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3章からなるクリスマス・ストーリー:テルマエ・ジャポネ(その1)

第1章           不思議なおじさん
 
 そのおじさんは、いつも僕を待ち構えていたかのように、銭湯に来ていた。たまたま、銭湯に行く時間帯が一緒だったのかも知れないけどね。でも、いつものように、湯船の縁に腰掛けてぼうーと考え事をしている僕の側に、いつのまにかやってきて、とても自然に話しかけてくるんだ。そして、僕のことや家族のこと、住んでいる場所、湯船の縁に腰掛けてぼうーとすることが好きなことなど、いろんなことをみんな知っていたよ。それまで、一度も会ったことも話したこともなかったのにね。

 当時の僕の家は、小学校の同級生がみな立派な二階建ての内風呂のある家に住んでいたのに比べて、もともと馬小屋だったのを改造した借家に住んでいた。お父さんが病気がちな上にお母さんも町工場でほそぼそと働くのがやっとだったので、とても家を持てるような家庭ではなかったから、生まれたときから風呂は銭湯に行くものと思っていたんだ。

 でも、その頃は、僕の家と同じに内風呂がない家庭も多くて、街のあちこちに銭湯が2~3軒あり、いつもは家から歩いて2分程度のところに行っていたけど、たまに気分を変えて遠いところに行くこともあった。それから、どこも銭湯の脱衣場は、高い気持ちのよい天井とささやかな和風の庭がついていて、ちょっとした豪邸気分も味わえたね。また、湯船の奥には、青い空に富士山と松林のペンキ絵があって、その絵の雄大な景色を眺めていると、ちょっと気弱で自信のなかった少年時代の僕でも、なにか雄大な気分に浸ることができたな。

 その湯船の縁で、僕は5分くらいぼうーと考え事をするのが、いつの間にか習慣になっていたんだ。たぶん、裸になっていることの開放感と広い銭湯の空間とが相まって、心身ともにリラックスできたのだと思う。そういうときには、もともとから空想するのが好きだった僕の頭の中では、僕の分身がいろんな想像の世界を駆け巡っていた。楽しかったな。

 ある時から、その想像の世界の中の登場人物のように、突然そのおじさんは現れたんだ。最初から、僕が、おじさんのことをよく知っているよね、という感じで、自分の名前は名乗らず、自分がどういう関係の仕事をしているとか、どこに住んでいるとか、なぜ僕の全てをよく知っているのかといったことを、一切話題にしなかったんだ。僕の方も、そうしたおじさんについてのことを尋ねることは、もしかしたら失礼になるかもしれないと思って、わざと言葉にしなかった。それに、僕がおじさん自身のことを聞かないことは、さも当然のような顔をしつつ、そのおじさんは僕に話しかけてきていたんだよ。

 今となっては、そのおじさんと話したことはほとんど覚えていないけど、たぶん、忘れてしまった理由は、おじさんが僕に一方的に質問してきて、僕がそれにたんたんと答えていたからだと思うな。ただ、ある質問と答だけは、未だに覚えているよ。

 おじさんは、おたまじゃくしの餌について僕に聞いてきたんだ。僕がつい最近まで田んぼで拾ってきたおたまじゃくしを洗面器で飼っていたのを、そのおじさんは知っていたんだよ。僕はどんな餌がいいのかがわからなかったので、家にあった削り節をあげてみた。でも、おたまじゃくしが食べたかどうかははっきりとはわからなかったけど、何日かして水を取り替えることもしなかったので、おたまじゃくしは蛙になる前に皆死んでしまった。

 そういった話をしたら、おじさんは、他の僕の話と同様にとても感心して聞いてくれた。そして、自分の家にいるおたまじゃくしにも削り節をあげることにしようと言って、喜んで帰っていった。僕は、内心間違ったことを教えてしまったのではないかと心配していたけど、その後、おじさんからおたまじゃくしがどうなったかをちゃんと聞いていないんだ。

 なぜかって言えば、その後急に、おじさんとは銭湯で会うことがなくなってしまったからなんだ。でも、おじさんにとって、おたまじゃくしってなんだったのだろう。今でもよくわからないな。
 


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