のガラクタが歴史的な埃を被ったままで並べてあるばかり。庭には茅や葦などの雑草が群生し伸び放題で郵便すらまともに届かない。無作為に野良猫に餌をやり、家に招き入れるから、近親相姦を繰り返して野良の野良が増えるは増える。おまけに風呂にもろく入らないから、臭い。小動物の排泄物と人間の皮脂油の匂いが混ざり合った、自由気ままで、不快極まりない香りである。村の会合も青年会も壮年会も知ったことではないから、当然周囲との交流もなく、敷居の高い遁世者として無意味に崇められるわけでもないので人徳など皆無に等しかった。たまに人と田舎道で出会せば、訳の判らない話をして話し相手を困らせるから、これでは誰も近寄りたがらないだろう。女、子供は特にそうだった。特にご婦人どもは彼に対する畏怖の念が強く、あられもない噂話を鵜呑みにし、公民館での井戸端会議にて話題が上がれば、お化け話でもするかのような顔付きで肩を怒らせ、小刻みに震え、当のお化けに道端で出会したりしようものなら、ものの見事な手腕で冷ややかにあしらった。もっちゃんはときに妖怪となり、ときに幽霊となり、ときに危険人物となった。

   私も右に同じく、周囲から煙たがられていた。疎外される要因は大いにあって、幼さゆえ、その明確な要因を俯瞰で探りとり並べ立てることはできなかったが、一つの要因として明らかな自覚があったのは、私には、生まれながらにして顔面に痣があったのだ。鼻頭の右、頬の下、ちょうど口角挙筋がある位置に、黒くて見難い3㎝ほどの楕円形の斑点があったのだ。

   「糞がついとるで、顔に」とこれは同年の輩である。「うっは、きったな」とこれも同年の輩である。生まれ持ったその見難さゆえ、私は大半の幼少期を惨めにやり過ごさなければならなかった。これは、自明であった。

   当時の私は、弱く、脆く、見難く、懐に何の気概も持ち合わせていなかった。鏖殺の悪魔にでもなれれば、恐怖政治でもってこの村を支配できただろうが、私は不甲斐ない体たらくで、それゆえに、その邂逅は必然だったのかもしれない。疎外された者同士が寄りつくように、励まし合い、無闇矢鱈に馴れ合うように、私たちの出会いはやはり神神に意図的に仕組まれたもののうちの一つだったのだろう。

   さて、山と山に囲われた麓にある僅かな盆地に蛞蝓のうごめいた艶やかな痕跡を呈した小さな川が流れている。盆地と云うよりも谷と呼称する方が潔い。その小川沿いに古びた小学校が忽然と姿を現す。校舎を見下ろす奥深い山山をまるで校舎の一体からじりじりと這い出て来た沢山の蛇の子らがくねくねと縦横無尽に這い上がって行って形成されたような細道があらゆる方角に放射され伸びている。そのうちのもっとも幅の狭い急勾配の一本の道を、私は泣きべそをかきながらとぼとぼと歩いていた。

   その日、五、六人の餓鬼らが東の山の中腹にある友人宅に集まったのだが、私は、かくれんぼと称して皆に押入れに閉じ込められ、野球と称して唯一の補欠にされ、何の遊戯にも胸を張って参加させてもらえず、おやつの時間にやっと許しを得られたと思ったのは思い違いで、用意された私の麦茶には多量の山葵が入れられていたのだった。私はその理不尽な仕打ちにどうにもいたたまれなくなり、情けなさで体温が上昇し、その日、日頃の鬱積した過剰な自意識が泪となって外へ外へ押し流されてしまったのである。私はついに破裂し、そこから脱獄してしまった。泪を流す弱者を目の当たりにし、ようやっと狼狽し出す同年の囚人どもの、顔。鬼の顔。天使の顔。狂騒。罪の意識という形而上のものが支配する牢獄の中でそれを振り解き、私はその友人宅を一目散に飛び出した。これつまり真っ昼間の遁走劇である。もちろん鉄格子などあろうはずがない。しかし皆、囚われの身に違いなかった。

   そして私は東の山を転げるようにして駆け下り、橋を跨ぎ、プールサイドにある臭いトイレを通り過ぎ、校舎の脇道を走り抜け、羽虫の飛び狂う畦を走り抜け、西の山をいざ上りかかって、そこで疲れてしまい、走るのを漸く止めたのだった。

   私は情けなかった。皆の前で大恥をかいた。いや、これまでも決して身分はよくなかったが、へらへら笑っていれば野球の外野くらいのポジションはやらせてもらえたのだ。外野に立っても何の役にも立たない木偶の坊だが、詰まったボールが上空から飛んで来ることはままあった。それは数少ない脳への刺激であった。けれどももう取り返しがつかない。明日からどんな目に逢うだろう。ぎりぎりの日常がこなごなに壊れてしまった。つい、悲しさが込み上げて来てしまって、つい、たまらなくなってしまったのだ。我慢していればよかった。けれども泪の衝動は容赦無く私の隙間から漏れ出したのだ。

