今この世界に必要なのは「頑張らない」を頑張ること。
こんにちは。マルオカユイです。
「頑張ってね!」
「頑張ったね!」
「頑張ろうね!」
「頑張るね!」
「もうちょっと頑張ったら?」
私たちは子どものころから、無意識に、当然のように「頑張る」という言葉を使う。
ただ、その「頑張る」の意味を考えることはほぼない。
頑張るって何だろうか。
私は頑張らなきゃ!頑張らなきゃ!と自分を鼓舞して生きてきたけれど、頑張れなくなった。
もう無理ができなくなった。
その時に思った。
私の中にある「頑張る」は、無理することだったんだ。って。
ネットの辞書には
困難にめげないで我慢してやり抜く。
自分の考え・意志をどこまでも通そうとする。我 (が) を張る。
と書かれている。
子どもの頃を思い返すと、成績表なんかは良い例で、小学校の頃の成績表は、よく頑張った・頑張った・もう少し頑張りましょう。の3段階だった。
私たちは、自然と、難しいこともそれに耐えながら我慢しながらやることを頑張ることだと思って生きてきた。
そしてそれが素晴らしいことだと、自分にインストールして生きてきた。
頑張った人が評価され、頑張らない人は評価されない、というのは言い換えれば、
我慢した人が評価され、我慢しない人は評価されないということ、
無理をした人が評価され、無理をしない人は評価されないということだ。
そう言い換えると、どこか違和感があるけれど、意味は頑張ると同じ。
頑張っている人はカッコいい!
というのも、無理してる人はカッコいい!我慢している人はカッコいい!と言い換えることができる。
なんとも違和感のある表現だけれど、頑張っている人はカッコいい!と同じことになる。
私もそうだけれど、いやいや、頑張るって素晴らしいことだよ、というのが自分の神経回路にこびりついていて
どうにかこうにか、頑張るを正当化しようとする。
頑張って夢を叶えるって素晴らしいことじゃない!って。
確かに素晴らしいことなんだけれど
もし、自分が本当に楽しいことを夢中でやっている状態を「頑張る」と表現しているなら、「頑張れない」という状態は起こらないし
なんならそういう人は、側から見たら頑張っている(我慢したり無理している)ように見えても、本人はやりたくてやっているわけだから、それすらも夢中で楽しんでいることになる。
そりゃ、やりたくない人から見れば、大変そうに見える。
なぜ、もう「頑張れない」という状態が起こるのかといえば、それは多くの人の潜在意識に刷り込まれている「頑張る」が「無理する」ことであり「我慢する」ことだからだ。
無理してね!と言われたら、いやいや、無理はできないよ。と大概の人は思うし
我慢してね!と言われたら、いやいや、我慢なんてしたくないよ。と大概の人は思う。
でも頑張ってね!は、何の違和感もなくナチュラルに使う。これは、見方を変えると私たちを縛りつける呪文なんじゃないかとさえ思う。
中学生の頃、マラソン大会があって、親達が要所要所に立って、頑張れ〜!と声かけをしてくれる場面があったのだけど、3年間ずっと私は、それがムカついて仕方なかったことを思い出した。
いや思春期だったからっていうのはもちろんあるかもしれないし、私がマラソン大会が大嫌いだったからってのもあるけど、何が頑張れやねん、お前が頑張れよ。と3年間毎年思っていた。
だから、私の中に昔からあった頑張るの定義は、よく考えたら、我慢すること、無理することだった。
これは性格にもよるだろうし、どんな星の元に生まれたかによっても違う気はしていて
私はどうも頑張ってしまう傾向にあるらしいんだけど、
宇宙の物理法則を知った今
今この世界に必要なのは「頑張らない」を頑張ること。
それは、我慢しないこと、無理をしないこと。
ナチュラルにやってるから、自分が我慢していることにも無理していることにも気付かないことが圧倒的に多い。
私は動けなくなって初めて、ああ私無理してたんや。と気付く、そんな経験が何度もある。
私たちが本来もっているものをナチュラルに活かして生きる時、私たちが、純粋にやりたいことやしっくりくることをやって生きるとき
そこに無理をする、我慢するという概念はない。
だって今すでに持っているものを相手に差し出すだけなんだから。自分が心地良く感じていることをただやるだけなんだから。
そしてそのありのままを生きるという在り方を、私たちは頑張っていないからダメだと思い込んでいる。
頑張らないと認められない、価値がないと思っている。
我慢しないと認められない、価値がない世界って、よく考えたら意味が分からなくない?
無理しないと認められない、価値がない世界って、一体何?
とはいえ、これは脳みそのシステムだから、そうインストールされているものを急にアンインストールするのはなかなか難しくって
私も、ああまたやってる!また無理して、体調崩してもうた、あああ!となるんです、いまだに。
だから頑張る教の人たちは、「頑張らない」を「頑張る」ことを目指すとちょうど良い気がしています。
ちなみにね、頑張ってはいけないわけじゃないから、そこは間違えないでほしいんだけど。
私もよくやってしまうのが、すべき思考。
頑張るべき!頑張ってはいけない!
ではなくて、頑張ってもいい。頑張らなくてもいい。
要は、無理してもいいし、無理しなくてもいい。
我慢してもいいし、我慢しなくてもいい。
自分がお好きな方をお好きな割合でどうぞ。
という選択の自由が我々にはあるよね。
そして頑張らない(我慢しない無理しない)生き方にシフトしたいなって思った時には、私たちは今の状態で、なんなら生まれた時点から100点であると思い出さなきゃいけない。
何かを足さなくても、本当は100。できることできないことがあるその凸凹してるその状態が100、完璧であるって深く自分に刻もう。
何かを足さなきゃ自分には価値がないと今まで脳に刻んできたんなら、何かを足さなくてもそのままで100点と刻むこともできる。
全ては脳みそに情報をインストールしているだけの話だから。
今この世界に必要なのは「頑張らない」を頑張ること。
それはきっともっと優しい世界だと思う。
そしてその新しい世界はすぐそばまで来ている気がする。
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