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『頭で考える笑い』の限界

何がおもろいん?
どこで笑えるん?
いやいや、意味わからん!

否定していると思いきや、これは褒め言葉の場合がある。

テンションやトーン、言い方次第で否定にもなるが、今回の記事は褒め言葉として使う時の話。

笑いには何となくの教科書がある。

その教科書というのは、これまで先人が築き上げてきた歴史と同義語。
エンタツアチャコから萩本欽一さん、ドリフターズなど礎を築いた偉人がいて、今の若手までが一本の線で繋がる。
それが日本のお笑いにおける文脈であり型。

そうやって古い、新しいを何度も繰り返しつつも笑いは進化しながら現在に至る。

笑いの道を志せば、知らぬ間にその教科書の中から笑いを学び体得していく。

しかし、この教科書…というものは時に最高の教材として役に立ってくれるが、毎度毎度1つの問題点を投げかけてくる。

それは、頭で考えてしまう呪縛である。

例えば、番組の企画案を捻り出す時や、アイデアを考える時、机に向かってウンウン唸って考えてる時に出る自分の発想に対し…

うーん、悪くないんだけどなんだかなあ…感が拭えない時がある。

結局何を考えたところで、過去の教科書に載っていた『何か』から逸脱できてないような気がするのだ。
「他の人も同じようなことを考えているかもしれない…」と思った瞬間にアイデアは乏しく見える。
アイデアなんて基本はカブるものだ。
『唯一無二の発想』そんなカッコいいものは、なかなか出てこない。

アイデアだけで差をつけることには限界がある。
それゆえ、知識をつけたりコミュニケーション能力を上げて周囲と差をつける。

知識や情報などは、当然あればあるだけ有利。
コミュニケーション能力だって立派なスキルの1つ。

頭脳や発想だけで勝負して圧倒的に差をつけるのはなかなか難しい。
自分の世界観や頭脳から捻り出すより、何かを自分の中に仕入れていく。いわゆるインプットの数こそが大切。

映画、テレビ、漫画、舞台、音楽、演劇、歌舞伎、旅行、遊び、なんでもいい。
とにかく、経験を増やす。
そして、ありとあらゆるものを見ておく。

優秀なクリエイターは本当にたくさんのインプットをしている。

そうやって頭脳にストックをたくさん溜めて引き出しを多くする。
それはそれで素晴らしいことであり、忙しい合間を縫ってインプットをたくさんしている人には頭が下がります。

それは笑いにおいても同じだ。

ネタで笑いをとる。トークも上手い。大喜利も強く、いわゆる笑いのオールラウンドプレイヤー。
そんな芸人さんがいたとする。

めちゃくちゃ生意気な感じにはなりますが、そういう何でもござれの器用な芸人さんに限って「ああ、そのパターンか…」と、感じる瞬間がある。

決して面白くないわけじゃない。
いや、むしろ面白い。もちろん笑えるし凄いとは思うんだけど、どこかに既視感があり、背後に教科書がチラつく場合がある。

その先人が残した教科書は最強の教材だが、披露する芸のどこかに豊富な勉強量が透けて見える場合がある。

その正体こそが『頭で考えられた笑い』である。

頭で考えているということは、どこか論理的であり理屈がある。
そうなると、「血が通ってない」とまでは言わないが、どこか計算づくな雰囲気を醸し出す。

もちろん、勉強することが悪いことではない。
いろんな人に憧れ、いろんなネタを見て、いろんな影響を受ける。
それはそれで当たり前であり、笑いを志すのなら普通はそういった刺激から動機を生む。

さらに、それらを駆使して笑わせること自体、いくら勉強しようと、できない人にはできない。
もしかしたら、それを技術やテクニックと呼ぶのかもしれない。

だから、『頭で考えた笑い』を使いこなせる人はめちゃくちゃ才能に溢れているのも理解した上で…

お笑いの世界には『頭で考えない笑い』を武器にする人が、たまに存在している。
本当に脳の思考回路がよく分からんというか何と言うか…

それは何をどうしたって太刀打ちできない領域。

変な話、こっちからは「すみません、分からないので、お任せします」と、言うしかないやつ。

天才ぶってるわけじゃなく、シュールに逃げてるわけでもなく、独特の世界観と唯一無二のセンスを持つ人には、こっちからアイデアを渡すことなんてありえません。
だって、そんな人は住んでる国が違うので、共通言語もなければ文化も違う。

その、お笑い外国人とも言える代表選手を2名選出するのなら、野性爆弾のくっきー!さんとロバートの秋山さん。

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