ゆかt【日本史小ネタ】

歴史小ネタ、創作@奈良 note連動の軽め歴史投稿時々うまいもんをインスタにあげてま…

ゆかt【日本史小ネタ】

歴史小ネタ、創作@奈良 note連動の軽め歴史投稿時々うまいもんをインスタにあげてます→yuka_t220410 ゆかt【歴史が苦手なキミ達へ】

最近の記事

皆さまお久しぶりです そもそも神武天皇の東征の目的は何だと思いますか? 何故国を出たのか、その目的地が、何故大和国だったのか 改めて不思議に感じました

    • 今後、歴史ネタはインスタのみの投稿に変えますね 毎日更新していますので、よろしければ覗いてくださいませ yuka_t220410 です noteにはまた別の形で戻ってくるかもしれません

      • 鏡の媛

        父親の崇神天皇から、笠縫邑にて天照大神の奉祀を託された豊鍬入姫命 彼女の母方は、紀伊国日前神宮・國懸神宮を祀る一族(紀国造)と言われている 日前・國懸神宮は神武天皇東征と関わりがあるがそこは今回割愛 それぞれに、日像鏡(ひがたのかがみ)、日矛鏡(ひぼこのかがみ)を御神体にしており、これらは天岩戸の折に、八咫鏡と共に造られたとの伝承がある つまり豊鍬入姫命は、血筋からして、天照大神を祀るにふさわしい人物だったわけである 笠縫邑の最有力推定地とされる檜原神社 豊鍬入姫

        • 定慧。その名を使わねばならなかった

          多武峰、談山神社は前身を妙楽寺という 開基は、藤原鎌足の長子、定慧和尚とされている が、定慧は鎌足より先に亡くなっている 談山神社に限らず、定慧を開基とする寺は、聖林寺はじめ多武峰に多数ある 恐らく真実は、鎌足の次男である不比等が僧侶達に指図して、多武峰を藤原氏の信仰山に整えたのだろう 何故、定慧の名に固執したのか 定慧は、孝徳天皇の落胤との説もある これに則るならば、 「定慧和尚は実のところ私の兄ではなく、畏れ多くも皇子。せめて、藤原の寺社は全てその御名の下に

        皆さまお久しぶりです そもそも神武天皇の東征の目的は何だと思いますか? 何故国を出たのか、その目的地が、何故大和国だったのか 改めて不思議に感じました

          藤原鎌足〜人から神へ

          飛鳥の大原で生まれたという中臣鎌子 宮廷祭祀を司る父の血と 宮廷警護の母(大伴氏)の血 長じるに従い秀才との誉れも高く、家業を継ぐ道程で神祇伯に命じられた ところが、鎌子はこれを断ってしまう 良い子と思っていた鎌子の突如の反抗に、親族一同はさぞかし困惑しただろう。何が気に入らぬ?と聞けば、 「寿詞(よごと)は誦じられる。が、面白くない」 父親の御食子(みけこ)の没年は不明だが、もし存命だったならば、さぞかしいきりたったに違いない 自分が何の疑念も持たずに継ぎ、真

          藤原鎌足〜人から神へ

          役行者の誕生地

          役行者小角の誕生地は2ヶ所伝承されている 奈良県御所市の吉祥草寺 奈良県大和高田市の福田寺行者堂 鴨氏の地盤から察するに、私は前者だと思ってきたし、後者は後世の伝承色が深いのだけど、実際に福田寺に行ってみて気づいた 2ヶ所はほぼ真っ直ぐ直線上に位置しており、4キロ程しか離れていない もしかすると福田寺も鴨氏の勢力範囲だったのではないか、と思う となれば、現代の御所市を中心に北は大和高田市、南は五條市北部までを含む、広範囲が鴨氏の地盤になる ちなみに鴨氏の影響の名残

          謀反の謎Case2.有間皇子

          孝徳朝を支えた左大臣阿部倉梯麻呂と右大臣蘇我倉山田石川麻呂 倉梯麻呂が死没し、時を置かずして、石川麻呂は追討された 時は流れて、倉梯麻呂の孫、有間皇子が謀反を起こす この時 有間皇子は阿部氏を頼った形跡がない 母方の一族なのに何故? 頼らなかったのか、頼れなかったのか いや むしろ 有間皇子が謀反を起こしたのか 有間皇子には、孝徳天皇の近臣が多く従っていた 私は、彼らが有間皇子を担ぎ上げたのではないかと思う 主君への忠義がそうさせた結果、有間皇子は犠牲になっ

          謀反の謎Case2.有間皇子

          謀反の謎Case 1.蘇我倉山田石川麻呂

          蘇我倉山田石川麻呂は大化の改新の立役者として、右大臣の地位に就いていた しかも、皇太子中大兄皇子の舅にもあたる その石川麻呂が、中大兄に対する謀反の科で追討され、自身の氏寺で自害に追い込まれてしまう 中大兄(及び中臣鎌足)が、邪魔になった石川麻呂に濡れ衣を着せて殺したとの推察が長らく受け入れられてきたけれど 舅と婿の関係から、本来味方である石川麻呂を中大兄が殺す理由が見当たらない また 皇太子への謀反という不自然さ 謀反とは、国家転覆の罪を指す つまり、孝徳天

