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ママのこと6

こんにちは ゆかっぱです。
ちょっとご無沙汰してしまいましたね。

先月、ひょんなことから
チャネリングをして頂く機会がありまして。

私のガイドさん曰く
私は自分が楽しいことをしていることで運が回ってくる。
文章を書くことはとっても向いている。
とのこと。

そして
ガイドさんからの宿題をいただきました。

ママのことだけでなく
私自身のことも書きなさい。

とっても難しい宿題で
立ち止まった数週間ですが
勇気を出して 一歩踏み出してみようと思います。
近々に「私のこと」も掲載していくつもりです。
そちらの方もよろしくお願いいたします。

 その後のママはすっかり人気者となり
お店で「チーママ」と呼ばれるような存在になっていました。

私だけででなく 素敵なお姉さん達からも
「ママ」と呼ばれているのは
なんだかとても誇らしく思えました。

新1年生になって間も無くの事
担任の先生が
「皆さんはもう幼稚園生ではありません。
いつまでも、赤ちゃんのようにパパ、ママと呼ぶのは
やめてお父さん、お母さんと呼びましょう」と言われました。

私は先生のご提案を丁重におことわりしたのです。
「アメリカではお母さんのことをママと呼びます。
小学生になっても、ママと呼びます。
ママと言う言葉は英語なので
英語が好きな私はこれからもママと呼ぶようにします」と。

そして国語の時間に書いた詩のは
「わたしのママ
わたしのママはよる、ぎんざではたらいている。
さびしいけれどわたしはなかない。
だってわたしがなくとママもなくから」

この詩は学校代表で区の子ども文集に乗ることになりました。

でも実際に掲載されたものは
銀座の部分を削除されたものでした。
わたしにとって銀座は
キラキラした街明かりと素敵なお店
そして綺麗で優しいお姉さんたちがたくさんいる
夢のような街なのです。
それなのになぜ、一番大切な部分を
どうして削除してしまったのかと
先生にはしっかり抗議させていただきました。

究極の早生まれで体も小さく
自分の興味のない授業の時は
「わたしはこのお勉強よりお絵描きが好きなので
お絵描きをしたいと思います」と
教科書を開くこともしない。
かと思えば、自分の思いに反することに対しては
先生を言い負かしてしまうことも。

困り果てた担任の先生はママに相談しました。
小学校1年生にして留年の提案を。

夏休み中に対処することを約束し2学期が始まるまでに
返答をすることとなりました。

この事でママは私を叱る事はありませんでした。
今思うと、ママの気持ちの中にもすっきりしない思いがあったのでしょう。
ただ、このままにしておく訳にもいきません。

そんな事を考えながら銀座の街を歩いていたママの目に飛び込んできたのは
ペットショップの客寄せになっていた一匹のヤギでした。

その頃私は、暇さえあれば近所の赤ちゃんをおんぶして
小さい子の手を引いて子守を引き受けていたそうです。

自分より弱い存在を守ることで
成長するのではないかと思ったママは
その夜、やぎを連れて帰ってきました。
「今日からこの子はあなたの妹だからね。ちゃんとお世話してあげてね。」

当時人気だったアニメから名前をもらい
「ゆきちゃん」と名付けました

ゆきちゃんをお散歩に連れて行き
餌を与え、トイレの世話
それはそれは甲斐甲斐しくしていたそうです。

でもやぎにとって都会の真ん中の生活はには厳しいものだったのでしょう。
ゆきちゃんは日に日に弱っていき、餌も食べなくなりました。
私は「ゆきちゃんがご飯を食べるまで私も食べない」と。
それほどゆきちゃんを大切にしていたそうです。

夏休みも終わりに近づく頃、とうとう冷たくなったゆきちゃん。
この死を私に伝えることができなくなったママは
「ゆきちゃんね、東京の生活が合わないみたいなの。
だから動物病院の先生が北海道の牧場に連れ行ってくださったの。
元気になった頃に北海道に会いにいきましょうね」
泣きじゃくりながら「北海道で暮らすのがゆきちゃんのためなら
我慢する」
そう答えられた私は少しだけ成長できたようで
小学校留年はなんとか免れることとなったのです。

もちろんそれだけではありません。
この経験を機に、ママは私が義務教育を終えるまで
学校へ足繁く通うようになりました。
学校での私の様子が心配だったこともありますが
担任の先生から見え隠れする偏見を払拭するためだったのでしょう。
進んでPTAの役員を引き受け、町内会にも参加するようになりました。
深夜に帰宅した後、PTA広報の原稿を作り
私を学校に送り出してからは町内会のお祭りの準備のお手伝い。
そんなママに対してとやかく言う人たちはいなくなりました。
あの時のママが本当に寝る間も惜しんで努力してくれたおかげで
私たちの居場所を作ることができたのです。

私は20歳を過ぎるまで
ゆきちゃんは北海道で元気に生きていると信じていました。
もしかして小学校留年せずに済んだのは運が良かっただけなのかもしれません。






 




 




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