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<閑話休題>「雨の日と月曜日は」の次の火曜日は・・・

 何回か本欄のネタにしている、カーペンターズの名曲「雨の日と月曜日は」。ラヴソングの名曲とされているけれど、ヨーロッパ文化においてLOVEは、男女間の恋愛とは限らない。むしろ、「神の愛」という宗教的な意味合いが強いことが多い。そして、この曲の歌詞を深読みすると、どうも「神の愛」の方が強いのではないかと思う。なぜなら、気持ちが落ち込んでいる人が、そこからの救済を求めているから。

 ところで、10月の半ば、東京地方では、まさに月曜に激しい雨が降って、憂鬱な天気になり、しかも寒かった。そして、次の火曜日。11時頃には晴れて暖かくなった。いや、暑さが戻ってきたような感じだった。

 それで、何か太陽の光に誘われるようにして、午後、近所の公園を散歩した。秋空はどこまでも青く遠く、白い雲すら見えない。雨で洗われた都会の空気は、公園の緑の力もあって、新鮮に感じる。とても憂鬱になるようなものではなく、正反対に気分が良くなる火曜日だ。

 公園の芝地の柔らかさを感じながら歩いてゆく。その先に木が数本植えられているところがある。木の間をすり抜けたくて、わざとその間を通った。その瞬間、私の帽子のつばに、太いクモの巣が引っ掛かった。私の顔や身体にクモの糸やそこにくっついている枯れ葉、そして、たぶん死んだ獲物がチラチラと見える。あわてて帽子を脱ぎ、くっついた糸を払いながら、同時に手で糸を払い取る。すると、右側に何か黄色い物体が見えた。その瞬間、目の前に体長5cmほどある黄色に緑の縞が少し入ったクモが、地面をすたすたと逃走していく姿が目に入った。(あとで調べてみたら、ナガコガネクモという種類らしい。)

 思わずぎょっとしたが、とにかく身体にまとわりついた糸を取り払うことが先決だ。そして、素手で触ると糸のベトベトがついてしまうので、身近にある棒を取り上げた。それで糸を絡めとるようにしたところ、その小さな棒は、なんとカラスの抜けた羽だった。またもやぎょっとして、その羽を捨て、手頃な小枝を探した。小枝はすぐに見つかり、無事に糸を払いとった。

 しばらく気持ちが落ち着かなかったが、そうだクモの写真を撮ろうと思って、クモが逃走した先を探してみた。しかし、たぶん鳥からの視線を避ける(なぜなら食べられてしまうから)ため、クモは近くの木の葉の中に隠れてしまったようだ。また保護色なので、老眼・近視・乱視の私の目では、もう探すことは叶わなかった。自然は偉大だ。

 後日、同じ木のところを、今度は糸に捕まらないように用心しながら歩いてみた。すぐに、木の間にあるクモの糸が、落葉をつけて陽の光に反射しているのが見えた。しかし、落葉がなければ、たぶんわからなかったと思う。それぐらい巧妙に作られている、自然の凄さを改めて感じた。そして、例のクモはここにしかいないと思って、木の葉の中を探してみたが、やっぱり見つからない。私はクモ探しを諦めて散歩を続け、別の場所にある小さな小屋に入った。そこは、公園の休憩所として作られていて、付近の木立から鳥の声が聞こえる良い場所だった。夏までの間は、よくここで休憩している人が見えたが、最近は見かけない。

公園の休憩所(画像は夏のもの)

 それで、ちょうど良い場所だと思って、そこで瞑想を始めた。すると、どうも瞑想をしているときに、首筋や腕にチクッという感覚が出てくる。「瞑想を邪魔しないでくれ!」と思いながら、私は瞑想に集中した。そして、ある程度満足する瞑想をした後、眼を開けて立ち上がったら、右腕にクモの糸が一本かかっていた。「あっ!」と思って、天井付近を見た。そこには、さっきのクモと同じ種類のクモがいた。さらに、天井を探してみると、たくさんのクモの巣がある。そして、最初に見つけた場所の隣には、二匹目のクモが、陽の光に照らされていた。クモは太陽の光に反射して、なぜか美しく見えた。

 私は、心の動揺を抑えながら、「今度瞑想するときは、このクモの巣の下は避けねばならないな。そして、最近人の姿が見えないのは、このクモのせいだったのか」と理解した。しかし、「クモを排除してください」なんて野暮なことは、公園事務所には言わないでおこう。なぜなら、クモも同じ生き物であり、例えば熊のように実害があるわけではなく、そこに問題なく共存できているのだから。このままお互いのテリトリーを守るべく、そっとしておくのが、人してのまた生物としての寛容というものだろう。

 ところで、朝にクモを見るのは吉兆だと言われる(それに、名前が「ながこがね=長黄金クモ」だ!)。またカラスの羽も吉兆とされている。ずっと「私は不運だ、恵まれていない」と嘆いてばかりの私の人生にも、素晴らしい幸運が訪れるのだろうか?いや、きっと訪れると確信したい。

春は近い


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