          謀反の謎Case 1.蘇我倉山田石川麻呂

          飯豊青皇女の宣言

          角刺宮の池を鏡代わりにしていたという、飯豊青皇女 身だしなみを気にする、普通の女性だった皇女が、初めてまぐわいをした後 「人並みに女の道を知ったけれども特に変わった事はない。もう男性と交わりたいとは思わない」 と語った言葉が日本書紀に載っている SEXの感想を、正式記録に掲載されてしまった皇女を、私は長らく気の毒に感じていたけれど 正式記録だからこそ 掲載しなければならなかったのではないか と、角刺神社に行ってふと思った 飯豊青皇女は、実は叔母と姪、2人存在したので

          疫病と四道将軍

          崇神天皇は疫病が流行った時、大物主神(三輪山)はじめ、八十万(やそよろず)の神々の祭り場を整えた その内、明確に対をなしているのが 墨坂神と大坂神 墨坂神には赤の盾と矛を八つ 大坂神には黒の盾と矛を八つ捧げた 墨坂神は宇陀市の墨坂神社 大坂神は香芝市の山口神社 大和国の東西境である 赤と黒というのが如何にも呪術的であり、いわゆる塞(さい)の神として、疫病の侵入を塞ぐ為の祭祀だったと思われる一方 実は四道将軍派遣の前準備だったりして‥‥ 軍隊を出立させる拠点になり得

          土佐街道

          高取城城下町としての情緒溢れる土佐街道 その地名起源は案内板によると 飛鳥京の造営労務に駆り出されたものの、帰国の費用を捻出出来なかった土佐国の人々がこの地に住み着き、故郷の名を付けた事に始まる ここで疑問 労役は古代の税の一種であり、その往来の費用など保障していなかった筈 つまり 故郷に戻れなかったのは、土佐人に限らなかった そして 飛鳥近隣の高取に住み着くという事は、国からその地を正式に賜ったと考えるべきではなかろうか 他国の人々にも同じ処置をしていたのでない

          託宣の神様

          葛城一言主神社は今ではすっかりパワースポット 一言の願いを叶えてもらえるという しかし古事記初出の一言主神の名乗り「吾は悪しき事も良き事も言離(ことさか)の神」を素直に読めば、願いを叶えるというよりも、託宣の神 一言主を伏して拝んだ雄略天皇は、何かしらの託宣をもらったのだろう そして葛木氏を滅ぼし、その生き残りの媛を妻に迎えた 一方の一言主神は時代が下るにつれて伝説に装飾され、役行者に使役されたり、土佐国に流されたり、醜いと容姿まで決めつけられてしまう 一言主神に

          インスタでの毎日歴史ネタ投稿は軽めでいくつもりが、最近まあまあの深掘りになってきた為、noteへの投稿は益々減っていくかもです

          インスタでの毎日歴史ネタ投稿は軽めでいくつもりが、最近まあまあの深掘りになってきた為、noteへの投稿は益々減っていくかもです

          天武天皇と役行者

          天川村へ先週観光に行った 吉野の奥へ行けば行く程案内板には役行者と共に、天武天皇の名もよく出てくる 即位後に寺社整備に乗り出した天武天皇は、壬申の乱で世話になった吉野方面にも手をかけている だがそれはつまり 鉱脈と玉石に溢れた吉野を、天皇家の権威下に置くこと 公(きみ)という姓を受けるほどに真っ当な官人だった役行者が、修験道の開祖と仰がれるまでに山野に入り込んでいたのも、その辺りに理由があると考えている #日本史 #天武天皇 #修験道 #吉野

          白鳥伝説

          多くは日本書紀の3箇所で語られるけれど、私は古事記の能褒野と志紀2箇所だと考えている 更に言えば この伝説作成したのは、九州征伐と三韓征伐を決行した神功皇后とその子の応神天皇だと思う ヤマトタケルの息子(と言われている)が神功皇后の配偶者である仲哀天皇 つまり応神天皇はヤマトタケルの孫 九州にしろ朝鮮にしろ、瀬戸内海への入り口である河内を押さえる必要がある 自分達の祖である英雄ヤマトタケルを伝説の形で河内に据えたのではないか 一方、日本書紀は大和王朝視点から、白鳥を琴

          神武天皇即位地

          それは奈良県橿原市ではなく、奈良県御所市柏原の地だと私は考えている 柏原には神武天皇社があり、そばには国見をしたというホホマ山があり、神武天皇の前妻を祀るホホマ神社もある 単純に地名の呼び方が同じというだけでなく、 ・橿原の地に宮を置くには、大和国を完全に平定していなければ無理(でなければ、四方の山に住む先住民に総攻撃される) ・神武天皇が橿原に居たとするのに、その後欠史八代の宮は橿原から追いやられている ・鴨氏は、神武天皇の一軍であったか、味方した可能性があり、葛城地方