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『脱学校の社会』を通してゼミを考えてみる

山梨学院大学 学習・教育開発センターの小笠原です。

2021年も終わりにさしかかり、この数日は一年間の振り返りを個人でやったり、他者と対話しながらやっています。

その中で、この数ヶ月間ずっと考えていて、振り返りをしているときにも出てきた問いとして

教育って?、大学って?、成長って?、ゼミって?僕の役割って?

です。

今年で四年間ゼミの運営に関わってきました。

最初の1年目はゼミを引き継いで、どんな進め方がいいかは学生に聞きながら、今までの流れを大きく変えずに進めていきました。2年目ぐらいから、少しずつどんな進め方がいいか試行錯誤したり、他のゼミを参考にしながら進めていました。

※特に法政大学の長岡先生のゼミは、一つのロールモデルです。

そうして、四年間色々試しながら、やっといろんなことがわかってきた気がします(4年かけてやっとです)。

きっかけはゼミ生の活動と、本を再度読み直したり、まとめて読んでいく時間を多めに作っていた時に色々と繋がった瞬間がありました。

前期に学生に自身の活動からの気づきをプレゼンしてもらったことがありました。その際に、ある学生が自身の関心と紐づいたプロジェクトを行い、そこでの気づきや自身の活動を発信してくれました。最後に僕への感謝!という意味合いのスライドを用意して伝えてくれました。

でも、その学生の活動に関して、僕がやったことは、情報のシェアと、コーチングをして想いを整理しただけ

ゼミ内での活動はそこにあまり紐づいていなかったのです。

似たような例がたくさんあり、そもそもの自分の役割やゼミとはなんだろうと改めて考えていました。

その時に、『脱学校の社会』の中の言葉を思い出し、読み直していました。

多くの生徒たち、特に貧困な生徒たちは、学校が彼らに対してどういう働きをするかを直感的に見抜いている。彼らを学校に入れるのは、彼らに目的を実現する過程と目的とを混同させるためである。
イリッチ, 1977『脱学校の社会』 p13

どういうことかというと、

過程と目的の区別が曖昧になると、新しい論理がとられる。手をかければかけるほど、良い結果が得られるとか、段階的に増やしていけばいつか成功するとか言った論理である。このような論理で「学校化」(schooled)されると、生徒は教授されることと学習することとを混同するようになり、同じように、進級することはそれだけ教育を受けたこと、免状をもらえばそれだけ能力があること、よどみなく話せれば何か新しいことを言う能力だと取り違えるようになる。
イリッチ, 1977『脱学校の社会』 p13
想像力も「学校化」されて、価値の代わりに制度によるサービスを受け入れるようになる。
イリッチ, 1977『脱学校の社会』 p13

イリッチは、「制度によるサービスを受ければその価値を得たことになる」ことになった社会や、そのような習慣、思考、想像力を身に着けるきっかけとなる学校を問題視しています。
※これを「価値の制度化」、「学校化」と呼んでいます。

イリッチは「脱学校」といっているが、全部の学校を批判してるわけではないです。

ここからが今回のゼミ生の活動や学びを見て、思い出していたところですが

学校教育の基礎にあるもう一つの重要な幻想は、学習のほとんどが教えられたことの結果だとすることである。
イリッチ, 1977『脱学校の社会』 p32
ほとんどの学習は偶然に起こるのであり、意図的学習でさえ、その多くは計画的に教授されたことの結果ではない。
イリッチ, 1977『脱学校の社会』 p33
われわれが知っていることの大部分は、われわれが学校の外で学習したものである。
イリッチ, 1977『脱学校の社会』 p64
誰もが、学校の外で、いかに生きるべきかを学習する。われわれは、教師の介入なしに、話すこと、考えること、愛すること、感じること、遊ぶこと、呪うこと、政治に関わること、および働くことを学習するのである。
イリッチ, 1977『脱学校の社会』 p64
実際には学習は他人による操作が最も必要でない活動である。学習のほとんどは必ずしも教授された結果として生じるものではない。それはむしろ他人から妨げられずに多くの意味を持った状況に参加した結果得られるものである。たいていの人は「参加すること」によって最もよく学習する。しかし彼らは、自分たちの
イリッチ, 1977『脱学校の社会』 p80

ここらへんはまさに、僕が感じたところ。

え、そしたらゼミでやることって何が大事なんだろう?
僕の役割って何??


脱学校化された社会における新しい教育制度の下の「学校」は、次のような場になるとしています。

●学生に学ぶための時間や意思をもたせようとして彼らを懐柔したり強制したりする教師を雇う代わりに、学生たちの学習への自主性をあてにすることができる

●あらゆる教育の内容を教師を通して学生の頭の中に注入する代わりに、学習者をとりまく世界との新しい結びつきを彼らに与えることができる
「何を学ぶべきか」という問いからではなく、「学習者は、学習をするためにどのような種類の事物や人々に接することを望むのか」という問いから始めなければならない。
イリッチ, 1977『脱学校の社会』 p144

ここに教師の役割のヒントがあります。

学習者と社会をつなげる、教師の役割はhubのような存在、ネットワークをつくっていくことが大切になります。

PBL型の授業を通して社会と繋げることもできると思います。教師が作ったお題に対してやっていくことも大切だと思いつつ、学生自身が探求したいこと、やってみたいことをベースに作っていくことも大事かなと思っています。

そのためには、教師自身がどれだけ外に越境してるかも大事。教師自身が大学の中や同じ研究分野の人だけで固まってたら、ネットワークも広がらなくなってしまいます。

より大学の教師に求められるのは、ドア型人材のような存在ではないでしょうか。

また、コーチングなどを通して一人一人の自主性の部分も大切にしようとしてきました。しかし、イリッチのいう、

「何を学ぶべきか」という問いからではなく、「学習者は、学習をするためにどのような種類の事物や人々に接することを望むのか」という問いから始めなければならない。

ここは、今年ぶれていたなと思います(正直に)。

自分のメンタルモデルやそもそものところ、環境要因などをを振り返ってみると、

今年は法学部経営学部が混ざったゼミの一年目。僕の思考は、共通に必要で身についてほしいものは何か思考に陥っていたこと。

ゼミの存在意義やビジョンは何かが曖昧だったこと

仕組みづくりがふわふわしてしまい、一年間全体の設計ができていなかったこと

ここら辺をクリアにして新年度を迎えられるように学生にも今相談を色々しながら進めています。

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