狂気に関して、細雪、大江健三郎とアドルフ・ヴェルフリ

2日前に図書館で大江健三郎の『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』と谷崎の細雪を借りて同時並行で読んでいる。

大江健三郎の方は言わずもがな狂気を扱った話で、と言ってもまだ途中までしか読んでいないが近親者が発狂して、狂気の遺伝子を受け継いでいる恐怖を感じ、谷崎の方は丁度その時読んでいた箇所が雪子の縁談の相手先の母親が精神疾患であるということがわかり、狂いの遺伝子を自分たちの責任で引き受けられないと、断ったところで、アドルフ・ヴェルフリ展をみにいった。

すべてたまたまこの狂気が重なったところでのアールブリュットの作家の展示であった。

現代にもまだこの狂気の遺伝子といったような概念は残っているのだろうか。自分自身はそういった思想は持ちあわせておらず、精神疾患や脳の病気に恐れを感じることや、近親者がそうであったら苦労はあるだろうということは何気なく考えるものの、両者に共通するような恐れ、とか忌諱するといったことはまるで感じないし、特に細雪を読んでいると、多々古い時代の迷信とかしがらみとかが出てきてうんざりするのはこの狂いに関してのくだりだけではないが。

ところで、こういったマイナスイメージのなかの狂い、狂気ではあるがアールブリュットのほうの扱いではむしろ逆なように思われる。すなわち、作家は狂気に近ければ近いほどよく、その神がかり的な特徴がより推し進められ、決して凡人の届かぬ領域により達することができる。こういったアールブリュットの作家の存在は近代以前ならば芸術、宗教の主役だったことは疑いの余地がないように思える。まことに近代までの文化を作り出してきたのは大きな人の塊などではなくて、ほんの一握りのそれに人生を捧げたような、狂気のなかの人間の手によって成し遂げられた技の集積なのだろうな、とういうことを考える。

狂気にたいしての個人的な所感といえば、わたし自身もものをつくる人間なのでほとんど狂気にたいして憧れている側面がある。

自分もいつか狂ってみたいと思う。(おそらく、ボケることはあっても、狂いに傾く要素は自分には少ないだろうが。)アウトサイダーに憧れているのだ。アウトサイダーに憧れるのはものづくりの人間でなくても、中途半端に自分自身に不具を感じていたりするひとは一度はあるかもしれない。あるいは周囲の関心を引くために狂っているふりをする。

aphex twinのインタビューで有名になりたければ狂ったふりをすればいい、といったようなことを言っていて、そのながれで戦車を購入した話を続けていたように思う。うろ覚えであるが。戦車は購入できないが、こういうタイプの狂ったふりは、わたしのまわりにもずっといて、これが下手くそだとしらけてしまうが、うまいと周りの人気と興味をひく格好のものとなる。

狂いというものがずいぶん身近に感じているので、二つの文章に対する違和感というものは強かったが、�身近に感じている以上、本当の狂いではないのはたしかで、狂気というものも作られたものにすぎない、という見解もあるが果たしてどうなのだろう。いずれにしても狂気に関しての記述や、ヴェルフリに関しての叙述を読んでいるとどうしても自分には到達できないような場所にいるな、という感じはする。その到達できないような感じ、というものを周りが共通認識としてもったばあいにその人は狂人である、となるのだろう。


関係のない話だが細雪では、しょっちゅう女は病気になるが、本当に精神状態を悪くさせるような時代であると思った。

狂いえせず、という漫画が昔あったが、内容はちがうが、その言葉が、様々なほだしのために、狂うことも、自害することもできないような人間を想像させる。細雪は男が書いているからあの重苦しさと愚かしさのなかでも平気なように描けるのだろうか。

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