   あゝ耐えていればよかった。あゝ神様、私の顔面にはなぜ、こんなに見難い痣があるのでしょうか。生まれたときからあったと云うことは、生まれる以前からもあったのでしょうか。それがだんだんと浮き出て来て、今はこんなにはっきりと。なぜ、胸や肘や尻ではなく、顔なのでしょうか。せめて首やおでこなら、こんなにも見難くはなかったでしょうに。いやいやそんなことは仕方のないことなのだけれど。もっと辛い境遇の人が山ほどいて、私よりも悲惨な気持ちで、同じように一人で遁走しているのだろうけれど。それは知っています。でも私は、ボクは、こんな痣が無ければ、よかったのです。もう少し、よかったのです。ちょっとだけ、今よりよかったのです。と、そんなような思念が果たしてあったのか、無かったのか、私はとにかく、かくして細い坂道を一人、とぼとぼと歩いていたのだ。

   私は俯いたまま、坂を上った。大小さまざまの自然石をこねくり回したセメントを用いて、凸凹をいい加減に舗装した、細く曲がりくねった田舎道である。ひび割れたセメントの隙間から雑草が生えていた。見た目はたんぽぽのようで、これはたんぽぽではない。私は自分の動かす脚を交互に視ていた。

   ふと気付くと、視界に、別の脚が二本あったのだ。汚いスニーカーが二つ、俯いたまま立ち往生してしまった私の視界で、その脚が地面にマネキンのようにじっとして乗っかっていたのだ。

   私は恐る恐る顔を上げた。すると、道の崖側、錆びた手摺りを背面にして、汚らしい人物がそこにもたれかかり、その人物は、私の方を向いてなぜかにやにやしていたのである。このとき私は、怖さなど微塵も感じなかった。私はなぜか、その微笑みに胸を鷲掴みにされて、瞬時にして痺れてしまった。彼は何も云わず笑っていた。よくよく視ると、ひょっとこに似た顔である。もっちゃんである。私はもっちゃんとはじめて対局したのである。

   私たちはともに坂道を登ったのだ。時間をかけてゆっくりと。

   好意を持って何かについて話したが、話した内容などはまったくもって覚えていない。意味を為さない呪詛や念仏のようなものばかりだったから、上手に表現できそうもない。と云うよりも、まあ、そもそも会話が成立していなかったも云える。もっちゃんは何か独り言のような一本調子で喋るので、私はひたすらに聞き役であった。私たちはある意味で利害関係を超えていた。それぞれが求めているものが明白ではなかったから。

   私はその後、もっちゃんと度々出会した。どこへ行くつもりなのか、どこから帰って来たのか、いつも判然としないのだが、小学校の帰り道、私はその坂道の中途で視線の上に彼の後ろ姿を見付けると名前を大声で呼んで駆け寄った。息を切らして追いつき、もう一度名前を呼ぶと、彼はあの朴訥な笑顔でもっていつも燦然と振り向いてくれた。

   彼と話す度、私はいつも全身にサブ疣が泡立った。その快感は背中と両肩と頸筋からじわじわとはじまって、水を吸うスポンジの具合ですぐに爪先まで浸透した。

   この気持ちよさはいったい何なのだろう。この気持ちよさはいったい何なのだろう。この気持ちよさはいったい何なのだろう。

   私の脳も四肢も、快楽を感じて次第に麻痺してゆく。彼は私を気持ちよくしてくれた。彼には私を侮蔑する手段も理由もなかった。私たちの関係は人間同士の交歓に当て嵌まるものではなかった。彼は実に良心的であった。あるいは、心がどこにも見当たらなかった。私たちの感情はよく判らない。けれどもブルーフェアリーみたいな想像上のものが実在するなら、彼女と逢えたとき、きっと同じように気持ちがいいのだろう。

   交流と云えるなら、彼との交流は中学を出るまで続いた。私は彼の家にも遊びに行った。遊びに来いと誘われたのか、無理に頼んだのか、定かではないが。

   家の縁側には小さな池があった。黒い塊でしかない真鯉が水の中でびくりともしなかった。

   彼は汚い床に胡座をかいてそのとき云った。

   「テレビで、外国のな、女の人がな、裸で、男の人の上に乗ってな、おうおうおうて、おうおうおうて、叫んでな、こんなにぴょんぴょん跳ねてな、おうおうおうて、叫んどったんや」

   彼の発した言葉のうちで私の記憶にはっきりとあるのは、この言葉のみである。

   ほどなく私は否応なく成長した。否応なく進学し、否応なく流れの渦巻く社会に出陣した。流れのままに都市へ出された。あれから何年も経過した。何年もの月日を無為に過ごして来た。痣は何度も切開され、レーザーを打たれ、今や消えない傷になった。私はまたここへ帰って来た。

   墓参りの途上で、私は懐旧的になった。すぐに別の思念がそれを打ち消した。

   そして私はいよいよ死生観を放棄した。墓参りさえ面倒になった。

   彼はいったい、彼岸と此岸の、どちらの岸辺に立っているのだろうか。その岸辺に寝転がって草花を潰していやしないか。

   私は坂を下った。

   天はまだ青かった。

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