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とびきりの無為を愛した日々と、夢追い人が集う町の話

はじめての一人暮らしを始めたのは、ご多分に漏れず大学進学のタイミング。18歳の時だった。

第一志望だった京都の私大に受かったのは良かったが、かなしいかな、当人を含むだれもが合格を確信できていなかった。
そのため、合否発表の直後から突如、新生活に向けてのあわただしい日々が始まった。

母とともにネットで様々な物件を見漁り、実際に京都へ足を運んで部屋を決めてから、家電をそろえて家具を見つくろい、引っ越しを終えるまではあっという間だった。
正直、感傷にひたる暇すらなかったように思う。

引っ越しの翌日に大学の入学式を終え、両親と二人の弟とともに、6畳のワンルームで車座になってすき焼きの鍋を囲んだ。

配膳や後片付けをてきぱきとこなす母の姿は、実家にいる時となんら変わらなくて、ここが実家ではないのだということが不思議に思えてならなかった。
そもそも、住み慣れたあの家をわざわざ「実家」と呼びならわすこと自体、まだこそばゆく感じていた。

「それじゃ、行くから。体には気を付けてね」

父と弟が先に部屋を出て行ったあと、玄関のドアの向こうで母は、はだしで三和土に立つわたしの手を握ってそう言った。

自分で決めたことなのに、わけがわからないくらいわたしは泣いていた。
いよいよこれから一人きりでの生活が始まるのだということがさびしくて心細くて不安で不安で、到底やっていける気がしなかった。

「大丈夫よ、やっていける。なんかあったらすぐ言って」

情けない娘を鼓舞しながら笑顔で立ち去った母が、帰りの車の中でずっと泣いていたのだということを父から聞いたのは、それから1年以上が経ってからのことである。

家族が帰った翌日にさっそく発熱するという一人暮らしの洗礼とともに、わたしの新生活は幕を開けた。

それから丸三年後の春、ふたたび実家に戻るまでのわたしの身に起こったできごとは、あの部屋のみぞ知る部分がじつに多い。

昼夜逆転あたりまえ、いかにも大学生らしく自堕落な生活を送り、ほとんどいつも盲目的な恋愛の渦中に身を置きながら、文章を書く仕事にあこがれて一生懸命にエッセイを書き綴ったり、時に創作と向き合うことの恐ろしさに耐えかねて逃げ出したりと、ほかでもない自分のためだけに、時間を湯水のごとく使っていたあの三年間。

考える時間はいくらでもあった。
決して豊かなわけではなかったが、両親からの支援のおかげで金銭的な困窮に陥ることもなく、あれほどに無為で贅沢な時間はこの先も二度とやってこないんじゃないかと思っている。

京都がとても好きだった。

古きと新しきが絶妙なバランスで融合した文化的な街。
心の底からこんなに好きだと思える街にこの先いったい何度出会えるだろうかと、住んでいる間じゅうずっとそう思っていた。

歴史上の有名建築物だとかおしゃれなカフェといった記号的なものよりも、街全体に漂うその空気感が好きだった。

心もとないほど自由で、どんな人にも寛容で、でも何も考えていない人間は容赦なく置いてけぼりをくらいそうな、かすかな緊張も張りつめていて。

あちこちにはじまりの予感が満ちていた。
きらきらしたものがそこらじゅうに溢れ、でもそれとおんなじくらい、だらだらした時間も至るところで流れているのだった。

そこには、生まれ育った故郷でも感じることのなかった「呼吸のしやすさ」があったように思う。

2019年2月某日。

大学卒業後に東京で就職することを決めたわたしは、部屋探しのために上京していた。

「とにかく、ええ感じの町に住みたいんです!」

トイレ・バス別、オートロック、駅から5分以内、日当たり良好、新築、2階以上、エトセトラ。
理想の条件を挙げつらねるときりがなかったが、初任給の額面を考慮すると、おのずと借りられる部屋は限られてくる。

ならばいっそと思い切って絞った時に、もっとも上位に残った条件は「ええ感じの町」に住むことだった。

その思いの原点となったのは、京都で過ごした三年間の記憶だった。

一人暮らしをするなら、またあんな感じの街に住みたい。
うまく言語化できる自信はなかったけれど、ずっとそんな風に思っていた。

そんなぼんやりした条件と予算をもとにいくつかの物件を用意してもらい、和室や女性専用などを省くうち、手元に残るのは2つとなった。
1つは荻窪、そしてもう1つは高円寺の物件だった。

「荻窪は、どちらかというと落ち着いた雰囲気の町ですね。
丸ノ内線の始発なので、ラッシュの時間帯でも座って通勤できるのが魅力です」

町にこだわるなどとほざきながら、なんの下調べもしてこなかったわたしに向かって、担当者は丁寧に説明してくれた。

「高円寺は、飲食店や古着屋さんがたくさんあって、若者に人気のある所ですね。
ミュージシャンとかも多くて、夢追い人の町、って感じの」
「えっ、そういうのすごく好きです」

かなり食い気味だったと思う。
思えばあの時、「夢追い人」というワードを聞いた時点で、すっかり高円寺に心を奪われてしまっていたのだ。

その後、さっそく内見に向かった。
案内された3階の角部屋には、光がたくさん入ってくる大きな窓が二つ。
よく晴れた日だったから部屋はめいっぱい明るくて、じつに感じよく見えた。

