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静かになるからと、子供にYouTubeを見せるのはなぜいけないのか

私たち人間には、他の生物と違い、言葉がある。言葉は何のためにあるのか。未来の人のために記録を残したり、得た知識を仲間で共有したりするなど、様々な目的があるけれど、何よりも、コミュニケーションのツールとして、言葉はあるのだと思う。

コミュニケーション能力は、人間が社会的動物である限り、必須の能力。考えや思いを伝えたり、また受け取ったり。もちろんそれらを態度で示すこともあるけれど、言葉によるコミュニケーションの占める割合は大きい。

小さい子がどのようにして母国語を覚えていくかと言うと、やはり基本は会話だ。それも親、家族という一番近しい人との会話を通じて。様々な表現やパターンをそこから学んでいく。その言葉で合っているかどうか、どのような場面で適切か、抑揚や速さ、声の高低でどんなふうに伝わり方が変わるのか。私たちは、そのほとんどを教科書で習うのではない。

ところが YouTube やテレビのような一方通行の話は、会話の練習にはならない。相手とコミュニケーションが取れていないからだ。

私たちが英語を学ぶために、外国人同士が話をしている場面、例えば映画のシーンをたくさん見て、英語を勉強できるのはなぜかと言うと、最初に母国語で同じ場面を体験しているからになる。

怒っている時の「怒っているわけじゃないよ」は実は怒っていることとか、亡くなった友達に「またね」という意味とか、文字情報だけでは理解は難しい。
以前「ゲームしてもいいよ。宿題終わったしね」と言われ、逆切れして母親に暴力をふるった事件もあった。「終わったしね」が「終わった。死ね」と聞こえたらしい。私たちにはそうは聞こえないのは、そんな文脈で「死ね」という言葉を使わないということを、膨大なコミュニケーションを通じて知っているからだ。

そんな複雑な例でなくても、基本となるコミュニケーション方法を、たくさんたくさん学ばなければいけない乳幼児期に、一方通行の YouTube を見せることは、その時間の分、子どもは大人とコミュニケーションの練習をしていないことになる。つまり、せっかくコミュニケーションを学べる機会を失っていることになるのだ。

静かになるからと、子供に YouTube を見せるのは、なぜいけないのか。

公共の場所で静かにさせる。そんな時こそ、親子のコミュニケーションの大チャンス。親はどのようにしたら小さい子に社会のルールを覚えさせるのか学ぶチャンスだし、子どもはどうやってそのルールや退屈の回避方法を得るのかを学ぶ。むしろ、そんな時こそ、コミュニケーションの出番なのだ。

一方通行の情報を受け取るだけの幼児期の過ごし方は、精神の発達に悪い影響があるという研究結果も出ている。なぜ、わが子だけは、そこに該当しないと思うのか、子どもにYouTubeを見せている親は、きっと、まっとうな言語で説明できない。

だって、静かになるんだもん

これが、全くその答えになっていないことに気づかないのだ。

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