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お代はラヴで結構。

 くの人が名前くらいは聞いたことがあるだろう『あの宗教』に、つい引っ張られてしまったのは今から十数年前の二十代の頃、人生にもっとも思い悩み、無職でフラついていた時のことだ。その時期は精神的にあまり安定しておらず、どうにかして後ろめたさや戸惑い、焦燥などの入り混じった漠然とした不安から逃げてしまいたかった。『今、ここ』ではない『どこか』に、より良い希望があると、その時は本当に考えていたんだ。恥ずかしながら。
 心が弱っている時ほど聞こえの良い言葉に強烈に憧れ、そこにこそ本当の幸せだとかこの世の真理の『全部』があると錯覚してしまう。いわゆるスピリチュアルに傾倒していたのも同じ頃で、珍しいカタカナ語にすがっていればより特別な何かになれると信じていた。今にして思えばずいぶん踊らされたものと思う。けれども踊らされるのだって踊る余力あってこそ、そこそこ長い期間にわたって失われたままだった自分の力を取り戻せた、と勘違いできていた時間というのはそれはそれで充実したものだったし、当時の私にとっては、その後の本当の再起のために必要な時間だったように思う。

 1年くらいを経て社会復帰したあと、ある程度の活力が戻ってきて精神的にも安定してくると自分からそれらに関わっていくことはなくなった。自分にとっての幸せは『あの辺』には無さそうだと気がついたからだ。以来、神秘思想や宗教とは少し距離を離して、神社や仏閣への参拝や冠婚葬祭といった習慣としての仏教・神道とか、雑学・一般常識としての聖句、たとえば『目から鱗が落ちる』なんかを知っておくに留めている。
 そのような事情もあって、熱心な宗教家、敬虔な信者といった人と関りを持つこともなかろう……と、考えていた。

 したらンなこと考えてた矢先に真理花さんにフォローされたから人生ってのはおもしろい。なるほど人の身で勝手に縁遠いことにしてみたって天意からすりゃ小さな話、今このタイミングで知り合うべき人とは知り合うようになっているらしいね。

『大川隆法著作愛好家』。いちばん目につくところに書いてある一文だ。これがもし、怪しいキャッチセールスみたいな勢いでグイグイ信仰を押し付けてくるタイプの相手だったらやっぱり距離を取っただろう。けれどもこの人は無理に他人を巻き込もうとせず、優しく真摯であり、あくまで自身の願いのために発信を続けている。師の言葉や功績について――ひいては、愛について。

 自身は大川隆法という人物についても、また彼の思想についてもほぼ何も知らないのが正直なところだ。で、たとえ誰の言葉であっても、いきなり一から十まで鵜呑みにすることは避けることにしている。宗教や神秘思想の場合は特にそうで、目に見えないもの、いまだ万人が一様に理解できる形で証明されていないものを『誰かがそう言っていたから』という理由だけで、『誰か』の言葉がその事柄の全てであると信じるのは、時として危うい。
 そういうわけで天国とか地獄とか霊界とか使命とかの『ザ・宗教』といった部分については、私からは言及しない。存在を信じてないではないものの、存在する・しないと『真実・本質がどこにあるか』とはまた別の話だ。

 かしながら真理花さんによって引用される大川隆法氏の著作の一文を見た感じ、自己成長であったり、より心豊かな日々を過ごすための考え方であったり――要は『人としての生き方』の部分について、大きく外れたようなことを語られてはいないのかな、とも思う。人間としての毎日が修行である、という前提はあるにしても、はたから見て明らかに特異な修業行為などが横行している雰囲気は、noteを眺めている分には感じられない。言葉を言葉として捉えておく分には、氏の思想が一時の救いになる場合もあるんじゃなかろうか。かつて私が別のところで経験したのと似たように。

 ヒトが生きてる限りは誰しも幸せになりたいと願っているだろうし、そのための要素として不可欠なのだとなんとなくでも分かっているから常に愛が語られる。目指すべきところがそれなりに似ているなら、過程や道程が少々違ってみてもそっちの方が面白いだろう。自分と違うモノを対立のタネにしてしまうのは勿体ない。
『今、ここ』に、ちゃんとラヴはあるかい――なんてね。

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