リフォームしたてだという水回りもきれいだったし、緑と青を混ぜたような淡い色の収納扉もかわいくて素敵。
居心地の良さそうな、こぢんまりとした6畳のワンルーム。断る理由が見当たらなかった。

「ここに決めます」

生まれてはじめて、自分の力で借りる部屋を決めた瞬間だった。

とはいえ、初期費用もろもろ、新生活に必要な家具類は、ちゃっかり親に甘えさせてもらったのだけれど。

またしても発熱とともに新生活の幕開けを迎えながら、(親に頼るのはこれが最後、本当にありがとうね……)と心の中で拝んだのであったが、しかしわずか半月でその決意はあっさり破られることとなる。

慣れないことの連続で、毎日へとへとになっていた4月後半のある日。
貯金残高とクレジットカードの請求額を見比べて今月の家賃が払えないということに気づき、わたしはスッと血の気が引くのを感じた。

何度計算しなおしても、足りない。
よもや不正請求では、と思うもカードの利用内容はどれも心当たりのあるものばかり。
学生最後の春休みという大義名分のもと遊びまくった先月の自分を強く呪った。

「ごめんなさい、実は……」

泣く泣く金の無心をする娘に、「もう社会人やから、じゃあこれは貸しね」とけらけら笑いながら母は承諾してくれた。
そうして翌日振り込まれたお金をもってして、家賃滞納の危機を免れたのだった(と、しっかり覚えているにも関わらず、まだ返せていないのはないしょの話)。

しかし、真に親の偉大さを痛感するようになったのはそのあとである。

週に5日間、朝から晩まで働いてようやく手にするお給料。
そのおよそ半分が、家賃・光熱費・食費といった最低限の固定費で容赦なく吹き飛んでゆく。
まるで嘘みたいに思えるが、毎月、毎月そうなのである。

ぱりっとした仕事着が欲しい。
社会人らしい鞄や名刺入れを持ちたい。
月に一度は美容院に行きたい。
きれいなネイルで指先を飾りたい。
スタバのラテを片手に出勤したい(かっこいいから)。
友達との飲み会はケチりたくない。
中央線沿いのカフェをもっと開拓したい。
貯金だって少しはしたい。

そんな欲望を気の赴くままに叶えようもんなら、もうあっという間に破産である。
というか、赤字まっしぐらである。

健康で文化的な最低限度の生活+ささやかなα、それも自分ひとりぶんだけでこんなに精いっぱいなのに、そこへ子どものぶんまで加わるなんて、到底、到底信じがたいことだ。

断っておくが、わたしの両親はバリバリやり手の経営者でも、代々受け継ぐ土地持ちでもない、ごく一般的な勤め人である。

今のわたしとおんなじように毎日まいにち勤めに出て、毎月決まった額のお給料を受け取って、これまで何不自由のない生活をさせてくれたのだ。

勿論、これまでも折に触れてお礼を口にしてはいたけれど、そのありがたみを痛感するようになったのは、社会人デビューを果たして数か月が経過してからのことだった。

自分で自分を食わせること。
自分で住まいを確保すること。
煩雑な手続きやめんどうな雑事もすべて、自分の力でまかなうこと。

うんざりするようなくり返しの日々に倦むことなく、投げ出さず、辛抱強く向き合って楽しさすらも見出しながら、当たり前のようにそれらをこなしていた両親。

本当はいつかの結婚式まで取っておきたい気持ちだったけれど、先だって話した時に想いが極まりついこぼすと、電話の向こうで彼らは照れたように笑っていた。

今のわたしの考えかたや価値観を形づくり、一生ものの友人たちと出会ったあの街に住まわせてくれたことは、これまでの人生の中でも最大級の感謝に値するできごとだったと感じている。

心がとびきり敏感でやわらかいあの時期に、京都で過ごした日々があったからこそ、今もわたしは、わたしのままでいられるような気がしてならないのだ。

不安に押しつぶされそうになりながら上京したあの日から、およそ9ヶ月が過ぎた。
新卒で就職し、その後転職を経て、ようやく社会人としてどうにか形になってきたような気がしている。

一日の仕事を終え、高円寺駅のホームに降り立つ瞬間が好きだ。
南口を出た先の、たのしい商店街が好き。ほどよい活気に満ちた雰囲気が心地良くて、つい遠回りをして通ってしまう。

ああ、この町に住めて嬉しい。

そういえば、高円寺に遊びに来た大学時代の友人はみな、口をそろえて「なんとなく京都に似てるね」と言うのだった。

祈るような気持ちで過酷な通勤ラッシュをやり過ごしながら。
お手本みたいにきれいな女の人たちに日々圧倒されながら。
キラキラタウンに位置するオフィスで文章を練り出しキーボードを打ちながら。
割引になったお総菜を見比べてスーパーをぐるぐる回りながら。
三歩ごとに後ろを振り向きつつ夜道を早足で進みながら。
ひとりきりのワンルームで孤独に耐えかねて途方に暮れながら。

実際、今もあの頃とそう変わらず、いつだってぐらぐらしている。
そんな日々の中で、厭になるほど自分のなかみを見つめ続けていた女子大生のことを何度も思い出す。

そして、不安定で頑固な一人娘を、黙って応援し続けてくれる両親のことも。

「いつでも帰ってきてええんやからな」

会うたび、話すたび、いつもさりげなく添えられるその言葉。
その言葉をおまもりに、今日もわたしは東京で、自分の力で生きている。

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