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「ありがとう」と「ごめんなさい」が素直に言える人でいたい


「ありがとう」と「ごめんなさい」が素直に言える自分でありたいな、と、最近よく思う。

実際、話していて気持ちの良い人は、本当に軽やかに、この「ありがとう」と「ごめんなさい」を使いこなしている。

ちょっとしたことでも「ありがとう」と言われると嬉しいし、自分ではそこまで何かしてあげたつもりはなくとも、そんなことに気づいてくれたんだ、と思って嬉しくなる。

「ごめんなさい」は、つい連発してしまう人も多いけど、自分が悪くもないのに、不必要に言う必要は無いと思う。けれど、自分が迷惑をかけたなと思ったら、ちょっと口添えするだけでもコミュニケーションが円滑になるのではないだろうか。

謝ったら負け、な欧米の文化は、ニュアンスが変わるので別かもしれないけれども、少なくとも日本では「ありがとう」と「ごめんなさい」が素直に言えるって、人として大事なことだと思う。


逆に、「ありがとう」と「ごめんなさい」が全然言えない人というのがいる。

その人たちを見て感じることは、

他人に何かをしてもらって当たり前。
自分は決して悪くない。

このスタンスを貫いているように見える。

そして、その人たちは、自分がなぜか絶対的優位に立っていると言うふうに勘違いしているのか、そういう姿勢を崩さない。謙虚さと真逆ね。

ちょうど現在、そういう感じの人に悩まされていて、世の中意外と「ありがとう」と「ごめんなさい」が言えない人が多いんだなと実感しているところだ。

そういう人といるととても不快なので、「人のふり見て我がふり直せ」と、せめて自分は今までよりもずっと、人に「ありがとう」と「ごめんなさい」を素直に言える自分でいようと心がけている。

そのスタンスは、わが子に対しても同じだ。

親は人生の先輩ではあるが、絶対的な権力者ではない。大人だって間違える。間違えまくる。

そして子どもには、適切なときに適切な場所で「ありがとう」と「ごめんなさい」が言える人でいてほしい。もちろん、譲れないところは譲ってはいけない。

子どもに、そういう人間に育ってほしいと思ったとき、何をしたら良いかと考えた。そのためには、自分がそれをやって見せることだと思った。結局、口で何を言っても、子どもは親の言動をコピーする。

うちの旦那は再婚で、もうすっかり成人した前妻との息子がいるのだが、その子と旦那の口調や口癖がそっくりで驚いた。

彼はすでに結婚しているので、彼の奥さんとわたしが女子トークすることがあるのだが、ケンカの仕方や、地雷ワード、怒ったときの態度、お金の締まり屋具合も同じで、息子さんの奥さまと愚痴の共通点が多すぎて笑ってしまった。こうも親子は似るものなんだ、と実感した。

親子の生態とその先の成長を客観的に見る機会ってあまりないのだけど、リアルな例を見て、やっぱり子どもって親を見て育つんだなぁと思った。だからわたしも、なってほしい姿を、自分が見せないといけないな、と思った。

だからわたしは、もしかしたら子どもに対するときに、一番謙虚かもしれない。私がなにか息子に迷惑をかけてしまったり、ひどいことを行ってしまったなぁと思った時は、素直に謝るようにしている。

当然、何かしてくれたときにも、すべて「ありがとう」と言ってキャッキャと喜ぶ。それはただ私が息子ファンなだけでもあるのだが、きっとそういう親の姿を見ていつか、他人にそれを還元してくれるのではないかと期待している。

私に還元しなくてもいい。誰か他の人に還元してほしいのだ。前に書いたペイ・フォワードの事ね。

時々、親は絶対的権力者みたいな家もあったりするみたいだけど、親だから偉いっていうのもないし、先生だから偉いっていうのもないし、政治家だから偉いっていうのもない。

テレビを見ていると、偉い人が偉そうにして罪を認めず「記憶にございません」とか言っちゃってるし、どこかの牛丼屋の社長は、令和の時代にありえないセクハラ問題発言して辞任してるし、いったいどうなっているのかと思う。

偉い人、年長者、リーダーほど素直に謙虚にならなければならないと私は思うし、「ありがとう」と「ごめんなさい」を素直に言えるようになるべきだと思う。

ていうか、それができるだけで、世界に平和が訪れるんじゃないかと思う。いやマジで。

私は別にリーダーでもなんでもないし、住宅街に住む、ただのアラフィフ主婦だ。だけど、自分が自分を好きでいられるように、「ありがとう」と「ごめんなさい」を素直に言える、謙虚な人間でありたいと思って生活している今日この頃だ。

今日もお読みくださりありがとうございました!

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