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気持ちと葛藤、静謐な追憶

 以下を3/29に勢いで書いて、推敲のため下書き保存して忘れていた。

 ローカルな店舗、店員さんやオーナーの顔が見えるような、仲良くなって飲みに行ったりするような、友達に近い近さの店舗を応援したい。無くなって欲しくないし困って欲しくない。
 とはいえ今は飲みに行くべきでは無いのだろう。このところずっと迷っている。
 お店を応援したい気持ちもあるし、自分自身飲みに行って気分転換したいと思ってもいるのだが、下記のような記事を読むとそれが結局悪い結果になったイタリアのケースを考えてしまう。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200329-00340419-toyo-bus_all

 初期段階では「経済を回そう、地域のお店を応援しよう」と積極的に外食したりしていたイタリアはその後まもなく感染が拡大して封鎖。
 日本人と比べてハグをする、良く喋る、マスクをしない、土足といった特徴は強いけど、それだけで流行が決まるわけがない。これらの点が逆なので日本は拡大がゆっくりなのかもしれないけれど、だからといっていつまでも拡がらないわけもない。
 日本は検査数も少ないけれど、このところ発表される数字は今までより角度が急なグラフになっている。経路不明な感染も増えた。 近所で飲んでいて、ふと「こうやって私が飲んでいるうちは感染拡大が収まらなくて、それはつまり夫が日本に来られなくて、私たちは心配し合いながら離れているということだ」と思う。私ひとりの行動だけで決まるわけじゃ無いけれど、選挙のような理屈で。
(※以前noteに書いた夫の在留資格は認定されたのだが、同時にCOVID-19のため封鎖されてしまった)

 東京に暮らしている時点で自分は無症状感染者の可能性があると思っている。で、自分や周囲が平気だからOKって話じゃ無いんだよな、とか。いま実家に帰るかと言われたら絶対に帰らない。それなのにバーに行くのは矛盾してるのでは無いか。

 「行くべきじゃ無い、皆やめよう!」と言っているのではなく、ただそういう考えが私の中で蟠っているだけなのだが、たぶん私は飲みに行くのを止める。でも意志が弱いので言ったそばからふらりと出てしまうのかもしれない。葛藤。

 その後、緊急事態宣言などもあり、近所の店舗は軒並み閉店またはテイクアウトに切り替えている。Facebookなどでも地域の飲食店の個別ページ、またイベント用に用意していたらしき共同ページなどでも頻繁にテイクアウトの案内を見かけるのは心強い。よく行く呑み屋は自分の利用しているキャッシュレスで振り込みができないので、休業前に立ち寄った際、普段は気にもしなかったチップ入れにビール3杯分を押し込んできた。

 テイクアウト営業をしている中で行ったことのある店は意外と多くなく、また言葉通り「行ったことがある」くらいの店も多い。ランチや弁当だけでなく晩酌のおつまみセットなどがよく売られている。食事は基本的に自炊だし、晩酌の習慣が無いのでまだ買ったことがないけれど…。夫がここに居たら買って、家で呑んだだろうな、と想像する。そうなると洋風の総菜よりも、日本酒屋の和食や燻製なんかを食べたがりそうだし、チーズやピザを買おうとすると漫画のように呆れた表情をして見せるのが目に浮かぶ。

 イタリア在住の夫の日本での在留資格は無事に認可されたのだが、時を同じくしてイタリアでロックダウンが始まり、いまやイタリアだけでなく欧州のほぼ全域が日本人・特別永住者以外は入国拒否となってしまったため、日本に来るめどは経っていない。私の住所に届いた書類をイタリアに送った少しあとにはEMSの受付すら止まってしまったので、送付が間に合っただけ運がよかった、と思うことにしている。
 夫も親族も元気にしているので幾らか安心ではあるが、4月の終わりには日本に来るつもりだったので、先が見えないことに時々すこし参ってしまう。

***

 須賀敦子さんという方を最近まで知らなかったのだが、たまたま少し前に書店で見かけた河出文庫の「須賀敦子全集」を頭のほうから1冊ずつ買って読んでいる。エッセイ集をさらにまとめたもので、日本での学生時代、フランス留学、ローマ、ミラノに行って出会ったミラノ人と結婚、北イタリアでの生活、夫を亡くされた後のイタリアでの暮らし、日本に帰国してから、描かれる時代や社会は多様だ。自分や、友人や、友人とは呼べない程度の間柄の様々な人や、家族のこと。
 須賀さんの文章はどこまでも静かで落ち着いていて、理性的にあったことを語る。「もう、むかしのことだから」とでもいうように。
 その時から何十年も経って語るからこその静謐さなのだと思う。あるいは手が届かなくなってしまったいろいろなことは、そうやって受け止めるしかないのかもしれない。

 夫を亡くされる前、それこそ結婚された直後から、突然の喪失への不安に駆られるのがときどき書かれている。特に明確な理由や根拠があるわけでないその感覚は、私のなかにも常にある。須賀さんの場合は実際に早くに亡くなってしまったことで、虫の知らせだったのか・予感していたのかというような信憑性のようなものを持ってしまったのかもしれない。

 不安に駆られると悪いほうへと考えてしまいがちなのだが、明るいことを無理に考えようとするより、良いことも悪いことも、何があっても何十年か後になればこんな風に静かに思い返すことができるようになるといい、とエッセイを読みながら思う。

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