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<閑話休題>読者の条件について

  終活の一環として、昔に書いた作品を整理している。中には、これからnoteに投稿しようと思うエッセイや小説がある一方、結構詩を書いていたことを改めて発見した。もともと長編小説よりも短編小説が好きなのだが、その流れから鑑みれば、詩に行き着くのも自然かもしれない。

 さて、その詩の中に、「旅への誘い」というのがある。発想としては、「詩」=「死」というイメージから書き出したものだが、優れた先達として、シャルル・ボードレール(「旅への誘い」https://poesie.hix05.com/Baudelaire/121invitation-au-voyage.html))、高見順(「帰る旅」http://sdaigo.cocolog-nifty.com/kaerutabi_takamijun.pdf)、澁澤龍彦(「高丘親王航海記」https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784167909253)をイメージしながら、書いている。

 だから、これらの3作品を知らない人が読めば、なんのことかわからないので、この詩はてんで面白くないだろう。さらに、引用した3人の作家・詩人に対する注釈が必要になる(なんと、最近「高丘親王航海記」がマンガになったそうだ。それで、マンガとして知っている人がいるかもしれない。余談だが、ダンテ「神曲」までもマンガになっているし、ダンテという名前を検索すると、ルネサンスの偉大な作家・知識人ではなく、音楽グループが先に出てくる。たとえば峻険な山を、ダンテ「神曲」「地獄篇」の描写になぞらえて「ダンテズピーク(ダンテが描いたような険しい山)と言うが、日本ではこうした表現は通じなくなってしまうのだろうか)。

 そいうわけで、以下に私の詩を引用するが、上記の解説を知らない人たちにはまったくピンとこないつまらない詩でしかないと思う。よく政治でポピュリズムの弊害が言われるが、文学作品にもポピュリズムの弊害があるように思ってしまうのは、私がスノッブすぎるためなだろうか。

 しかし、優れた文学作品とは、古典文学の世界がそうであるように(渡辺一夫は、ラブレーの「ガルガンチュアとパンタグリエル物語」全文を翻訳するために、中世ヨーロッパ全般の文化・教養を研究したため、その生涯を要した。「シエラザード(別名アラビアンナイト)」全巻の翻訳は、アラブ文化及び文学専門家一人の人生では達成できず、複数の後継者によってなされた)、数多くの知識・教養・イメージ・歴史・各種の比喩などが散りばめられたものだと思う。だから、一切の解説も教養もいらない平板な文学作品は、多くの読者が理解できるというポピュリズムの観点からは優れているだろうが、文学作品としてはそうではないと思っている。

 良い作品は、良い読者を選ぶのだ。申し訳ないけど、良い作品を味わうためには、読者にもそれなりの教養を身に着ける努力が必要なのだ。・・・と、エラそうに言わせてもらいました。こんな私の作品が、多くの読者の支持を得ることは、まずないでしょうね・・・。

旅への誘い
(ボードレール風に)

「旅への誘い」、とは、、、。
(私の仕事には、旅をすることがつきまとう。転勤した後その場所で3年ぐらいいるが、その間に出張や休暇で何回か旅をする。ずっと、いったりきたりの繰り返しである。)

「旅への誘い」、とは、、、。
(高見順は、帰れるから旅は楽しく、駅前のしおっからいラーメンがうまいのだと書いた。)

「旅への誘い」、とは、、、。
(澁澤龍彦が描いた高丘親王は、最後に自らの寿命が尽きることを悟った時、虎に食われることによって旅を続けた。)

旅には死の臭いがする。住み馴れた場所を離れると、生活基盤が不安定になる。気疲れもある。

ある日、予測のついた毎日の繰り返しに飽きた時、「旅への誘い」は始まる。

知らない場所と知らない人たちの間へ、自分の身体を投げ出してしまう。
馴れない気候と馴れない食事に、心と身体は悲鳴をあげる。
早く家に帰りたい、あのしおっからいラーメンが食べたいと切望する。

新しい発見と嫌悪の中で、順化していく自分にある時ふと気づく。
それはまた次の「旅への誘い」の始まりだ。

よその土地が自分の土地になった頃、毎日は同じになってしまう。

そうして、どこにも自分の居場所がみつからなくなった時、
人は生まれた場所へ帰る旅を始める。

今度は、終わりのある旅になる。


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